とうとう 滅びてしまった 「百済」
そのまま・・・ 完全に
ではないことは 知っていましたが、
ドラマを見た上で、 「詳しく知ってみたくなりました。」
日本との繋がりを 改めて知り。。。。。
昔、 あの「歴史無関心時代(笑)」の かすかな記憶![]()
が![]()
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。。。。。 「白村江の戦い」 蘇りました。 ![]()
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それでは、 「百済滅亡後はどうなったか」 を書いてみます。
「 唐は百済の領域に都督府を設置して直接支配を計りますが、主力が
唐に戻るとだんだん百済遺臣による「百済復興」の運動が起こってきます。
百済滅亡を知った「倭」、当時実権を掌握していた中大兄王(後の天智天皇)
は人質として滞在していた百済王子「扶余豊璋」を 急遽、救援軍とともに
帰国させ全面的に「百済復興支援」をすることに。
百済に戻った豊璋王子は「百済王」に推されますが、復興活動により
実権を握る百済遺臣の鬼室福信との間に内紛が起こり、ついに鬼室福信
を殺してしまいます。
この内紛が百済復興軍の力を著しく低下させます。
やがて、唐は再び 劉仁軌の率いる軍を送ってきて。。。。。。。ついに、
663年 倭国の水軍と共に白村江(白馬江)で決戦に。(白村江の戦い)。
これには勝てるはずもなく。。。「大敗」した倭軍は、各地に散らばった兵士
を集め引き揚げる事に。その際に、多くの百済難民(貴族)達が一緒に
逃れて「倭」に渡って来たそうです。![]()
豊璋は「高句麗」に逃れますが。。。。その「高句麗」もやがて・・・・・
新羅と唐の連合軍によって 668年「高句麗滅亡」。
その後、高句麗王族と共に唐の都に移されますが、高句麗の王族たちは
「官職」を与えられますが豊璋には与えられず。。。中国南部嶺南地方に
流刑されたとも言われているようです。。。。。 ![]()
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豊璋の弟 勇(『日本書紀』によれば善光と言われる)は、「倭」に渡来人
として滞在。その子孫が持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の位を賜り
、百済の王統を伝えました。
今から1400年近く前のことでもあり諸説色々あって当然と思いますが、
「豊璋」は、人質として来ていたと言うわりに、 実際の待遇はかなり良
かったようですし。。。難民として「亡命」してきた百済貴族の中には
倭の朝廷の役職に就く者も居たり・・・・・・さらに
百済王氏では有りませんが、光仁天皇の妻の一人であり
桓武天皇(732年生まれ)の生母である高野新笠は百済武寧王を祖と
する王族の末裔で渡来人和氏(やまとうじ)の出身という話から見ても、
「倭と百済」は 新羅、高句麗よりも 「良い関係」であった事は確かだった
様です。 」
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