<ネタばれちょっとあり>

カンヌで女優賞獲得の話題作だが、3時間超の長さを耐えられるかなと不安もあった。

 

結果、まったくダレることなく、エンドロールが流れるころには「良い映画を観たな」という満足感を感じた。

 

フランスの大学で哲学を学び、演出家をしている真理はがんのステージ4。

 

日本の大学で文化人類学を学び、老人介護施設のディレクターをしているが、施設運営に悩むマリー。

 

ひょんなことから出会った二人の会話を中心に物語が展開する。

 

二人の会話が日仏語混ざっているのも違和感ない。

 

哲学と文化人類学を学んだ二人なので、資本主義と少子高齢化の関係、マリーが戦う「構造」の問題などハイレベルな内容で、まったく飽きない。

 

日本だけでない、先進国共通の高齢者介護の問題も知れる。

 

滝口監督が脚本づくりの上で、きちんとリサーチしたんだろうなと想像できる。

 

映画として美しいシーンも。

 

まさに、急に具合が悪くなってしまい、故郷の京都にマリーと一緒に戻った真理。

 

マリーを街を見下ろす山の上にまで連れて行き、朝日が昇る景色を見ながらカップヌードルを食べる。

 

日が昇るまでのタイミングで二人の会話が繰り広げられるのだが、一発撮りだろう。

 

段々明かりが変わっていき、シーンとして、とても印象に残った。

 

タバコを吸うシーンが多いのも印象的。

 

マリーはもちろん、末期がんの真理もタバコを吸っていた。

 

これも滝口監督の何らかのメッセージかな。

 

見る人によって、色んなテーマ感を感じられる映画だろう。

 

冒頭に書いたように、エンドロールを見ながら余韻を感じる良い映画だった。

 

国会で再審見直し法案が審議中。

 

自民党内でも何度も法務省案がつき返されるなど、検察を中心とする日本の司法の問題が注目されている中で、えん罪被害者であり、女性初の事務次官にまで上り詰めた村木氏の著作。

 

帯には刑事司法学者・平野龍一氏の「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」という言葉があるが、本書を読めば絶望的で、どれだけえん罪被害者が生まれても検察も裁判所も反省しないのだなと感じる。

 

まず、驚かされるのは村木氏自身が経験した、検察の”ストーリー作り”の実態。

 

村木氏が話した言葉として、<「〇四年六月初め、Bは村木から、『凛の会』への証明書について、『早く出してあげて。決裁のことは気にしなくていいから』と催促されたという」「Bが六月初めに偽の証明書を村木に手渡すと、『ご苦労さま、この件はもう忘れてください』と言われたという」>調書が作られ、その内容が翌日にはメディアに流れ記事になったという。

 

実際には村木氏はBさんと立ち話すらしたことがなく、生々しいセリフは検察が作り上げたもの。

 

検事には、証拠に基づいて調書を作るのではなく、作家のような創作力が必要なようだ。

 

そして、情報をリークされるメディアを通じて、村木氏=犯罪者のイメージが作られていく。

 

また、人質司法や証拠の全面開示の問題。

 

最近も16歳の女性が逮捕後、摂食障害になり死亡したというニュースがあったが、大川原化工機事件が起きても、変化はない。

 

袴田事件が起きても証拠の全面開示には、検察は反対をする。

 

これまで数々の問題を起こしてきたにもかかわらず、根本的には変わらないのが検察なのだ。

 

村木氏の事件を受けて<公表された検証結果報告書を見ても、ばれていることは素直に認める、ばれていないことは表に出さないという姿勢が露骨で、組織として何が問題だったのか、どのような再発防止策が必要なのかといった点については、まったく踏み込んでいませんでした。(略)私は職場復帰してしばらくした頃、笠間治雄検事総長に面会する機会を得ました。(略)笠間さんはこうおっしゃいました。「申し訳ありませんでした。組織に無理がかかっていた。問題はすでに起きていた。でも、中からは変えられなかった」>

 

正義感から検事になったはずであろう彼らが、組織の問題を自分たちでは変えられない現実。

 

これこそ、平野龍一氏が言う「わが国の刑事裁判はかなり絶望的である」の原因なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

ケン・ローチ監督の前作『家族を想うとき』同様、BBC制作で、しっかりと取材に基づいているのだろうと想像できる社会派作品。

 

思い返せば、”アラブの春”はインターネットのプラスの側面として例示される民主化運動だったが、それによってシリアはひどい内戦がおこり、欧州に難民が押し寄せ現在に至った。

 

一応、アサド政権は倒れたが、本作はまさにその問題が顕著に表れていた時期の英国のさびれた村の物語。

 

労働者階級の癖のある英語で、シリア難民をののしる村人。

 

パブではFワード連発でヘイト発言が繰り返される。

 

しかし、そのパブを営むTJは難民たちの支援をしていて、旧友たちとは微妙な距離感。

 

シリア難民の女性・ヤラとの交流を通じて、パブの使っていなかったスペースを使って日本で言う子ども食堂を開き、村人と難民の交流の場にするのだが、それを良く思わない村人たちの裏切りで、活動が続けられなくなる。

 

裏切りを知ったTJは幼馴染のチャーリーのもとに行き、村が変わったのは難民のせいではない。

 

はけ口を上ではなく下に向けるのは違う。

 

そんな言葉をかけるのだが、まさにこれこそケン・ローチ監督の思いだろう。

 

過去の作品もそうだが、イギリスだけでなく先進国で起きている社会矛盾の共通項であり、”日本ファースト”が叫ばれる日本でも似たようなことは起きている。

 

SNSを通じて、そして直接行動としてもヘイトがはびこる嫌な時代。

 

しかし、本作は希望を感じさせるエンディングで意外でもあった。

 

よく考えると、ちょっと無理がある展開だったが、ケン・ローチ監督のことだから、何か狙いがあってのことなのだろうと納得。