『怒りのデス・ロード』のド派手爆音と世界観と比べると、主人公・フュリオサの成長物語という意味で、シリアスでちょっと地味と言える。

 

ウォーボーイズの狂って、ちょっと笑っちゃう感じも抑え気味。

 

その中で、ディメンタスを演じたクリス・ヘムズワースだけが滑稽な存在でクスリとさせられる。

 

しかも、見た目が完全にマイティ・ソー。

 

フュリオサの成長物語として、怒りのデス・ロードへのつながりが良く理解できる。

 

彼女が隻腕な理由や“緑の地”の秘密も。

 

ただ、アニヤ・テイラー=ジョイはシャーリズ・セロンと比べると線が細すぎる。

 

『モンスター』を演じたセロンとの差か。

 

とはいえ、細いながらもアニヤ・テイラー=ジョイも子ども時代を演じた子役も芯の強さを感じる演技。

 

また、最後に復讐を果たすも、勧善懲悪の物語ではないところに時代性も感じた。

 

2022年に出版されている本だが、先日読んだ『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』とペアで考えさせられる内容。

 

すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる。

 

一方で、何に役立つかわからない知識は何かの時に自分を助けてくれる。

 

そして、教養とは学ぶとあらゆることにオロオロせずに生きていける。

 

そういうものだと思っているので、読書をビジネスに役立てようと思ってはいない。

 

しかし、それは仕事柄どんなジャンルの本でも仕事につなげることができるからかもしれない。

 

多くのビジネスパーソンは、“焦り”を感じていて<手っ取り早く何かを知りたい。それによってビジネスシーンのライバルに差をつけたい。そうしないと自分の市場価値が上がらない。成長できない。競争から脱落してしまう…。今の時代の「教養が大事」論は、そんな身も蓋もない欲求及び切実な不安と密接に結びついている。>

 

だから、コスパ良く“教養を身につけたい”と考える。

 

しかも、それは読書ではなくYouTube動画という選択肢になる。

 

結局、それでは差をつけることなんてできないから、むしろコスパ悪いのにと思うが、その説得は何かに追いやられるビジネスパーソンには届かないのだ。

 

教養ブームが行きすぎている中で、本書では2019年以降に出版されたファスト教養的な書籍のタイトルが紹介されている。

 

『教養としてのラーメン』『教養としてのマンガ』などは苦笑程度で済むが、『教養としてのヤクザ』に至っては冗談が過ぎる。

 

それでも、そのような本を入り口に興味を持って、深く学んでいくのならよいだろう。

 

しかし、それを無駄と考えているからファスト教養に頼ってしまうのだ。

 

そういう意味で、“無駄知識”を仕事につなげられる私は幸せなんだな。

アウシュビッツなど収容所を描いた映画はたくさんあるが、収容所の壁1枚外に暮らす家族の日常という目線は興味深い。

 

冒頭、真っ暗な画面に不気味なSEのような音楽で始まる。

 

役者のアップがなく、ほぼヒキの映像で淡々と物語が展開するのがドキュメンタリーっぽい。

 

一方で、途中に抽象的なシーンがあったり、画面が真っ赤になったりする。

 

何より、収容所所長・ヘスの家族の日常の中で、薄く聞こえる収容所での罵声、銃声、悲鳴が想像力をかき立てる。

 

できれば、何を言っているか字幕で知りたかった。

 

しかし、そんな『音』には“無関心”でヘスの妻は庭造りや子育てに執心。

 

ヘスが転属されると、今の生活を変えたくないと夫を単身赴任させてしまう。

 

今の我々がそれを観ると、そんなところで暮らすのかとなんだか奇妙に感じる。

 

でも、ウクライナやガザ、それ以外にもシリアや北朝鮮、ミャンマーなどの現実より自分の”関心領域”でいっぱいいっぱいの我々とヘスの妻は大差ない。

 

きっと人間とはそういうもので、あらゆるものに関心を持つと精神が崩壊してしまうのだろう。

 

ユダヤ人の虐殺を“作業”とすることで、生産性や効率を上げるためにイノベーションを続けた、ナチスの一人一人は、家庭に帰ればよき父親だったのだ。