コロナ禍の米国の田舎町での市長選をめぐる物語。

 

なんだか創作ではなく、実際に起きた事件のように感じる。

 

狂った米国を凝縮した様な映画だ。

 

序盤はコロナ禍でマスクの着用をめぐって、市長とホアキン・フェニックス演じる保安官のジョーが対立し、ジョーが市長選に立候補する流れ。

 

ジョーは喘息持ちだから、マスクをしたくないというのが、日本人には理解できないかも。

 

その背景には心を病んだ妻(エマ・ストーンが『哀れなるものたち』に続き変)との夫婦関係の悩みがあったり、陰謀論にとらわれた義母を疎ましく思いながらもちょっと影響を受けたりといった問題も抱える。

 

中盤以降はスリラーな展開。

 

ジョーは恥をかかされ、殺人を繰り返すが、保安官として黒人の部下を容疑者にしてしまう。

 

そこから、ブラック・ライブス・マターや白人至上主義、アンティファに子どもへの性虐待といった米国が抱える問題が絡み合う。

 

陰謀論や心を病む人が多いのはこういう背景があるからなのだろう。

 

でも、そんな数々の問題があるのに皮肉っぽくて、笑えてしまうシーンも多い。

 

ラストも無茶苦茶だけど、これに近いことは今のアメリカなら起きてもおかしくないと感じさせる。

 

日本人でよかったと思うけど、アメリカ人はこの映画をどう観たのだろうか?

 

和田静香氏の著書としては『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか? 国会議員に聞いてみた。』を読んだことがある。

 

小川純也衆院議員に政治への疑問を繰り返し聞くもので、それまで気づかなかった視点が知れて勉強になった。

 

本書も期待したのだが、なんだか愚痴を聞かされているだけの本に感じた。

 

”行き過ぎた自己責任論”には、問題があると私も思うし、セーフティーネットは必要だと思うが、本書を読むと「やっぱり自己責任だよ」と言いたくなる。

 

インタビューイーの経験は、非常に重いもので同情すべきことなのかもしれないが、それが愚痴に聞こえるのは、文体の問題なのか?

 

具体的なエピソードで心に残るものはなく、なんとなく「運が悪い人っているんだな」という感じ。

 

私も中高年シングル男性だが、自分は恵まれていると再確認できたことが成果だ。

 

”保守”の定義は英国と米国で大きく違う。

 

個人的には「人間は愚かなもの」だという前提に立つ英国の保守主義こそ、日本にも求められるものだと思っている。

 

だからこそ、先崎氏のような博学の知識人が「真の保守」を問うてくれるなら、読まないわけにはいかない。

 

ソクラテスは魂の第三の役割として「気概(テーミス)」を発見する。

 

<「気概」には「理知」を補助する独自の役割があって、自己保身にたいする怒りと誇りが入り混じった感情です。(略)古代ギリシアで、「気概」をもった具体例は戦士でした。戦士の特徴は、承認のような利益追求を第一とする生き方とは異なる点にある。効用最大化の観点からすれば、一番避けるべき行為、すなわち命を賭して国家のために奉仕する役割を担う点にあります。みずからの命を差し出す非合理によって、公共の善を守ろうとする。この行為をソクラテスは徳と名づけ、商人たちとは異なる意義を強調します。>

 

どの時代にも、効用最大化を目指し、ハックする生き方をする人はいただろう。

 

現在はハックしたもの勝ちみたいな風潮があるが、損得を超えた「気概」を持った生き方をする人が尊敬される社会の方が多くの人にとって生きやすいはずだ。

 

保守政治家を自認する人なら、そういう世の中を目指してほしいものだが、今の永田町の”保守”の人々は真逆な存在に感じる。

 

作詞家・阿久悠が警察官だった父について書いた作品からこんな話も紹介している。

 

<他者の視線を意識した「使命と倫理」こそが、一人の人間を人間たらしめている。使命とは、警官が求められる役割をこなすことであり、定義の枠外にでるのではなく、矜持をもって職責をはたすことです。たとえ窮屈であっても、倫理的に生きて見せることが、「人間」だと言っている。父の自由は、社会的使命を全うできたときに感じる充実感です。>

 

そのうえで、先崎氏は<真の保守主義とは、冷たくバラけた、衰弱した個人主義への処方箋である。>と定義する。

 

私自身も「気概」や「矜持」「使命」といった言葉を大事にしたいと思った。