オレが持っているモバイルと言えば、専らPHSなのだが、一応電子書籍を読むためにキンドルも持っている。しかし、外へ出かけるときにはほとんど持ち歩かない。「おいおい、それでは電子端末の意味がないじゃないか」とモノを申したくなる方もいるかと思うが、オレにはオレなりの理由がある。

 そもそも、なぜいつまでたってもPHSからスマホに切り替えないのかというと、一つは災害時の電波供給にPHSは強いという利点がある。インターネットは使えるものの、容量が小さいためにスピードが遅いし、開ける情報にも限界があるが、そのため、良くも悪くも電話の機能以外に、端末に依存をしなくなる。

 もしも、スマホやタブレットを持っていたら、道に迷っても漢字が読めなくても、大概それらが解決してくれる。だが、オレの場合、端末画面を見下ろしている時間に、自分はもっと大切な景色や兆しを見過ごしてはいまいかと不安になるのだ。画面に意識を奪われている間に、ミック・ジャガーが手を振りながら靖国通りを通り過ぎたかもしれないし、憧れのショーパン(生野陽子)がオレに愛の告白をしようと、いじらしくオレの背後に立っていたかもしれない。端末から得られる情報は確かに無限だが、オレに与えられた時間には限りがある。できるなら、その時間を実りあることに使いたいと思うんだ。

 だから、知らない街で知らない場所に行くときは、ある程度前もって下調べをしつつ、現地に着いたら、とにかくその土地の者に尋ねることにしている。

 下調べでは、ピットインが新宿の三丁目か二丁目にあるというところまでわかっていた。まずは新宿コマのあたりを徘徊し、居酒屋のチラシを配っている若者にピットインはどこかと尋ねた。若者は店の名を聞いてもピンときた様子はなく、オレは礼を言ってすぐに彼から離れた。

 ほどなくして、道路に向けて大きな窓を解放したイタリア料理の店に行きあたり、その入り口に立っているウェイターに道を尋ねた。
「確か、ピットインは二丁目ですね。店主に聞いてきます」若いウェイターは、客でもない不審な車椅子徘徊者のために、快く道を調べてくれた。「この先をまっすぐ行って、大きな道路を渡ったら二丁目なんです。その、ちょっと左の細い路地を入れば、すぐにわかるそうですよ」
 オレはいつかこの店を目当てにまた新宿にやってくることを約束し、彼の指示通りに歩きだした。すると、彼の案内通りにピットインを見つけることができた。

 ビルのエントランスに入ると、エレベーターを見つけた。しかし、地上階だけの利用に限定されていて、地下にあるピットインまで降りることができなかった。オレは地下につながる階段の上から、下にいる誰かしらに声をかけてみた。しかし、オレの声が小さいのか、すでに大音量でイベントが始まっているのか、誰もオレに呼応する者はいなかった。

 その時、ちょうど地下へ降りていく女性がいた。オレは、彼女を捕まえて、「地下にいるスタッフを呼んできてもらえませんか」と頼んだ。彼女はにっこりとほほ笑み、「いいですよ」といって、軽快に階段を下りて行った。

 ほどなくしてピットインのスタッフがやってきて、オレを地下まで担ぎ下ろしてくれた。イベントはすでに始まっており、『ケモノ』というバンドが演奏をしていた。オレはクラブサンドとビールを注文し、店の奥に向かった。DJブースに大塚広子を見つけたが、すでに一仕事終えて片づけをしていて、その間もイベント関係者やファンから語り掛けられて忙しそうだった。

 オレはクラブサンドをほおばり、ビールでそれを空きっ腹に流し込んだ。ケモノの演奏は素敵だった。彼らをプロデュースした菊地成孔も何曲かコーラスに加わった。大塚広子は夢で見たよりも愛らしく、クラブサンドは懐かしい喫茶店の趣があったうえに、美味かった。夜は更け始め、やがて演奏が終わった。そして、菊地成孔がDJを始めた。

「あー、オレは今、新宿にいるんだなぁ」
 腹が満たされると、ようやくオレはそんな感慨に浸ることができた。

 つづく・・・。