今更ながら申し上げると、この度の上京は新宿のライブハウス、ピットインで開催される『菊地成孔presents、モダンジャズ・ディスコティーク』を楽しむためだった。午前中まで雨が降っていたので、随分と行くか行くまいか迷ったが、いよいよ出掛けないと開演に間に合わない時間となった頃、幸いに雨が上がったので慌てて身支度を整えて家を出た。

 菊地成孔のライブには何度も足を運ぼうと試みたが、その度に他のイベントと重なったり、体調が優れなかったりして行きそびれていた。そんなとき、ふと不思議な夢を見た。ほんの1、2週間前のことだ。

 その夢にジャズDJの大塚広子が現れ、どういうわけか隣り合った椅子に腰掛け、オレと彼女はまるで恋人同士のようにイチャついていた。夢のなかでは、大概オレは車椅子に乗っていない。キスをするほどまで濃厚ではないが、頬を寄せたり、頭を撫でたりしあっている。もちろん、彼女とは数年来の知人ではあるが、そうした関係に陥ったことはない。夢から覚めて、オレはとても彼女に会いたくなった。

 Facebookで彼女のスケジュールを確認すると、オレが未だ鑑賞できていない菊地成孔との競演があった。自分の週末の予定を確認したら、幸いに何もない。これは行くしかないと決めて、冒頭のように出掛けたわけだ。

 熱海駅でJR東日本に乗り換えると、オレは車椅子からシートに乗り移った。車椅子のままだと安定が悪く、電車の発車時や停車時に何かに捕まって体を支えなければならないからだ。車椅子のスペースに先客がいたこともその理由のひとつだ。

 ほどなくすると、先客の車椅子のおじさんが、ぶつぶつ言いながらガタゴトと何かを床に落とした。彼が進行方向に対して背を向けているので、何を落としたのかはわからなかった。しかし、そのうちオレの足元にミルクティーのような茶色い液体が流れてきたので、水筒か何かを落としたのだろうと察しがついた。おじさんの方を見ると、彼の足下から乗降口まで、水浸しになっていた。

 それが真鶴辺りでのことだったので、オレが下車する品川までの長い間、各駅で乗降する客やおじさんのそばにあるトイレを利用に来る人たちが、水浸しの床に顔をしかめながら通り過ぎた。

 オレの向かいには長袖を着てマスクをした風邪気味の人がいて、その奥のボックス席にはえげつない音量で空咳をする土方のおじさんがいた。床のミルクティーを見て車両を変える人もいたが、土方の空咳に耐えられずに席を離れる人もいた。オレはといえば、床に置いていたバッグの底もスニーカーの靴底もすでに濡れてしまっているし、車椅子に乗り換えて、まだ先の長い道程を車内で過ごすことの方が億劫だったので、そのままそこに座り続けて、沢木耕太郎の『流星ひとつ』を読み続けた。

 土方の空咳に車椅子のおじさんがぶつぶつと文句を返す。そんなとき、車両の先頭にいた今時のギャルが、「まぢぃー、何でそっちに乗ってるわけー」と大声で笑いながらオレの前を通った。見上げれば、彼女は連結口の向こう側にいる誰かに語りかけているようだった。その声に対し、また車椅子のおじさんがぶつぶつと文句を言った。程なくして、隣の車両から、今時ではない顔黒のコギャルが現れた。こちらの車両に入ってきたとたん、水浸しの床を見て、「まぢっ、なにこれ。ヤバくね?」と大声で言った。

 二人のギャルは一度車両の先頭に行ったものの、また折り返してきて隣の車両へ移っていった。その時に驚かされたのは、今時のギャルの方が、車椅子のおじさんに対して、「大丈夫ですか?」と労ったことだった。ギャルたちの天真爛漫な行動は、つまり子供のような純朴さの現れであると、目からウロコが落ちる思いだった。
「大丈夫って、なにがだよ」
 おじさんはどことなく喧嘩腰だ。
「なんかこぼれちゃってるから」
 車椅子のおじさん目線にあわせるように、ギャルは身を屈めていた。しかし、車椅子のおじさんは、床を汚してしまったことを指摘され、体裁が悪くなったのか「おまえら、うるせーんだよ」と逆ギレし出した。
すると、顔黒のコギャルの方がすぐさま反撃に出た。
「は?意味わかんねー。え、あー、うるさい?それよっか、そっちの床の方がヤバくね?」
 彼女も彼女で、ある意味で純朴ではあった。

 つづく。