皆さんこんばんは。
今更ですが、最近「あなたの番です」というドラマにハマっています。笑
全然観てなかったんですけど、この前録りだめたやつを観たら面白すぎて。
怖いんだけど結末が気になるので、怖いのが苦手ではありますが恐る恐る観てます。
今週はどうなることやら(^-^;
さて、今週のお話に入ります。
「障害があるから不幸なのではなく、障害を理由に受け入れられない現実が不幸である」
この言葉、僕が最近読んだ本に載っていた一文です。
この文を読んで「なるほど」と思われる方も多いのではないでしょうか。
僕もそのうちの一人です。
一方で「え?障害があるからこそ大変で、不幸を感じるんじゃないの?」と疑問に思う方もいると思います。
確かに、障害特性があることで不便さを感じることはあると思います。
発達障害の場合であれば
やることは沢山あるのに何から手をつけていいか分からなくなったり、うっかりミスが多くなってしまったり。
いろいろなところで特性によって不便さを感じることはあると思います。
ただ、障害があること自体が不幸というより、適切な環境設定がされていないことや周囲の人達に理解されないからこそ不幸な気持ちになるわけで。
もしこれが環境が整っていて、周囲からも何ら変わりなく受け入れられていたら、少なくとも自分の障害に対して絶望感を抱くことはないと思います。
それと同じで、周囲が特殊なものとして扱うから「障害」として強く認識されてしまうわけで
「障害があるから大変」とか「障害があるからこうしてあげなきゃ」など、「障害だから」という前提を一旦置いて
その人を1人の人間として接することで、本人にとっても「障害」の意味合いが変わってくるのではないかと思います。
僕がそれをヒシヒシと感じたのは、今の彼女と付き合ってからでした。
当時治療を始めていなかった僕は、周囲から女性として扱われていました。
その度に「自分は女性」という現実を突きつけられ、自分の生まれ持った障害に対して絶望していました。
でも、彼女といる時だけはそれを忘れ、安心して過ごすことができていました。
「障害はある。それは変えられないけど、今のこの人生は悪くない」そう思えました。
それは、彼女が僕を1人の男性として認識して一緒に居てくれたからです。
これが「性同一性障害の彼氏」という扱いで付き合っていたら、一緒にいる度に障害を感じ、その度に絶望を感じて過ごしていたと思います。
なので、一緒にいる人が障害を持っている人に対してどう関わっていくかで
その人の障害への認識や自分の境遇への思いも大きく変わると思います。
これは、障害者と健常者に同じレベルを求めるということではなく
その人の特性と人格を切り離して接するということです。
特性は自分の力だけではどうしようもないこともあるので、そこはサポートする。
ただ、「障害=その人」ではないので、それ以外の部分は健常者と同じように接する。
このメリハリが大切なんじゃないかと思います。
毎日の生活の中で不便さや壁にぶち当たる日があったとしても
家やデイにいる時だけは障害を忘れられる、バリアフリーになれる
僕にとって彼女がそうであったように
彼女にとっての僕もそうでありたいですし
子ども達にとってもそんな存在でありたいと思います。
皆さんの場合はいかがでしょうか。
同じ心持ちの方がいたら嬉しいです。
今週も最後まで読んで頂きありがとうございました。
また来週も来てください(^^)