子ども達とセッションしていく中で、よく大人に

「諦めないで頑張れ、頑張ればできる」と言われたとか

できないことに対して「自分で考えなさい」と言われた

という話を聞きます。

 

それだけじゃなく

発達領域に携わる人でも

「あれは甘えだ」とか「都合のいいことばかり言っている」

という言葉を耳にすることが残念ながらあります。

 

 

でも、本当にそうなのかな?と一度立ち止まって考えてみてほしいです。

 

これは極論ですが、例えば

視力0.1の人が、周りが見えなくて眼鏡をかけようとするのを

「頑張れば見えるから、諦めないで見えるまで頑張れ」

って言いますか?

 

足の支えが不安定で杖を使ってやっと歩ける人に

「甘えるな、杖なしで頑張れ」

って言いますか?まず言いませんよね。

 

そんなこと口にしたら、きっと多くの人が

「ひどい」とか「ありえない」と言うと思います。

 

 

では、発達障害の人の場合はどうでしょうか?

2つ以上のことを聞き取れなかったり

周りのものに気を取られて注意散漫になってしまったり

彼らにも沢山の障害が立ちはだかっていると思います。

ただ目に見えないだけで。

 

実際、僕の彼女もその障害の繰り返しで

自分はただの甘えなんじゃないかと考え

落ち込んでいる時期がありました。

 

こうなってしまうと周囲からだけでなく

自分でも自分を責めるわけですから

心の傷はもっと深くなっていくと思います。

 

このブログを読んでいる方の中にも

同じ様な経験をしている人もいるかと思います。

 

 

でも、頑張っても乗り越えられない壁があるから

「障害」というんだと思うんです。

それを頑張れって言われても、僕はひねくれ者なので

ただがむしゃらに壁に体当たりしろと?

と思ってしまいます。

そしてそれって

心が痛いだけでただただ苦しいなとも。

 

それなら周りが協力して環境を整えたり

どうやったら取り組みやすくなるかを一緒に考えたり

そっちの方向で一緒に頑張ればいいんじゃないかと考えてしまいます。

例え実現が難しいとしても

一緒に考えるだけでそこに優しい空気が共有できて

その人の心も、協力する人の心も楽になるんじゃないでしょうか。

 

そう考えると

考えることを放棄して甘えているのは一体どちらなのか

障害を甘えとして都合よく用いているのはどちらなのか

と感じます。

 

1人で頑張らせないで、一緒に頑張ろうということです。

 

 

自分で自分を責めてしまう人たちも

「甘え」というより「特性」と考えるとどうでしょうか。

 

「なんでもかんでも障害のせいにしちゃ...」と思うかもしれませんが

「甘えだ」と思うと自分のせいにしちゃいますが

「特性だから」と思うと

「じゃあどう対策すればいいかな?」

と、次の手を考えやすくなるのではないでしょうか。

 

仮に甘えだったとしても

あえて特性のせいにすることで次の手を考えられるなら

そっちの方が一歩前に進める感じがしませんか。

 

これはサポートする側にも同じことが言えると思います。

 

 

なので、甘えかどうかは一旦さておき

「じゃあどうしようか」

のスタンスで一緒に考えてみるのも1つの手かもしれません。

 

 

最後まで読んで頂きありがとうございました(^-^)