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私はサザンオールスターズ 派!

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1975年 頃、青山学院大学 で活動が始まり、音楽サークル “Better Days”(ベター・デイズ)のメンバーだった桑田を中心に母体となるバンドが結成される。初期の頃は“温泉 あんま ももひきバンド”、“ピストン 桑田とシリンダーズ”、“ピストン桑田と脳卒中 ”、“桑田佳祐とヒッチコック 劇場”など、奇抜なバンド名でコンテスト毎に何度もバンド名とメンバーを変更していたが、最終的には原由子 参加の際、桑田の青学時代の同級生である宮治淳一(現:ワーナーミュージック・ジャパン ストラテジック本部シニア・チーフプロデューサー)が、サザン・ロック と、アメリカ サルサ ・グループ、ファニア・オールスターズ を組み合わせた“サザンオールスターズ”を風呂 の中で安易に思いつき、そのまま使用することとなった。この「オールスターズ」には「これ以上バンド名を考えるのが面倒だった」という理由のほかに、「(桑田以外の)メンバーチェンジがあってもいいよう、流動的に入れ替わる全てのメンバーを総称してのバンド名」という意味もあり、当初は“桑田佳祐&サザンオールスターズ”と名乗っていた時期も存在する。「サザンオールスターズ」名義での最初のライブは公式ページには1976年 4月11日 と記されており、この時桑田は「じゃあ司会が『サザンオールスターズの皆さんです』と紹介したら出るんだな?」と段取りの確認を行っただけだったとされる。

幾度かのメンバーチェンジの後、1977年 にアマチュアバンドのコンクールである「ヤマハ EastWest '77 」に出場し、桑田がベストボーカル 賞を獲得。この頃には青学生ではなかった松田弘 野沢秀行 も加わり、メンバーはデビュー 時の6人に固まった[1] 。この編成は、サザン・ロック の雄・リトル・フィート の「リードギター サイドギター ベース ドラムス キーボード パーカッション 」による6人編成と同じという所以もある。この当時、既にセミプロとして活動していた野沢は当初バンドへの参加を断り続けていたが、「コンクール出場が決定した際になってから、突如参加表明をした」という経緯があった。冗談ではあるが、この後メンバーによって「知らない間に野沢がメンバーに加わっていた」「現在も正式メンバーではない」ともいわれている。この頃には頭部分の「桑田佳祐 &」が取れ、グループ名がサザンオールスターズとなる。なお、原の著書によればこの頃に一度だけ「パロディハウス」という名前に変えようとしたが、「ダサい」との理由で即サザンオールスターズに戻したという。公式ページではこの1972年 から1977年までを「夜明け前」と呼称している。

当初は独特かつ奇抜なその音楽性が敬遠され、大手の事務所はサザンを敬遠していたが、当時新興事務所であったアミューズ 大里洋吉 社長(当時)が「フォークソング の時代は終わり、これからはロックの時代が来る」という判断の下でスカウトした。ただし、メンバーの大里に対する第一印象はあまり良いものではなかったという。また、大森と大里がデビューにむけて着々と準備を進めるなか、焦ったためか桑田がワーナー・パイオニア とレコード契約を結んでしまったというエピソードもあるが、この件は関係者が出向いて話を収めたという。

デビュー

1978年 6月25日 シングル 勝手にシンドバッド 』でビクター音楽産業(現・ビクターエンタテインメント )からデビューし、それまであった歌謡曲 ロック などのジャンル にとらわれない、衝撃的な印象を残す。事務所側はこのデビューに際し、フォークシンガーを中心に「テレビ出演の拒否」をする風潮が強い中、あえて音楽番組に積極的に出演させるほか、ドラマ・CM等のタイアップを中心にお茶の間層の取り込みを狙う戦略を取った。

だが、当初は桑田の「目立ちたがり屋の芸人 です」発言(ただし、これらの発言は「台本によるもの」と後年に明かしている)、ジョギング シャツ +ジョギングパンツスタイル(桑田によると、事務所から衣装代として1万円が渡され、たまたま入ったスポーツ用品店の店員が「まけてくれる」と言ったことから、なんとなく着ただけであるとのこと)、歌番組では史上初めて と言われる歌詞テロップ表示、「何を言っているか聞き取れない」と言われた歌などからコミックバンドと評される向きもあった。

年内にはこの『勝手にシンドバッド』がスマッシュヒットしたことでスターダムにのし上がったものの、この曲のヒットによって「次のシングルでのヒット」も確約せざるを得ない状況になり、桑田は山中湖のレコーディングスタジオで「曲作りのための“缶詰状態”」にされるなど、事務所やレコード会社からのプレッシャーを受けながら多忙な生活を送っていたが、「ノイローゼ になるほどだった」と後に語っている。また、この精神状態の中から生まれたのが2ndシングルの『気分しだいで責めないで 』であった。

『いとしのエリー』の発表、音楽製作への専念

翌年 3月25日 、3rdシングル『いとしのエリー 』を発表。レコード会社との間で「3枚目のシングルまで同系統の楽曲を発表する」という旨を話し合い、後の4thシングルとなる『思い過ごしも恋のうち 』が発売されることも半ば内定していたが、桑田曰く「メンバーは飽きちゃってた」「(ビートルズ の)『レット・イット・ビー 』のレコーディング風景が頭にあって、あんな音楽が出来たらいいと思った」ことから予定を変更。この曲の発表で「本格派の音楽バンド」という評価を受け始めるようになり、その人気を確実なものにした[12]

そのような中、1980年 に“FIVE ROCK SHOW”と銘打った計画を開始[13] 。「テレビ などに一切出ず、楽曲製作やレコーディング に集中する」「5ヶ月の中で毎月1枚ずつシングルを出す」と発表したが、そのシングルはメディアへの露出が大幅に減ったのも影響したのか、どれも「ヒット」と呼ぶには至らなかった。この間の1981年 発売のシングル『Big Star Blues (ビッグスターの悲劇) 』は現在でもサザンの全シングル中ワーストの売り上げを記録している[14] 通り、アルバムは毎回チャート上位を獲得するものの、シングルは売り上げが低迷する状態が続いた。

『チャコの海岸物語』 - 大作『KAMAKURA』の発表

1982年 1月21日 に『チャコの海岸物語 』を発表。桑田曰く「グループ・サウンズ のパロディ」であったり、当時人気絶頂であったアイドル 田原俊彦 色を意識して歌ったりと、起死回生を賭けた開き直りの歌謡曲 だった[15] 。この直後、桑田と原は結婚を発表し、TBS 音楽番組 ザ・ベストテン 』などでも祝福され、結婚式にはファン を呼ぶなど公私共に祝事が続いた。

1985年 にはサザンとしては初の2枚組オリジナルアルバム『KAMAKURA 』を発売した。数回の発売延期を重ねつつも長期間のレコーディングセッションの中で生まれたこの濃密なアルバムには、サザン史上最高のアルバムだという声もある[1] 佐野元春 から声がかかり、「国際青年年記念 ALL TOGETHER NOW 」にも出演した。同製作時期に原が産休に入り、サザンとしての活動もひとつの頂点に達してしまったため、一旦活動を休止。桑田はKUWATA BAND としての活動の後個人ソロを開始し、他のメンバーもそれぞれソロ活動に入った。

活動再開 - 小林武史とのコラボ

1988年 6月25日 、デビュー10周年の記念となる日にシングル『みんなのうた 』を発売し、サザンとしての活動を本格的に再開した。加えてこのシングルから小林武史 アレンジ プロデュース業 を共に行うようになっている。前年に桑田はソロ活動で小林と共同プロデュースを行い、非常に完成度の高いアルバムを作っていた。「このアルバムのシェフは小林君、自分は素材として気持ちよく仕事ができた」と語っており[16] 、その流れでサザン本体にも合流したものとされる。

この時期から楽曲製作に関して「桑田(+アレンジャー )+スタジオ・ミュージシャン +プログラマー マニピュレーター +レコーディングエンジニア 」という図式が見られるようになり[17] 、桑田以外のメンバーが干渉する割合が減ったと言われている。小林と桑田はさらに原由子の2枚組ソロアルバム『MOTHER 』のプロデュースも担当し、桑田はソロライブで「彼が嫌だと言っても、これからのサザン関係巻き込んでいきます!」と小林を絶賛していた[18]

1991年 には関口が病気療養で休養に入るが、1992年 7月21日 に『シュラバ★ラ★バンバ/君だけに夢をもう一度 』『涙のキッス 』を2枚同時発売し、サザン初、そしてオリコンとしても初のシングルチャート初登場1,2フィニッシュを果たした。『涙のキッス』はTBS ドラマ ずっとあなたが好きだった 」の主題歌に起用され大ヒット、1ヶ月近くオリコン 首位をキープするなどサザン初のシングルでのミリオンセラー を突破した[19]

1993年 には『エロティカ・セブン 』がフジテレビ 系ドラマ「悪魔のKISS 」の主題歌に起用され再びミリオンを超える大ヒットを記録[20] 。そんな中、1994年 には桑田がソロ活動を再開、サザンの活動は約1年間休止となった。

セルフアレンジ時代へ

小林武史がアルバム『世に万葉の花が咲くなり 』、シングル『クリスマス・ラブ (涙のあとには白い雪が降る) 』を最後にサザン(桑田ソロ含め)との共同作業から離れる。このはっきりした理由はファンに明らかにされてはいないが、桑田は「(小林は)危ないヤツと分かった」という風に語っており[21] 、蜜月の終わりを示唆している。この「危ないヤツ」という表現は、人間性を否定しているものではなく、アレンジャーやミュージシャンとしての才能を存分に評価し、バンドであるはずのサザンのメンバーを差し置いて、小林に頼りすぎてしまうという意味で発言したものである[21] 。その後この小林との縁で桑田佳祐&Mr.Children 名義でのチャリティー活動や、小林とMr.Childrenの桜井和寿 らが中心となって活動するap bank fes への出演など、作品面以外での交友が続いている。

1995年 、関口が長期の休養から復帰し、5月22日 にシングル『マンピーのG★SPOT 』で活動を再開。これ以降プロデュース名義は主にサザンオールスターズと表記されるようになった。直後に発売されたシングル『あなただけを ~‎Summer Heartbreak~‎ 』はフジテレビの「月9 」枠ドラマ いつかまた逢える 」の主題歌 として起用され、ミリオンを超えるセールスを記録した。その後も1996年 に『愛の言霊 ~‎Spiritual Message 』がミリオン突破するなどし、アルバム『Young Love 』は過去最高のアルバム売り上げを記録した。

しかし、1997年 あたりからサザンのイメージである「夏」「爽やか」などの売れ線系路線の曲とは程遠い、ハードロック などを意識した曲を多くリリースするようになり、ライトファン 離れが急激に加速していった。1998年 にはベストアルバム リリースブームの中『海のYeah!! 』を発売し、大ヒットを記録した。しかしほぼ同時に発売したオリジナルアルバム『さくら 』は暗い作風や、上記のハードロック を意識した作品であったため、過去のアルバム3作連続で記録したミリオンを僅かに下回る結果となった。1999年 には初のドームツアーを行い人気の健在振りを示したが、シングル『イエローマン ~‎星の王子様~‎ 』は、累計で10万枚を(オリジナル盤)下回る結果となった。




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