今年になって「戦後70年」なんてよく言われるようになり、
夏が近づくと更に言われるようになった。
春先からかな~、
なんだか我がじーさんの事が気になりだした。
じーさんとは、あたいの父のことではなく、
あたいの祖父のことです。
子供の頃から「戦争で死んだ」とだけ聞かされてきた。
今年になるまで、「じーちゃんは戦死した」とだけ認識してきました。
で、ずっと“満州で戦死した”と勘違いしてました
そだよね。
良く考えればそんなはずはない。
大東亜戦争・・・つまり第二次世界大戦で戦死している。
大東亜戦争とは
大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・
中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対する呼称で、
1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変(日中戦争)
も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。
敗戦後には、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、
太平洋戦争などの語がかわって用いられた。
GHQの指定は現在では失効しているが、歴史学、歴史認識問題などで
この戦争の呼称については議論が多数なされている。
(Wikipediaより)
場所はフィリピン・ルソン島。
まー、実際は「フィリピン辺り」ってことになるんだと思う。
遺骨は帰ってきてないです。
父に聞いたところによると、
骨壺が届き、中に紙切れが1枚入っていたそうだ。
今回、春頃から確認したところによると
今まで知らなかったことがいくつか確認できた。
・祖父の誕生日(大正6年11月20日)
・祖父より祖母の方が年上であったこと
・召集されたのは終戦の前年、昭和19年の4月
・戦死は昭和20年5月20日
今のところこんな程度ですが。。。
召集されたとき、祖父はわずか26歳。
戦死したのは27歳の時ってことになる。
祖母が4つくらい年上だから・・・
それでも30歳くらいってことになる。
祖母もすでに亡くなっているので、話を聞くとすれば父のみ。
しかし、父になんでも言えるあたいでも
この話を根掘り葉掘り尋ねることには、若干のためらいを感じる。
今年の春、家族で集まった時に
「フィリピン辺りで生きてたりしてね」なーんて笑った。
本気でそうであってもいいな・・という思いと、
「いや、やっぱり戦死してるんだよ」という思いと、
なんだか複雑でした。
祖母はね、90過ぎまで生きた大往生でした。
母と折り合いが悪く、常にもめごとの絶えない家でした
しかしね、よく頑張って生きたな
という思いはあるんです。
我が母は今でも昔を思い出し、祖母の悪口
を言う。
それもね、当然のことだと思ってます。
だってさ、そうとう意地悪されてたからね
ここの関係はね、どこまでいっても交わることのできない
間柄だと思う。
ただ、女手1つで息子2人を育て、小さいながら我が家を持つ。
しかも、戦後の混乱の中ね。
これは、ちょっとやそっとでできることではないと思う。
・・・てな話をします。
さすがの母も、この話には賛同してくれます。
あと3ヶ月、あと3ヶ月早く終戦していたなら、
じーちゃんは帰ってきて、ばーちゃんもここまで苦労せず
生きられたかもしれない。
原爆だって落とされずに済んだかもしれないし。。。
そんなことを思うと、やっぱ戦争は憎たらしいです。
じーちゃんの命を奪っておいて、遺骨さえも返さず、
紙切れ1枚で「戦死しました」って、そんな報告
よくできたな
そんな風に思ったりします。
今願うことは、あの世でじーちゃんとばーちゃんが再会してくれてたらな~
ってことですかね。
いや、まだかな
我がばーさん、結構な“意地悪ばーさん”だったからね、
もうちょっと時間がかかるかもしれません
長い文章にお付き合いありがとうございました
夏が近づくと更に言われるようになった。
春先からかな~、
なんだか我がじーさんの事が気になりだした。
じーさんとは、あたいの父のことではなく、
あたいの祖父のことです。
子供の頃から「戦争で死んだ」とだけ聞かされてきた。
今年になるまで、「じーちゃんは戦死した」とだけ認識してきました。
で、ずっと“満州で戦死した”と勘違いしてました

そだよね。
良く考えればそんなはずはない。
大東亜戦争・・・つまり第二次世界大戦で戦死している。
大東亜戦争とは
大日本帝国とアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・ソビエト連邦・
中華民国などの連合国との間に発生した戦争に対する呼称で、
1941年(昭和16年)12月12日に東條内閣が支那事変(日中戦争)
も含めて「大東亜戦争」とすると閣議決定した。
敗戦後には、GHQによって「戦時用語」として使用が禁止され、
太平洋戦争などの語がかわって用いられた。
GHQの指定は現在では失効しているが、歴史学、歴史認識問題などで
この戦争の呼称については議論が多数なされている。
(Wikipediaより)
場所はフィリピン・ルソン島。
まー、実際は「フィリピン辺り」ってことになるんだと思う。
遺骨は帰ってきてないです。
父に聞いたところによると、
骨壺が届き、中に紙切れが1枚入っていたそうだ。
今回、春頃から確認したところによると
今まで知らなかったことがいくつか確認できた。
・祖父の誕生日(大正6年11月20日)
・祖父より祖母の方が年上であったこと
・召集されたのは終戦の前年、昭和19年の4月
・戦死は昭和20年5月20日
今のところこんな程度ですが。。。
召集されたとき、祖父はわずか26歳。
戦死したのは27歳の時ってことになる。
祖母が4つくらい年上だから・・・
それでも30歳くらいってことになる。
祖母もすでに亡くなっているので、話を聞くとすれば父のみ。
しかし、父になんでも言えるあたいでも
この話を根掘り葉掘り尋ねることには、若干のためらいを感じる。
今年の春、家族で集まった時に
「フィリピン辺りで生きてたりしてね」なーんて笑った。
本気でそうであってもいいな・・という思いと、
「いや、やっぱり戦死してるんだよ」という思いと、
なんだか複雑でした。
祖母はね、90過ぎまで生きた大往生でした。
母と折り合いが悪く、常にもめごとの絶えない家でした

しかしね、よく頑張って生きたな
という思いはあるんです。我が母は今でも昔を思い出し、祖母の悪口
を言う。それもね、当然のことだと思ってます。
だってさ、そうとう意地悪されてたからね

ここの関係はね、どこまでいっても交わることのできない
間柄だと思う。
ただ、女手1つで息子2人を育て、小さいながら我が家を持つ。
しかも、戦後の混乱の中ね。
これは、ちょっとやそっとでできることではないと思う。
・・・てな話をします。
さすがの母も、この話には賛同してくれます。
あと3ヶ月、あと3ヶ月早く終戦していたなら、
じーちゃんは帰ってきて、ばーちゃんもここまで苦労せず
生きられたかもしれない。
原爆だって落とされずに済んだかもしれないし。。。
そんなことを思うと、やっぱ戦争は憎たらしいです。
じーちゃんの命を奪っておいて、遺骨さえも返さず、
紙切れ1枚で「戦死しました」って、そんな報告
よくできたな

そんな風に思ったりします。
今願うことは、あの世でじーちゃんとばーちゃんが再会してくれてたらな~
ってことですかね。
いや、まだかな

我がばーさん、結構な“意地悪ばーさん”だったからね、
もうちょっと時間がかかるかもしれません

長い文章にお付き合いありがとうございました

