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吉田清二というヤツが慰安婦の火付け役なんだが、こいつ尼崎の連中みたく、背乗りの偽物日本人であったらしい。
2014年02月20日
慰安婦問題
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393 :山師さん@トレード中:2014/02/20(木) 19:03:22.74 ID:NdYeXRL00

>>325

>従軍慰安婦って朝日新聞が捏造して 福島瑞穂いう在日弁護士が一儲けを企んで拡散したいうのが真実



もちっと奥が深い。

吉田清二というヤツが慰安婦の火付け役なんだが、

こいつ尼崎の連中みたく

背乗りの偽物日本人であったらしい。

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wikipedia

・・・門司市立商業学校の卒業生名簿に「吉田雄兎」の名があり、それによれば、

1931年同校を卒業したことになるが、卒業生名簿には「死亡」と記されている。

・・・法政大学専門部法科に在籍したことを秦に対して説明している。

しかし実際には、法政大学の在籍記録には吉田の名は掲載されていない


・・・1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっているが、

上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという
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慰安婦は外国(北朝鮮か韓国)の謀略で、

日本からカネをゆすり取るために企画された 案件だったんだろう。

吉田 清治(よしだ せいじ、1913年(大正2年)10月15日 - )は福岡県(山口県とも)出身の元日本陸軍軍人であり作家。強制連行犠牲者遺骨祭祀送還協会の元会長。清治は筆名で、本名は吉田雄兎。別名は東司、栄司。
『私の戦争犯罪』(1983年)などの著書を上梓し、済州島などで戦時中に朝鮮人女性を慰安婦にするために軍令で強制連行(「慰安婦狩り」)をしたと告白証言を行いその謝罪活動などが注目されたが、後に日本と韓国の追跡調査から創作であることが判明し、本人も慰安婦狩りが創作であったことを認めた[1][2][3]。しかし、吉田の証言は国連クマラスワミ報告(1996年)やアメリカ合衆国下院121号決議(2007年)などの事実認定でも有力な証拠として用いられている[4][5]。

吉田によれば、1939年から翌年にかけて中華航空上海支店に勤務したことになっている[7]が、上杉千年の調べでは1992年5月の中華航空社員会で吉田を記憶する者がいなかったという[9]。

吉田の自著によれば、1940年6月、吉田は朝鮮独立運動の首領で日本民間人を殺害した金九を輸送したかどで憲兵に逮捕され、軍法会議で懲役2年の刑を受けたという[10]。これによれば、1942年6月に諫早刑務所(別書には南京の刑務所)を出所している[10]。ただし、吉田本人は1996年秦郁彦に対し、金九ではなく中華民国重慶軍の大佐だったと訂正、罪名についても阿片密輸にからむ「軍事物資横領罪」であることを告白している。

吉田によれば、1942年9月、同郷の先輩の世話で労務報国会下関支部動員部長になった[11][12]ということだが、

これについては、中川八洋が2年間刑務所にあった「前科者」が、出所後すぐに内務省系団体の動員部長に任用されることはありえないと指摘し、もし彼が中華航空の社員であったのならば、民間人である吉田が軍人・兵士を対象とする軍法会議にかけられるはずがないとして、その説明が虚偽であることを検証している[13]。

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ただし、吉田が労務報国会下関支部に在籍していたことは事実で、これについては、複数名、吉田の勤務を記憶している人がいた。吉田が済州島で慰安婦狩りをしたというのはこの時期のことであるが、当時の朝鮮総督府管内には、朝鮮労務協会や内地の労報に相当する労務報告会があったため、労務調達のため内地の労報支部員が直接出向いて徴集しなければならない理由はなかった[14]。また、吉田の陳述では西部軍→山口県知事→下関警察署長→吉田のラインで労務調達の命令がくだされたとしているが、当時、このような命令系統は存在しなかった。

吉田は、三一書房刊『私の戦争犯罪』(1983年)において、1943年5月15日付の西部軍動員命令によって1943年5月17日に下関港を出発し、翌日済州島に着いて、兵士10人の応援で205人の婦女子を慰安婦要員として強制連行したと書き[15]。その要点は妻の日記に記載されているとした[16]。しかし、吉田が大野フサエという女性と結婚したのはその一年後の1944年5月18日のことであり、妻の日記に動員命令の要旨が記載されているとは考えにくい。
終戦後の1947年(昭和22年)に、下関市議会議員選挙に日本共産党から立候補。129票を獲得したが落選したという経歴を持つ。[要出典]


1977年以降、吉田は戦時中に済州島などでアフリカの奴隷狩りのように若い朝鮮人女性を軍令で捕獲・拉致し、強制連行したと著書や新聞や講演などで語った[17]。その後、済州島の新聞「済州新聞」が追跡調査で当時そうした「慰安婦狩り」を島民が聞いた事がないという証言を得て吉田証言は事実ではないと報道。その後、秦郁彦らも追跡調査を行い、同様の結論にいたった[18]。また吉見義明も吉田本人から創作を交えたことを聞いたため、吉田証言は資料としては用いることができないと確認した[19]。
しかし、吉田証言は、1992年の韓国政府による日帝下軍隊慰安婦実態調査報告書や1996年の国連人権委員会のクマラスワミ報告や1998年のマクドゥーガル報告書でも慰安婦強制連行の証拠として採用された[4]。また、これら報告はその後も修正していない[4]。2006年の米国下院が慰安婦問題で対日非難決議案を審議する際の資料とされた同議会調査局の報告書でも「日本軍による女性の強制徴用」の有力根拠として「吉田証言」が明記された[5]。その後、日本側の批判を受けて、2007年の改訂版では「吉田証言」が削除された[5]。しかし、2007年2月25日の決議案審議のための公聴会の時点ではこの吉田証言に基づいた資料を判断材料としたうえで、2007年6月26日にアメリカ合衆国下院121号決議が可決した[5]。さらに2011年8月30日、韓国の憲法裁判所が「韓国政府が日本軍慰安婦被害者の賠償請求権に関し具体的解決のために努力していないことは憲法違憲」と判決した際にも事実認定としてクマラスワミ報告、マクドゥーガル報告書、アメリカ合衆国下院121号決議が根拠とされ、吉田証言も事実認定の有力な証拠のひとつとして用いられた[20][21]。
西岡力は、吉田が「慰安婦=性奴隷」説を最初に主張した人物であると述べている[22]。


済州新聞による反証(1989)[編集]
1989年に吉田の著書が韓国で翻訳された。
1989年8月14日に済州島の現地新聞「済州新聞」の許栄善記者は、済州島城山浦の85歳の女性の「250余の家しかないこの村で15人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」という証言を紹介し、吉田の著作には「裏付けの証言がない」として、吉田のいう済州島での「慰安婦狩り」は事実無根であり、吉田の主張は虚偽であると報じた[25][22][33][34]。
また同記事で済州島の郷土史家金奉玉も、「1983年に日本語版が出てから何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と、数年間の追跡調査で吉田証言が事実ではないと批判した[35][24][36]。これらの済州新聞での批判記事は、1992年に日本の歴史学者秦郁彦が現地の図書館で発見し、それを日本で紹介されるまで知られる事はなかった[37]。
1990年代の活動[編集]

朝日新聞による紹介[編集]
1991年5月22日朝日新聞大阪版で吉田の「木剣ふるい無理やり動員」発言が紹介され、同年10月10日朝日新聞大阪版では「慰安婦には人妻が多く、しがみつく子供をひきはがして連行」したという吉田の証言を掲載した[38][39]。
1991年8月11日に朝日新聞が「元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」(植村隆韓国特派員・ソウル発)記事で元慰安婦の金学順について「女子挺身隊の名で戦場に連行され」たと報道する。他方、同年8月15日韓国ハンギョレ新聞は金学順が「親に売り飛ばされた」と報道し[24]、また金学順の裁判での供述との矛盾などもあり[40]、西岡力は、朝日新聞による一連の報道は誤報であると述べている[41]。
同1991年10月10日には朝日新聞大阪版が再度、吉田清治へのインタビューを掲載する(井上祐雅編集委員による[24])。同1991年11月22日の北海道新聞では吉田は「アフリカの黒人奴隷狩りと同様の狩り立てをした」と発言した[42]。
また、この頃、1991年10月7日から1992年2月6日にかけて韓国のMBC放送が20億ウォンの予算[43]を投入して製作したドラマ『黎明の瞳[44]』を放映し、最高視聴率58.4%を記録した。物語ではヒロインが従軍慰安婦として日本軍に連行され、日本軍兵士が慰安所を利用したり、朝鮮人兵士を虐待する場面がそのまま放映され、反日感情を煽った[43]。 吉田は韓国やアメリカでも講演を行ない、海外メディアも報道した[45]。
宮沢訪韓後の1992年1月23日夕刊コラム「論説委員会からー『窓』、従軍慰安婦」では、北畠清泰朝日新聞論説委員による吉田の紹介記事が掲載されたが、それは以下のようなことばで結ばれている。

朝日新聞と宮沢政権による対韓謝罪[編集]
慰安婦問題は、1992年に日韓の外交問題にまで発展した。宮沢喜一首相の訪韓を前にした1992年1月11日、朝日新聞が一面で「慰安所、軍関与示す資料」「部隊に設置指示 募集含め統制・監督」「政府見解揺らぐ」と報じる。この記事は陸支密大日記を吉見義明が「発見」したと報道されたが、研究者の間ではこの資料は周知のものであった[46]。同日朝日新聞夕刊では「韓国メディアが朝日新聞の報道を引用して報道」とのソウル支局電を掲載した[47]。翌1月12日の朝日新聞社説では「歴史から目をそむけまい」として宮沢首相には「前向きの姿勢を望みたい」と主張した。またジャパン・タイムズは1月11日夜のテレビ番組で渡辺美智雄外相が「なんらかの関与があったということは認めざるをえない」との発言を、「日本の政府責任者が戦時中に日本軍がhundreds of thousands(何十万人)ものアジア人慰安婦への強制売春 (forced prostitution) を初めて認めた」との記事を掲載した[47]。1月13日、加藤紘一官房長官が「お詫びと反省」の談話を発表[24]、1月14日には韓国で、女子挺身隊を誤解歪曲し「国民学校の生徒まで慰安婦にさせた日帝の蛮行」と報道[24]、同1月14日、宮沢首相は「軍の関与を認め、おわびしたい」と述べ[47]、1月16日には天皇の人形が焼かれる[47]など反日デモが高まる韓国に渡り、首脳会談で8回謝罪し、「真相究明」を約束した[24]。
秦郁彦による済州島現地調査[編集]
1992年(平成4年)3月には秦郁彦が吉田の証言について済州島で現地調査を行ったが、裏付けが取れなかったどころか当時を知る城山浦の島民から「この島で人間狩りが起こったら大騒ぎになって誰でも知っているはずだが、そんな話は聞いたことすらない」「男子の徴用はあったが慰安婦狩りはなかった」との証言を得た[48]。秦は、済州新聞記者の許栄善との面談の折、許から「何が目的でこんな作り話を書くんでしょうか」と聞かれ答えに窮したという。
また秦は、当時、吉田証言の番組を企画したが、結局番組が制作されなかったというNHK山口放送局にもその理由を問い合わせたところ、番組担当者が吉田証言の裏付けがとれず、さらに吉田の著作を刊行した出版社が「あれは小説ですよ」と述べたので企画を中止したとの証言を得た[49]。
秦はこれらの調査を産経新聞 1992年(平成4年)4月30日で発表、『正論』1992年(平成4年)6月号にも調査結果を公表した[50]。この論文は『昭和史の謎を追う』(文藝春秋1993年3月)にも掲載し、菊池寛賞を受賞した。その著書の中で吉田を「職業的詐話師」と称している。


吉田清治本人による証言否定[編集]
吉田は自著の虚偽を指摘された後も韓国での謝罪行脚や朝日新聞での証言を続けていたが、1995年に「自分の役目は終わった」として著書が自身の創作であったことを認めた[24]。
1996年(平成8年)5月2・9日付の週刊新潮インタビューで吉田は以下にように語った。
まあ、本に真実を書いても何の利益もない。関係者に迷惑をかけてはまずいから、カムフラージュした部分もある。事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやることじゃありませんか。チグハグな部分があってもしようがない。-週刊新潮1996年5月2/9号

と語り、自らの証言を創作(フィクション)を含むものであることをあらためて発言した[55]。


詳しくは、wikipedia