日清戦争と日本1
■第三期日本史検定講座申込受付中
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2003.html
■ねずさんのひとりごとメールマガジン有料版
http://www.mag2.com/m/0001335031.htm
日清戦争平壌攻撃戦
伊東祐亨(いとうゆうこう)のことを書いたので、日清戦争(明治27(1894)年8月~明治28(1895)年3月)のお話を、また書いてみようと思います。
日清戦争が起きた時代というのは、我が国では、大日本帝国憲法が発布(明治22、以下同じ)され、東海道本線が全線開通し、パリで万博が開催され、そのパリではエッフェル塔が建設されて、日本ではいまはファミコンシリーズで名を馳せている任天堂が創業され、翌、明治23年には教育勅語が発布、前年の明治26年には御木本幸吉が真珠の養殖に成功した、そんな時代です。
要するに、我が国は明治の開花以降、急速に近代化が進み、欧米列強と肩を並べる実力を身に付けつつあった時代でもあったわけです。
この当時でも、おそらくは精神文化という面では、我が国の治安の良さや国民の文盲率の低さ、あるいは民度の高さといった点においては、決して欧米にひけはとらなかったものと思います。
けれど、日本と欧米では、武力が違う。経済力が違う。
力の差は圧倒的です。
これは、いわば西欧文明による東亜文明への挑戦です。
この挑戦に対して、東洋的中世の体制では勝てないし、国として生き残れない。
そのことは、清国の阿片戦争が、如実に証明しています。
大軍を要する清国でさえ、英国のほんの少数の海軍の前に、まるで歯がたたずに蹂躙されているのです。
ならば、その挑戦に対して、むしろ積極的に西洋文明を取り入れ、これを我が国の血肉となし、国力を鍛え上げて欧米列強と「対等」に付き合えるだけの実力を持った日本になる。
これが日本の理想でしたし、幕末の志士たちが夢見た坂の上の雲です。
この「対等」という概念は、我が国においては、人々の価値観の基盤をなす文化です。
「対等」も「平等」も、英語で書いたら同じ「イコール(Equal)」ですが、日本ではまったく別な概念として認識されています。
運動会の駆けっこで、順位をつけたらいけないと、全員並んで一等賞にするのが「平等」です。みんな同じ。
けれど、俺は勉強の成績ではA君に勝てないけど、運動会の駆けっこだったら俺が一等賞だい!というのが「対等」です。
「対等」は、相手の凄さをちゃんと認めたうえで、「その代わり俺にはこれが」というように、自他の違いをちゃんと認識した上で、自己の存在の実現を図ろうとします。
「平等」は、ミソもクソも一緒ですから、こうした「その代わりに」という概念がありません。
たとえは悪いですが、男子生徒も女子生徒もどこまでも「平等」だというのなら、着替えも風呂も男女は同じ部屋、同じ風呂です。
けれど、男には男の良さがあり、女には女の良さがある。
男の良さと、女の良さを互いに認め合い、違いを認識し、男は男らしく、女は女らしく、そして互いに力を合わせて、未来を拓こうとするのが「対等」です。
どうも最近の教育現場では、「平等」にこだわるあまり、彼我の違いをきちんと認識する「対等」という概念があまりに軽視されているように感じられてなりません。
幕末から明治にかけての日本人が求め大切にしたのも、この「対等」です。
欧米列強の強さは認める。
彼我の実力にそれだけ大きな違いがあるなら、むしろ積極的に欧米の文物を学び努力して、欧米列強と「対等」に付き合える日本になろう。
それが、幕末の志士達の夢であったし、明治の政策の根幹でもあったわけです。
そしてその「対等」という意識は、「追いつき追い越せ」ではありません。
あくまでも「対等」となることを望むというものです。
いまでも同じです。
日本車は欧米市場で人気ですが、日本のメーカーは、欧米のメーカーに「追いつき、追いつき」が基本戦略です。決して「追いつき、追い越せ」ではありません。
彼らとどこまでも対等に付き合い、共存していく。
それが日本のメーカーの希望であり、姿勢です。
つまり「対等」というのは、彼我の違いを認めるだけでなく、実は、彼我の共存共栄を希望する概念なのです。
このあたりも「平等」とはまるで異なります。
「平等」は、「平等か不平等か」という対立概念しかありません。
ひらたくいえば、「◯◯ちゃんと一緒でなきゃヤダぁ」という幼児の我儘と同じです。
一緒であることが認められなければ泣き叫ぶ。
それがプロ市民とか、モンスターペアレントといわれる人たちです。
そんなものは民度が低い人たちなのですから、相手にする必要などないのです。
文句があるなら、逮捕し、刑務所にはいってもらえば良い。
そうされるのがいやなら、ちゃんと他の子供たちや父兄と同じように、自制心を発揮した親に成れば良いのです。
幕末から明治の時代、強力な軍事力を持つ欧米列強諸国に対して、日本がどこまでも自国の正義だけを主張し、刀や槍や弓矢にかけて、戦うという選択をしたらどうなったでしょう。
実は、その選択をした民族があります。
北米のインデアンたちです。
その結果、彼らはどうなったでしょう。
北米大陸に800万人いたインデアンは、いまやたったの35万人です。
そして全員が白人との混血児です。
日本も、そうなる危険があったのです。
だからこそ、子を護り、妻を護り、老いた父母を護るために、日本は近代化を急速に進めました。
これは加瀬英明先生からの受け売りですが、いまでも日本は、陛下が外国から国賓級の要人をおもてなしする晩餐会では、フランス料理を出すのだそうです。
世界中、どこにもそんな国はありません。
どの国でも、外国の賓客をおもてなしするときは、その国の最高級の伝統料理を出します。
お隣の韓国ですら韓国料理、中共も中華料理、アフリカの諸国でも、それは同じです。
けれど日本は、最高の日本料理でおもてなしするのではなくて、フランス料理です。
なぜフランス料理なのか。
それはひとつには、最高の日本料理というものが、実は生産地で生産者たちが食べる新鮮な魚介類や野菜類であったこと、日本のかつての貴族や武家では、何十万石という大大名のお殿様でさえ、ご飯に、味噌汁の他はおかずが一品だけ。それにおしんこが付いたら、それが最高の食事であったということがあります。
もともと日本社会では、生産者をたいせつにしたし、それをするのが武家や貴族の努めだと考えられていたし、石高の大小に限らずお殿様たちは、みんな貧乏で贅沢は禁じられていましたから、食事はそもそも粗末なものでした。
ウチも明治生まれの祖母が生きていた間は、食事は常に一汁一菜+おしんこだけでした。
それを正座し、背筋を伸ばしていただく。
膝を崩して食べるのは、お百姓さんたちへの感謝の心が足りないからだと厳しく叱られたものです。
食べるときに、ぺちゃくちゃしゃべるのも禁止でした。
おしゃべりやテレビに夢中になって箸がとまっていると、他の者が食べ終わったらさっさと食卓の上の料理を片付けられてしまう。
大昔は、下女たちが食事の配膳をしてくれていたのだそうで、主人たちの家族の食事が済まないと彼女たちが食事する時間が遅れてしまい、他の人に迷惑がかかるのだといわれました。
時代は変わっているし、下女なんてのもいない20世紀に、そんなことを言われてもと、子供の頃はずいぶんと反発したものですが、けれど、食事を出して、いただかせてもらうことができるということへの感謝を、そういうことで教えられていたのだと思います。
話が脱線しましたが、そんなわけで、町人料理や庶民料理、あるいは料亭などでは、それなりの高給料理もあったのですが、そもそもそういう贅沢は、武家は厳禁だったわけですから、その意味では、日本では、高給に本料理などというものは、そもそも町家の言葉は悪いですが、下賎な贅沢料理くらいにしか思われてなかったわけで、その意味では、国賓に下賎の料理を出すわけにもいかない。
そこで明治時代の頃、世界最高の最先端高級料理とされていたのがフランス料理だったために、我が国では、国賓をお迎えするときはフランス料理を出すようになったわけです。
そしてここにも、欧米の実力を我が国の文化になんとかして取り入れようとする涙ぐましい努力があったわけです。
ちなみに加瀬先生の友人のフランス公使は、日本に赴任することが決まったときに、「皇居の晩餐会に招かれているので、きっとそこで最高の日本料理を食べられるに違いない」とワクワクしながら来日したのだそうです。
ところがいざ晩餐会に招かれてみると、期待に反してでてきたのは自国の料理です。
いまは世界中で日本食ブーム、世界最高の日本食が食べられると思って楽しみにしていたのにと、たいへん残念がっておいでだったそうです。
フランス料理がいいのか悪いのか、そういう議論はまた別として、ただ、明治時代に欧米に「対等な国」と認めてもらうために、我が国がそういう小さなことにまでこだわって、真剣に国を、私たち民衆を護ろうとしてくださっていた。
そのことには、わたしたちは感謝をすべきと思います。
もうひとつ我が国の近代化には、大きなファクターがあります。
すでにご案内の通り、明治政府はできた当時は、まるで貧乏所帯でした。
なにせ日本国内の金(gold)が米国に大量に流出していたのです。
明治政府は、政府のお役人の給料の支払にさえ困り、そのために苦肉の策として行われたのが、陰暦を太陽暦に変更するというものでした。
陰暦を太陽暦に変更すると、その年だけは、通常年よりも2ヶ月、一年が短くなるのです。
年間の人件費が、2ヶ月分浮く。政府の人件費ともなれば、これは大金です。
そんなことまでしなければならないほど、お金がなかった明治政府が、明治の中頃には、一定の経済力を身に付けています。
なぜそれができたのかといえば、政府の財政出動を積極的に行ったことによります。
ご存知の通り、日本国内のお金は、日本国政府の印刷した紙幣が使われます。
政府は、その紙幣をたくさん刷ることによって、国内に流通するお金の量を増やしたのです。
そしてそのお金をつかって、明治政府は各種インフラを整備しました。
その代表が、東海道本線の開通でもあったわけです。
紙幣を印刷し、公共事業を興して国内の雇用を創出し、国内経済の活性化を図る。
日本は、維新後、わずか20年少々で、世界の5大経済大国の仲間入りしています。
その伝統が、いまでもG5となっているわけです。
政府が財政投資を行う。
政府が積極的に様々な規制を設けて、各種産業を保護する。
これによって民間投資が活発化する。
民間需要が高まり、消費が拡大する。
景気が良くなる。
人々の生活が豊かになる。
これが明治時代の構造であり、昭和の戦後の日本の経済成長のカラクリです。
だから日本は、明治時代においても、昭和の戦後においても、あっという間に経済力をつけ、国力を高めています。
この真逆を行ったのが、バブル崩壊後の日本であり、民主党政権でした。
政府の財政投資を縮小する。
政府が規制を緩和して、各種産業をより厳しい競争に晒す。
安ければ良いという風潮が起こり、民間は儲からないから投資を縮小する。
民需が減り、消費が冷え込む。
景気がますます悪化する。
人々の生活が、一層貧しくなる。
歴史を直視すれば、いまの日本が何をすべきなのか、一目瞭然です。
富国強兵。
これはいまの日本にこそ大事なことと思えます。
要するに、こうして明治時代の我が国は、真剣に欧米列強と対等な国になるために、必死の努力をしていたのです。
これに対し、まったく欧米列強と「対等」な関係など考えなかったのが、お隣の支那の清国であり、その清国の属国であった李氏朝鮮でした。
「対等」という概念は、相手の凄さをまず認めるところからはいります。
ところが中華思想というのは、常に「我こそ一番」です。
教条主義的に、最初にそれが来るから、相手を認めるということができない。
あるのは、「どっちが上か」だけです。
そして世界の中心は中華にありとされています。
ですから、欧米列強に圧倒的な力があっても、それはただ頭ごなしに「受け入れない」だけです。
一方、李氏朝鮮はというと、これまたそのような清国政権の属国としての地位に甘んじています。
この李氏朝鮮末期の国王が高宗で、高宗は、色事好きで、政務をほったらかしで、もっぱら多数の宮女や妓生の漁色と酒におぼれているだけです。
そうはいっても、支那にせよ李氏朝鮮にせよ、国務に関する政治的意思決定権の一切は、すべて国王ひとりにのみ存在します。
ですから肝心のその国王が政務をほったらかして酒色に溺れていたら、国事行為の一切が前に進みません。
早い話が、李氏朝鮮の王宮が仕入れた野菜などの日々の食料品の代金の支払だって、国王の承認が必要です。
けれど、高宗王は、何もしない。
何もしないんじゃ困るから、そうした雑務や政治的意思決定には、正妻の閔妃(みんぴ)が仕切っていました。
ちなみにこの閔妃(みんぴ)のことを「明成皇后」などと言う人がいるけれど、この時代、皇帝はあくまでも清国皇帝です。
李氏朝鮮はあくまでが、属国であり、高宗王は、ただの国王ですから、国王の妻は王妃であって皇后ではありません。
もし、閔妃(みんぴ)が、私は「皇后よ」などとこの時代に言い出せば、閔妃は、極めて残酷な方法をもって殺されたでしょうし、閔妃だけでなく、閔妃の一族郎党が、全員皆殺しにされていたことでしょう。
中華帝国は、そういう点、とても厳しいのです。
さらにいえば、この閔妃、閔妃という名前さえ、実は伊藤博文が付けてあげた名前です。
当時の朝鮮人女性は、国王の妻であり、皇太子の生みの親であっても、名前を名乗ることは赦されていません。
まして一般女性にいたってはなおのことで、名前はない。
名前がないということは、人として扱われていなかったということです。
要するに、野良犬や野良猫と同じで、死んでも誰も振り向かない。
ただの粗大ゴミとして扱われるだけです。
生きていても、それはただ子を孕むための道具としてだけの存在であって、人間としての扱いは受けていません。
まさに、李氏朝鮮は、男尊女卑社会でした。
昨今、かつての日本社会のことを、それと同じように男尊女卑だとか言い出す馬鹿者が学者さんの中にもいますが、日本社会では、男女ともちゃんと名前があったし、だいたい結婚すれば、いまでこそ「夫婦(ふうふ)」というけれど、昔は「妻夫(めおと)」と呼びました。
それだけ女性が大事にされていたのが日本社会です。
だいたい、日本の最高神は、アマテラスオオミカミで、女性神です。
そして家庭においては、女性はカミさんで、まさに神様、絶対権力者です。
寺子屋のお師匠さんも、半数近くが女性教師です。
それでいて男尊女卑などと、とんでもないいいがかりです。
そもそも男尊女卑社会というのは、昔の朝鮮のような社会を言うのです。
女性には、名前さえない。ただの性器としてしかみなされない。
男尊女卑どころか、女性は人間としてさえ扱われていません。
そういう朝鮮社会の中にあって、国王の妻であり、国母であり、しかも高宗王に変わって実質的な政治権限を揮う女性が、名前さえないのでは、たとえそれが朝鮮社会の常識であったとしもて、あまりにも理不尽だし、不便です。
そこで、伊藤博文が、「あわれみの心をもったお妃(きさき)」という意味で付けた名前が、閔妃(みんぴ)です。
ところがこの閔妃、国王に代わって政治の実権を掌握すると、彼女の一族だけを積極的に重職に登用しました。
これは彼女の意思であったのか、あるいは政治権力を持った彼女の身内が、彼女に対して脅迫まがいに圧力をかけたのか、それはわかりません。
おそらくは後者であろうと思いますし、また閔妃自身、そうすることで自分の権力基盤を固めようという意思があったかもしれません。
その閔妃のもとには、清国が阿片戦争で大敗したこと、日本が明治維新をなしとげ、急速に国力を充実させてきていることなどの情報が寄せられています。
閔妃は、明治9(1876)年には、日本との間で、日朝修好条規(江華島条約)を締結しました。
そして閔妃は、日本に依頼して閔妃の王宮に、日本人の軍事顧問を招きました。
朝鮮の軍隊の近代化を図ろうとしたのです。
閔妃の目にも、近代化した日本式の軍隊(新式軍隊)は、実に勇壮で頼もしい存在に思えたことでしょう。
ただ、そう思えただけなら良かったのですが、閔妃は、あまりに日本式軍隊が素晴らしいとて、従来からあった清国式の旧式軍隊をほったらかしにしてしまったのです。
もういらない、というわけです。
そして、旧軍隊の兵士たちへの給料も払わなくなり、食事の配給もしなくなってしまったのです。
日本式新式軍隊には、豊富な食料と給料が支給され、清式の旧軍隊には、飢えと苦しみが押し寄せる。
あたりまえのことですが、旧軍隊内には、新式軍隊に対する不満が募ります。
明治15(1882)年、旧式軍隊は、閔妃暗殺を目論んで反乱をおこします。
これが「壬午軍乱」です。
このとき、多くの閔妃派要人と数十名の日本人が殺されました。
日本の領事館も焼き討ちに遭っています。
ところがこのときに、事件を察知した閔妃は、侍女を身代わりにして、いち早く王宮を脱出したのです。
閔妃の身代わりとなった侍女は、現場でとても口には出せないような卑劣で卑猥な拷問を受けて殺害されています。
そして逃げた閔妃は、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱(えんせいがい)のもとに逃げ込んだのです。
そしてこのとき閔妃が、清国の派遣軍側に逃げ込んだことが、問題を一層ややこしくしてしまいました。
李氏朝鮮国内で反乱を起こしたのは、清の指導を受けている清式の旧朝鮮軍です。
その旧朝鮮軍が反乱を起こしたからといって、なんと閔妃は、その旧朝鮮軍の指導部隊である清国軍に逃げ込んだのです。
いい度胸をしているといってしまえばそれまでですが、要するに閔妃は、清軍に反乱の鎮圧を委ねたわけです。
当然のことながら、閔妃を保護した清国軍は、閔妃に親日開化政策を取り下げさせ、親清の復古政策への転換を要求します。
閔妃も、これをのんでしまいます。
こうなるとやっかいなのが、日本の立場です。
閔妃の要求によって、李氏朝鮮に指導官を派遣し、新国軍を組織していたのです。
ところが、閔妃はあっさりと日本を切り捨て、もとの支那冊封国に戻ってしまったのです。
しかも、新国軍襲撃の際、日本人も多数が殺されています。
そもそも日本は、国内の近代化のための手当が精一杯で、お隣の朝鮮半島になんらかの責任を負っている立場でもありませんし、清国に手を出そうなどいうだいそれた欲望もまったく持ち合わせていません。
ただ、実際に満州あたりまで南下してきているロシアに対して、日本の安全のために警戒感を持ち、そのために清国も、朝鮮半島も「しっかりしてもらわなければ困る」と考えているだけです。
この時代、日本は日本列島が日本の領土であるという国家としての明確な領土観を持っています。
ところが李氏朝鮮は、もともとが女真族による外来王朝です。
この王朝は、いってみれば、朝鮮半島にいきなり乱入してきた他のコロニーの猿が、支那王朝と手を組んで、朝鮮半島のあたり一帯を仕切るボス猿になっているようなものです。
たとえていうなら、他のシマにいたヤクザ者が、いきなりやってきて半島一帯を「ここは俺のナワバリだ、俺が王だ」と言っているようなものです。
ナワバリ意識は強いけれど、領土境界については、実に曖昧だし、そもそも政権として半島にいる朝鮮族の生活の向上や民衆の幸福に何らかの責任を持っているという意識さえも曖昧です。
これは清国も同じで、これまた女真族による外来王朝です。
領土意識は強いけれど、具体的にどこに国境があるのかといった、近代国家にある明解な線引きがあるわけでもありません。
ですからロシアが満州エリア(いまの東北省)あたりに南下してきても、そのどこまでが領土であり国境であるかという意識がありませんから、ほぼ、放置に近い状態です。
放置すれば国そのものが食われてしまうという列強の帝国主義の時代にあって、中華こそ世界の中心という理屈にだけ尊大にこだわって、ロシアが朝貢にくれば応じてやろうくらいの姿勢しかない。
要するに領土境界も曖昧な中世的国家と、そういう線引きを明確にし、その線引き内の住民を完全に掌握して国力を高め、互いに切磋琢磨するという近代国家と、まるで領土というものに対する考え方が異なっているのです。
ですから国境の曖昧なエリアや、王朝が弱化しているエリアは、欧米の帝国主義国家はこれを「無主地」と見ます。
領主がいない土地ですから、そういう土地は、そこに住む人民ごと、近代国家が面倒を見てやらなければならない・・・と、そう言いながら、勝手に領有し、そこを自国の植民地にしてしまうわけです。
そういう中世的国家と、欧米の帝国主義的近代国家との違いを明確に認識し、国を護るために具体的行動を起こして自国の近代化を図ったのが日本であり、それがまるで理解できずに、ただ尊大な中世を続けていたのが、当時の清国や朝鮮でした。
一方朝鮮の民衆の暮らしはあいかわらず貧困のどん底です。
その隣には、どんどん近代化をすすめ、進歩し、国民が豊かになっていく日本がある。
福澤諭吉(慶応大学創始者)や、大隈重信(早稲田大学創始者)らとの親交を深めた朝鮮の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら、理想に燃える韓国人は、このままではいけないという思いを深くしました。
そして彼らは、閔氏一族が贅沢三昧をして国政を壟断する中、むしろ能はないけれど権威だけはある国王高宗を立てることで、国政を改善しようとしました。
国王の高宗も、この頃になると閔氏一族や清に実権を握られて、何一つ思い通りにいかないことが内心面白くない。
朝鮮国王高宗は、金玉均らの理想に燃えた近代化政策の実行を快諾します。
日清戦争と日本2に続く
