怪傑ハリマオ(1/3)
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ハリマオ
今日から、3日連続モノで、ハリマオを特集してみようと思います。
実はこのお話は、4年前に一度アップしているのですが、先般、これをリニューアルして「ねずブロメルマガ」に掲載したところ、多方面から「感動した」、「とてもわかりやすかった」とのお声を頂戴しました。
そこで、同文を、このねずブロでも掲載してみようと思います。
「ねずブロメルマガ」の記事は、3回の連続ものでしたので、こちらでも、同様にしてみます。
けっこうワクワクドキドキの実話になっていようかと思います。
なお、ねずブロメルマガは月840円の有料ですが、ご興味のある方は、是非、ご購読なさってみてください。
文章は、毎回、たいへん読みやすいものとなっています。
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怪傑ハリマオ(1/3)
ウルトラマンや仮面ライダーが流行るよりずっと以前、少年達の心を奪った主人公が、「黄金バット」と「怪傑ハリマオ」でした。
「黄金バット」空想上の人物ですが、「ハリマオ」は、実は、実在した人物です。
本名を谷豊(たにゆたか)といいます。
谷豊は、妹を支那人に惨殺され、復讐のために三百人ほどの地下組織を持つ義賊となり、支配者である英国人や支那人を襲い、奪った金品は私有せず庶民に与えた人物です。
マレー人になりきっていたけれど、陸軍中野学校出身の藤原機関員神本利男に日本人であることを覚醒され、日本軍のマレー作戦に協力し、三十歳でお亡くなりになっています。
谷豊は、明治四十四(1911)年、理髪店を営む父、谷浦吉の長男として生まれています。
豊が生まれてまもなく、一家はマレーシア北東部のクアラ・トレンガヌという大きな街に移住しました。
ここは美しいマレーシアの島々への玄関口として、いまでも多くの日本人観光客が訪れる地です。
けれど「教育は日本で受けさせたい」という親の意向で、豊は、大正五(1916)年、五歳のとき、ひとり日本に帰国します。
そして祖父母の家に滞在し、福岡市立日佐小学校に入学しました。
小学校を卒業した豊は、大正十三(1924)年、再びマレーシアへ戻り、マレーの友人たちと一緒にタコを作って揚げたり、ボクシングをしたりして、楽しい青春を過ごします。
天性の運動神経と、気の強さで、彼は喧嘩がものすごく強かったそうです。
加えて喧嘩っ早い。
豊のまわりには、いつも人が集まっていたそうです。
そして十九歳でマレー人のワンシティさんと結婚。イスラム教に改宗します。
昭和六(1931)年、二十歳になった豊は、祖国の役に立つために軍人になろうと、単身、再び日本に帰国します。
ところが身長が足らず「丙種合格」となりました。
要するに不合格だったのです。
このことは、かなりショックだったようです。
やむなく豊は、福岡のアサヒ足袋で働くようになり、その後、福岡市内の鉄工所に就職します。
この頃、豊は、美野島や柳町の飲み屋によく出かけています。
そこでもよく喧嘩をしています。
小柄で細い豊は、相手に舐められるのだけれど、サッと懐に飛び込んで、相手の腹や顎を強打します。
たいていの相手はこれで一瞬でノックアウトされたそうです。
そして給料をもらうと友人たちと博多に飲みに出かけていました。
博多には気になる女性もいたそうです。
さらに豊は、当時自分名義の田を六畝相続で持っていたのですが、これをいつの間にか売り払っています。
そのお金をどうしたかというと、なんとまるごと貧しい家庭の友人に恵んでいます。
気風(きっぷ)が良くて、頭が良くて、喧嘩が強くて、あたたかくて色男。
豊のまわりには、いつも友人が集まっていたといいます。
ちょうど、その頃のことです。
マレーシアでは、在マレーの支那人たちが、いたるところで排日暴動を起こしていました。
支那人の気質というのは、戦前も戦後も変わりません。
彼らは要するに中華思想が根っこにあるわけで、それは、東亜は、すべて支那が世界の中心の国であり、周辺国である日本やウイグル、チベットなどは属国である、という思いこみです。
ですから欧米はハナから敵対国だから支那を侵略してくるのは、ある意味仕方ないことだけれど、自分たちより格下の日本が支那より強かったり経済力があったりするのはケシカランと考える。
どうみても非常に次元の低い観念だけど、人間というのは、とかく次元の低い感情ほどムキになるし熱くなるものです。
支那人たちは、マレー国内で暴徒の集団を作り、日本人を襲いました。各所で、日本人の営む商店や家屋を襲い、金品を奪い、男を殺し、女を強姦し、残酷な方法で殺害したのです。
昭和七(1932)年十一月、マレーシアの小さな床屋だった谷家も、支那人の暴徒たちによる襲撃にあいます。
襲撃の少しまえに、谷家では、一家の大黒柱だった父親が急逝していたのです。
要するに谷家には、母と、妹のシズコと、弟の繁樹しかいませんでした。
この日、母親はたまたま出かけていて留守でした。
弟は英語学校に行っています。
家には、たまたま病気で寝込んでいた妹のシズコひとりだったのです。
支那人たちの暴動がはじまったとき、たまたま英語学校から帰宅途中だった弟の繁樹は、近所の人の「逃げなさい!」という声を聞いて、あわてて近所の歯医者さんの家に駆け込んでいます。
そして支那人の暴徒たちが、手に「生首」をぶら下げて歩いて行く様子を、歯医者さんの家の窓から目撃しています。
そして暴徒が去ったあと、自宅に戻った繁樹が見たものは、荒らされ、血まみれとなった室内と、首をねじ切られた妹の惨殺死体だったのです。
支那人のこうした残虐性というのは、ほんとうに今も昔もかわりがありません。
いまでもウイグルやチベット、法輪功等に関して同様の集団による暴行が公然と行われています。
このときも、支那人の暴徒たちは、妹の首を持ち去り、まるでサッカーボールのように、蹴り転がしていたそうです。
記録にはないけれど、もしかすると幼い妹は暴行もされていたのかもしれない。
夜になって、繁樹と隣家の歯科医は、妹の生首を奪還してきてくれました。
そして泣きながら首と胴を縫い合わせてくれたそうです。
あまりのことに、事件後母と弟は、マレーの家を引き払い、日本に引き揚げてきます。
当時は、いまのように携帯電話もなければ、郵便事情も整っていない時代です。
日本にいて何も知らなかった豊は、帰国した母親から、この事件の顛末を聞きます。
そのときの豊の気持ちは、察して余りあります。
大切な妹を、大好きな可愛い妹を、自分のいないときに異国の地で、生きたまま首をねじ切られたのです。
どんなに痛かったろう、どんなに辛かったろう。救うことができなかった、助けてやることができなかった。
悔しくて、悲しくて、どうしようもなくこみ上げる気持ち。
豊は、復讐のために冷たく血を冷やします。
そして昭和九(1934)年七月、単身マレーシアへ向かいました。
マレーのクアラ・トレンガヌへ帰ってきた豊は、昔の家の近くで理髪店を営みます。
店は結構、繁盛しました。
豊は、床屋を営むかたわら、妹殺害の犯人探しを始めます。
妹を殺した支那人は、逮捕され、裁判にかけられたものの無罪放免となり、消息不明になっていたです。
なぜ?と思うかもしれません。
この時期、マレー国内の経済は・・・それは今もだけれども・・・支那人の華僑が牛耳っていたのです。
そしてマレーという国の形がどうあれ、支那人たちは支那人の理屈で動きます。簡単にいえば、カネで買収して裁判の判決を無罪にしてしまっていたのです。
※明日の記事に続く
ハリマオ オープニング
