権現堂堤と母娘巡礼 | mappyの憂国

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権現堂堤と母娘巡礼

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昔、天保年間なのですが、埼玉県の松伏村に、石川民部(いしかわみんぶ)という豪農がいました。
農民でありながら名字帯刀が許されていた人ですから、士分だったというわけで、いまでいったら、ものすごく社会的地位の高い、というか信用のあった方です。
この石川民部が、天保年間(1830年頃)に、近隣の農家から資金を集めて徳川幕府に差して築造したのが、江戸川の「棒出し」と呼ばれる施設です。

どういうものかというと、川の流れに変更を加えるという施設です。
埼玉に権現堂川(ごんげんどうがわ)と、逆川(さかさがわ)という川があるのですが、これがかつては竜神様と怖れられるほど猛威をふるった暴れ川だったのです。


昔、天保年間なのですが、埼玉県の松伏村に、石川民部(いしかわみんぶ)という豪農がいました。
農民でありながら名字帯刀が許されていた人ですから、士分だったというわけで、いまでいったら、ものすごく社会的地位の高い、というか信用のあった方です。
この石川民部が、天保年間(1830年頃)に、近隣の農家から資金を集めて徳川幕府に差して築造したのが、江戸川の「棒出し」と呼ばれる施設です。

どういうものかというと、川の流れに変更を加えるという施設です。
埼玉に権現堂川(ごんげんどうがわ)と、逆川(さかさがわ)という川があるのですが、これがかつては竜神(権現)様と怖れられるほど猛威をふるった暴れ川でした。
(注:権現様というのは、権=仮のお姿で、たとえば仏教の神様が神道の神の姿でいるなどというようなケースで用いられた言葉です。このあたりの権現様は、竜神であったようです)

江戸時代初期、江戸の町への水路として、新たに江戸川が築かれまし。
ところが困ったことに、この権現堂川と逆川という二つの暴れ川が、江戸川に接続したのです。
するとどうなるか。
猛烈な水害が起こるのです。
権現堂川、逆川の濁流が、そのまま江戸川に流出し、その濁流が江戸の町に流れ込むのです。

こうした被害を緩和しようと石川民部が建議したのが、「棒出し」です。
権現堂川と江戸川が接続する流頭部に、川の両岸から丸太棒を数千本打ちこんで、権現堂川からの洪水を、なんと江戸川を逆流させて(・・・スゴイですね)、利根川に流し込みます。
こうすることで、江戸川の下流にある、江戸の町を含む町や農地一帯を洪水から守ろうとしたのです。
それにしても、川をつかって、濁流を逆流させて、違う川に濁流を送り込むという発想がすごいです。

ちなみに、明治の頃まで使われていたこの「棒出し」は、いまではありません。
それどころか、いまでは権現川自体が、水害の心配のない、小川兼貯水池になってしまっています。
それだけ江戸川、利根川水系の治水技術が進化したわけですが、もっというなら、この堤防や護岸工事は、いまも着々と進められ、進化し続けています。

ちなみに、棒出し以前の権現堂川には、様々な逸話があります。
これがまた、ものすごく勉強になるお話です。

まず最初に権現堂川に堤防が造られたのが、天正4(1576)年の頃です。
この堤防は、「権現堂堤(ごんげんどうづつみ)」と呼ばれ、たいへんによくできた立派な堤防で、なんと約130年間の長きにわたり、河岸地域を水害から守りました。

ところが、宝永元(1704)年に、この堤防が決壊します。
いちど決壊がはじまると、次々とあちこちがほころびはじめます。
そうならないように、日頃からのメンテナンスが大切なのですが、それが不十分だったわけです。
なんでもそうですが、はじめから「ある」わけでなく、いつまでも「ある」わけではありません。
人が作ったものは、人が手当をしないと、ことごとく滅びてしまう。

権現堂堤も、築造された頃には、メンテナンスもきちんと行われていたのです。
おかげで、130年間、堤防は決壊せず、人々の暮らしを守ってくれました。
けれど、長い期間の安定は、次第に安住と手抜きを生みます。

結果、宝永の長雨で、堤防が決壊してしまうのです。
このときの水害は、江戸市中にまでおよびました。
大江戸八百八町の半ばが水浸しです。
その手前にある、いまの草加市、越谷市、春日部市なども、ことごとく、水没してしまいました。
権現堂川の竜神様、おそるべしです。

いちど、こうした決壊が始まると、堤防は次々と決壊していきます。

天明6(1786)年には、権現堂堤の、また別な場所が決壊し、村ごと濁流に飲み込まれました。
このとき村人たちが、銀杏の大木にすがりついて避難していたのですが、その大銀杏が、根こそぎ流され、75名が流死してしまいました。

享和2(1802)年にも、堤防が決壊しました。
このときも民家80軒が流されています。

この享和2年の決壊のとき、ひとつの事件ありました。
それが「母娘の順礼の悲話」です。

長雨で切れた堤を、村人たちが一生懸命、幾度も修理したのですが、大雨が降りだすと一夜のうちに堤防が切れて、水が流れ出す。
そんな日が何日も続き、大きな被害と、毎日続く工事の疲れで、みんなが口をきく元気さえも失っていた、そんなある日のことです。

夕霞のかかってきた堤の上に、母娘の順礼が通りかかりました。
母の順礼は、堤の切れ口をのぞきこんで、
「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。人身御供(ひとみごくう)を立てなければなるまい。」と言いました。

それを聞きつけた堤奉行は、「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しました。
あたりまえのことですが、誰も人身御供など(自分の命がなくなるわけですから)なり手などいません。
お奉行は、いないと承知で、みんなに問いかけたのです。
そこまでしてあげれば、母娘巡礼も、あきらめると思ったわけです。

ところがそこで予期せぬ事が起こりました。
母順礼が、「では私が人柱になりましょう」と言い出し、念仏を唱えたかと思うと、渦巻く濁流の中に、身をおどらせてしまったのです。
そしてこれを見た娘順礼も、あっというまにその後を追いました。

伝説では、「不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来た」と書かれています。
たぶん、嘘でしょう。
そう書き遺すことで、母娘の御霊を慰めようとしたのだと思います。

ただ、不思議なことがあります。
まずひとつは、この事件以降、堤防工事がはかどり、堤防の決壊事故がほとんど起こらなくなったこと。
そして、もうひとつ・・・こちらのほうが不思議な出来事だと思うのですが・・・・母娘の人身御供のあと、それまで、堤防補強のために何本も植えた護岸用の桜が、まったく根付かなかったのに、なんと、それが見事に根付き出したのです。

こうして権現堂堤には、3000本の桜が植えられ、そこは桜の名所となりました。
いまでも、このうちの1000本あまりが、当時のままに残り、人々の眼を楽しませています。
そして権現堂堤には、順礼母娘の供養のための石碑も建てられています。

もうひとつ書いておかなければならないことがあります。
それは、「おそらくこの母娘は、最初から死に場所を求めていたのであろう」ということです。

亭主に逃げられたのか、何かの事故で夫を失ったのか、その事情はいまではもうわかりません。
けれど、おそらくこの母娘にとって、死ぬ事よりも辛い出来事が、何かあったのでしょう。
そうして、この母娘は、魂を清めるために巡礼の旅に出た。

そしてある意味、死に場所をもとめて雨の中を、関東八十八ヵ所霊場をめぐって歩いているときに、たまたまこの、大水と、堤防補修工事の現場に遭遇したのであろうと思います。

おそらくは、「生きていても役にたたないこの身、最後に人柱となって人々の役にたてれれば・・・」、そんな気持ちで、最初から自分が濁流に飛び込むつもりで、人柱の申し出をしたのであろうと思うのです。
そして、そんな母親の悲しみの心を知る娘だから、母が濁流に飛び込んだとき、自分も一緒に飛び込んだ。
この二人の母娘には、それだけの深い孤独と悲しみがあったのであろう、ということです。

ただ、このことを通じてひとつ言いたいのは、この二人の母娘巡礼に、どのような孤独と悲しみがあったかはわからないけれど、二人は死を決意し、その死を、二人に最後に残された、かけがえのかい「命」というものを、最後の最後に、世のため人のために尽くすことに使おうとした。
その二人の母娘の心情や、まことに哀れ、と思うのです。

いまの日本では、年間の自殺者が約3万人いるのだそうです。
薬物死、飛び降り、電車などへの飛び込みなど、やり方、方法はいろいろです。
けれど、そのいずれもが、申し訳ない言い方にはなるけれど、最後に「他人に迷惑をかけて死んで」います。
この点は、二人の巡礼の母娘と、(こういうことは比べるようなことではないのだけれど)、あまりにその心根に、落差がありすぎるように思うのです。

人が生きていれば、辛いこと、我慢しきれないほどの悲しみなど、たくさんあります。
そこで、死を決意することもあることでしょう。
けれど、ひとつしかない自分の命を、最後にどう使うのか。
それは、その人自身の判断によって決せられることです。

自ら捨てようと決めた命を、多くの人のために使おうと、一般人の母娘でさえも考え決意した、かつての日本。
周囲や他人の迷惑を省みず、ただ自分が辛いからと、命を粗末にする昨今の日本。
申し訳ないけれど、その違いは大きすぎると思います。

もし、3万人の中高年自殺者が、ただ死ぬのではなく、日本を建て直すためにそれこそ一人一殺の心意気で世直しに立ち上がったら、それだけで日本は変わる。

個人主義が標榜される現代社会ですが、江戸の昔には、そもそも「個人」などという単語自体がありません。
あるのは、つねに「みんな」です。

誰もが世のため人のために生きるということを、あたりまえとしていたかつての日本。
いま、私たちが、学ばなければならない日本の姿のひとつが、そこにあるのではないかと思います。

さて、大暴れした権現堂川は、いまでは江戸川、利根川とは切り離された、農業灌漑用の小川となっています。
そして、川の沿線は、洪水の心配のない大規模な住宅地となっています。

長い歴史の中で、人が人と力を合わせることで、いかにしたら自然と共存し、自然と仲良くできるかを、創意工夫し続けて来たのが、日本の歴史です。

そういう自然と溶け込み、なんとかしてみんなで工夫することで共存しようとする思考は、やはり日本が多神教の国であり、根底に自然への感謝の想いがあるからなのであろうと思います。

なにごとか、大きな事業を行おうとするとき、日本は古来、特定の支配者によって民衆が強制的に使役されて工事を行う、ということをしてきませんでした。
支那や朝鮮では、あたりまえだったそうした手法が日本では採られなかったのは、気持ちや心がはいらなければ、ろくな工事なんてできないということを、みんなが知っていたからです。

ですから日本では、集団の合意によって、みんなで力を合わせるという手法を、ずっととってきました。
それはお金があるからとか、権力があるから、ということとはほど遠い、人が人と力を合わせる、という方法です。

奴隷なら、支配者によって使役させられるだけです。
そこに意思など認められません。
けれど日本では、古来奴隷ではなく、一般の民がみんなで力を合わせて働きました。

私たち日本人が、権力者の奴隷や奴婢、白丁などではなく、みんなが一人前の「人」として生きる事ができたのは、日本に天皇というありがたい存在があったからです。
その天皇という言葉さえも、一般に使われるようになったのは明治以降のことです。
昔は、天子様とか、御門(ミカド)とお呼びしました。

ミカドというのは、個人の人を意味しません。
ですから将軍は、拝謁の際は、広間で顔出ししますが、ミカドとの拝謁は、常に簾(すだれ)ごしで、その姿は見せないものとされていました。

つまりミカドは、人ではなく、政治的権力者に、権力というの認証を与える権威であったからです。
そして私たち民衆は、ミカドの民です。
つまり私たち日本人が、古来、権力者の奴隷、権力者の私有民にならずに済んでいるのは、天子様が、私たちを天子様の民、という位置づけにおいてくれているからです。

これにより、あらゆる日本人は、権力者の奴隷とならずに済んだ。
つまり、私たちが自由な民でいれることと、ミカドの存在は、クルマの両輪です。
これが日本のカタチです。

天皇を人間として見るというのが、日本開闢以来、はじめて現代人が行っている傲慢であり、現代人による自由の自殺行為です。
なぜなら、天皇が人間となった瞬間、私たちは、私たちの上司や会社社長、あるいは政治権力者の私物、私有民、すなわち、奴隷の身分に落ちるからです。

戦後、日本人の民度が下がったとよく言われますが、あたりまえです。
みずから奴隷となる道を、日本人自身が選んでいる。
戦後の日本人が見失った最大のもの、それが天皇という存在のありがたさ、ではなかったかと私は思っています。

話が脱線しまくっています。
権現堂堤の話です。
脱線ついでにもうすこし脱線しますけれど、昭和39(1964)年の東京オリンピックの前に、戦後復興の象徴として、高速道路や新幹線、鉄道や道路の橋梁や、大型トンネル施設など、たくさんの国土インフラが整備されました。
東京を走る首都高速なども、そのひとつですし、国道1号線や16号線などの、大型道路に架かる橋なども、ほぼ、この時期に築かれています。

ところが、この当時築いた施設は、ことごとく、鉄とコンクリートによる建造物です。
そして、鉄とコンクリートの建造物は、耐用年数が50年であり、来年、2014年は、まさに東京オリンピックから、その50年目を迎えます。
昨年12月に起きた、中央自動車道の笹子トンネルの天井板落下事故は、ですから偶然のものではありません。

国土インフラは、そういう意味で、いま、おおいなる見直し、再生の時期にきているわけです。
なにせ、全国にある橋、高架線、コンクリート建造物すべての状態調査を行い、その補修、補強工事をするのです。これには猛烈な予算がかかります。
国費が、そういう面でも莫大な支出をともなうということがわかっているその時期に、 民主党政権は、自公政権時代よりもはるかに国債債務を増やし、そのカネを支那と韓国に20兆円もバラまいていたわけです。

しかも、支那、韓国の留学生には、年間262万円もの補助金を出しています。
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【支那、韓国人が日本の大学に留学する歳の政府補助金】
1 生活費として
  月額142,500円(年171万円)
2 授業料
  国立大学は免除
  公立・私立大学は文部省が負担
  (年52万800円)
3 渡航旅費
  往復航空券支給
  東京-北京 (片道111,100円×2)
4 渡日一時金
  一律 25,000円
5 宿舎費補助
  月額9,000円または12,000円
  (年144,000円)
6 医療費補助/実費の80%
1+2+3+4+5=262万円/年
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日本人の学生が就職もできないで困っていて、しかも国内インフラの総合的見直し対策をしなければならないときに、この政党はいったい、何を考えていたのでしょうか。いったいどこの国の政府なのでしょうか。

しかもこの連中が、恥ずかしげもなく、まだ選挙に出て来るだけでなく、いまの安倍内閣の批判までしているというのですから、これはもう驚きを通り越してただ、あきれるばかりです。


いま、選挙期間中です。
この選挙で、日本の未来が決まります。

どうか、長い歴史をもった日本を、絶対に失わない。
私たち日本人が、徳性の高い民、誇り高い歴史と伝統と文化の民であることを取り戻す。
そのために、どうか、投票の選択を間違わないよう、皆様にお願いしたいと思います。


初夏の権現堂公園