中山恭子先生の凄味
倭塾第3回公開講座のご案内
今回は知覧特攻基地の母、鳥浜トメさんのお孫さんからお話を伺います。
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拉致被害者らとともにタラップを降りる
中山恭子先生(平成14年)
西村眞悟先生が、昨年7月に宮崎で講演されたとき、以下のお話がありました。
平成14年当時のお話です。
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拉致被害者救出運動の中で、内閣参与として中山恭子先生がおられた。
皆さんに申し上げておきますが、今5名の拉致被害者とその家族は日本におりますが、彼らが帰ってきた平成14年10月に於いて、日本国政府は、彼らを一週間で北朝鮮に送り帰すと本気で思っておったんです。
拉致議連の我々も、もっと暴れねばならなかったけれども、外務省の特命拉致担当大使とやらが、北朝鮮と約束したことですから、送り帰さなければなりませんと言っておりました。
その時、政府側でただ一人、細い女性の声で、拉致被害者を北朝鮮には帰さないという方針で私はいきますと言われたのが、中山恭子先生でありました。
そして後で聞きましたら、政府内で孤立無援の中で、国家のために送り帰してはならないという論陣を張られて、安倍晋三内閣副官房長官もそれに同調して行ったというのが真実であります。
つい最近、産経新聞が6人の女性の議員の顔をならべて、もし女性の総理大臣が出るならば、この中から出るであろうという企画をしておりましたが、あの時に顔を並べておったのは、みな政界のチイママクラスです。
アイアンレディーは中山恭子さんだけです。
もし女性の総理大臣がわが国から出るならば、それは国家のために中山恭子先生でなければならないと思います。
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1970年代から1980年代にかけて、日本国内で不自然な形の失踪や行方不明事件が相次ぎました。
その中のひとりが横田めぐみさんです。
昭和52(1977)年11月15日、いつものように家族とともに賑やかな朝食を食べ、元気良く中学校に出かけていった横田めぐみさんは、いつもの下校時刻になっても帰ってきませんでした。
お母さんも、お父さんも、心配で必死でめぐみさんを捜しました。
警察にも行きました。
けれど、ただの家出事件として受付られただけでした。
北朝鮮による拉致の疑いがあるとわかったとき、ご両親は外務省にも掛合いました。
出てきた答えは、拉致問題の解決には北朝鮮との国交回復に10年、交渉に10年、あわせて20年かかるというものでした。
けれど20年経っても、事態は何も進展しないままでした。
一方、拉致されめぐみさんは、拉致当日、40時間もの間、北朝鮮に向かう船の船倉に閉じこめられました。
めぐみさんは、「お母さん、お母さん」と泣き叫び、出入口や壁などあちこち引っかき、北朝鮮に着いたときには、手の爪がはがれそうになって血だらけだったそうです。
事態が動いたのは、平成14(2002)年になってからのことでした。
米国が北朝鮮を疎み非難し、そのため北朝鮮の金正日総書記は日本との関係改善を希望しはじめたのです。
日本は、小泉内閣で訪朝を決めました。
目的は「北朝鮮との国交正常化」です。
当時、古川貞二郎官房副長官が記者会見で語った言葉があります。
「拉致問題で何人が帰ってくるこないということではない。そういうことがあればハッピーだが、それよりまず国交正常化に対する扉を開くことに大きな意義がある」
外務省の槙田邦彦アジア局長も次のように述べています。
「拉致されたたった十人のことで日朝国交正常化がとまってもいいのか、拉致にこだわり国交正常化がうまくいかないのは国益に反する」
日朝首脳会談は、その外務省の田中均アジア大洋州局長が人脈を駆使してセットしました。
それは日本の総理が北朝鮮を訪問し、国交正常化と引き換えに、大量のカネを北朝鮮に渡すというものでした。
要するに国が北朝鮮に頭を下げて朝貢し、カネを献上するかわりに、商売をさせてもらう窓口を開いてもらおうという交渉です。
拉致被害者の問題は、その交渉に「むしろ邪魔になる」というのが、当時の外務省の考えでした。
小泉総理は、日本を飛び立ちました。
その飛行機に同乗していたのが、当時官房副長官だった安倍晋三氏です。
その飛行機の中で、安部氏ははじめて外務省の用意した「日朝平壌宣言」を見せられました。
ところがその宣言の中には「拉致」という言葉はひとことも触れられていなかったのです。
安部官房副長官は怒りました。
けれど、すでに宣言文は双方の事務レベルでの合意に達しているという。
このままではいけない。
北朝鮮に乗り込んだ小泉首相
(中央が安部晋三官房副長官/当時)
安部副長官は、小泉総理に平壌で拉致のことを話題にするよう、強く求めました。
小泉総理もこれを理解し、このことを訪問早々に話題にしました。
このとき北朝鮮側から帰ってきた答えが「5人生存8人死亡1人未入国」というものでした。
「8人死亡!」
その発言は、日本側に重い沈黙を生みました。
安部官房副長官は、小泉総理に「厳しく抗議してください!」と進言しました。
小泉総理もこれを理解し、そのように北朝鮮側に述べました。
北はそれを黙殺しました。
このままではいけない。
そう思った安部官房副長官は、一計を講じます。
昼食の休憩のために控え室にはいったとき、安部副長官はそこが盗聴されていることを意識して、故意に大声で「拉致したという白状と謝罪がないのなら、調印は考え直した方がいい。今すぐ帰りましょう!」と話し声をあげたのです。
これは北朝鮮にしてみれば大問題です。
そもそも日本からの経済援助金がなければ北は政権が崩壊する。
そしてこの日の午後の日朝会談で、金正日は「拉致」の事実を認め、謝罪したのである。
安倍晋三副長官の、この発言が北の姿勢の変更につながったことは、実際にこのときに盗聴を担当していた脱北した元工作員の張哲賢氏も証言しています。
この北の謝罪が行われた日朝首脳会談が、平成14(2002)年の9月17日です。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120920/plc12092009570008-n1.htm
北が拉致を認めたことで、その後の拉致被害者に対する日本への帰還交渉が一気に前進します。
これには日本国内で拉致問題を扱ってきた多くの活動家たちの努力があったことも見逃せません。
なにせこの時点まで、社民党の辻元清美政審会長などは、自身のホームページ上で「(拉致問題は)新しく創作された事件というほかない」とする平成13年11月に書いたレポートが掲載されたままだったのです。
また、原敕晁(ただあき)さんや地村保志さん夫妻、横田めぐみさんを拉致した実行犯である辛光洙(シン・ガンス)の無罪釈放を堂々と要求していたのが、後に首相となる村山富市や菅直人らでした。
要するに彼らは、「北朝鮮は地上の楽園」であり、だから北朝鮮による「拉致などありえないし、拉致だと騒ぐのは日本の右翼による捏造である」と強弁していたのです。
ところが、北朝鮮の金正日自身が、拉致を認め謝罪をしました。
日本国内でも、拉致問題に関する関心は急速に高まりました。
そしてこの会談の9日後の9月26日、ウズベキスタンの特命全権大使を退任したばかりの中山恭子先生が、拉致被害者家族担当の内閣官房参与に就任されたのです。
中山恭子先生の行動は、まさに迅速を極めました。
関係各国等に働きかけると、10月早々には地村保志さん富貴恵さんご夫妻、蓮池薫さん、蓮池祐木子さんご夫妻、曽我ひとみさんら5人の拉致被害者を堂々と、単身北朝鮮に乗り込んで、日本に連れ帰ってきてしまったのです。
これが10月15日の出来事です。
このときの北朝鮮の判断は、あくまで「一時的出国」です。
日本の外務省の判断も、あくまで「一時的帰国」です。
つまりまた北朝鮮に戻すというものです。
このとき、安部副長官が外務省の田中均アジア大洋州局長に「5人を返さないでくれ」と言いました。
外務省の田中均アジア大洋州局長の答えは「それは困る。わたしと先方との信頼関係はどうなるのか」と食い下がったと言います。
けれど安部官房副長官は言いました。
「田中さん、5人の帰国はあなたの信頼関係のおかげかもしれない。けれど外務省が日本に残ることを希望している5人を勝手に連れ出すわけにはいかないでしょう」
そして中山恭子先生が続けました。
「局長、貴方がやっているのは外交ではありません。北朝鮮へのお願いです。外交官ならお願いをやめて外交をやりなさい。」
田中局長は怒りに顔を染め、帰国させる側だった福田康夫官房長官も安倍副長官、中山恭子内閣官房参与に怒り、机をたたいて激昂したという話もあります。
けれど中山恭子先生は、ここで「拉致という犯罪によって奪われ、その犯罪者から被害者を取り返してきたのに、これをまた犯罪者に返すというのは、道理が通らないのではありませんか」と、静かに道理りを尽くされました。
これには誰も反論できません。
あたりまえです。泥棒に持ってかれた宝石を、ようやく取り返してきたのに、これを再び泥棒に返すなど前代未聞です。
まして帰国した被害者自身が、日本に残ることを希望しているのです。
それを返すなど、もってのほかです。
ここが、足して二で割るだけの政治屋と、民衆の盾となれる真のリーダーとの違いです。
かくして総理の決断は下されました。
「返さない!」
こうして5人は、永久帰国となったのです。
拉致被害者の救出は、以上のように安倍晋三現内閣総理大臣と、中山恭子現参議院議員の二人の活躍がなければ起こりえなかったことです。
そしてこのお二人に共通しているのは、国民を守るという明確な国家観です。
その鋼鉄の意思があるから、見るべきものがちゃんと見える。
中山恭子先生は、この拉致被害者の問題があった事件の前、ウズベキスタンでもやはり拉致被害者を取り返しています。
中山恭子先生がウズベキの特命全権大使として就任されたのは、平成11(1999)年7月のことです。
ところがその直後の8月23日に、隣国キルギスの南西部オシェ州で日本人の鉱山技師4人を含む7人がウズベキスタンの反政府武装ゲリラにグループに拉致されたのです。
反政府ゲリラは、拉致した技師たちを隣国のカザフスタンの山中に連れ出しました。
つまりウズベキスタンの国境の向こうに被害者を拉致したのです。
中山恭子先生は、至急日本の外務省に連絡をとり、指示を仰ぎました。
すると外務省から帰ってきた答えは、「キルギス政府に交渉を一任せよ」というものでした。
キルギスの国内で作業中に拉致されたのだから、キルギスに一任せよ。
いっけんもっともらしい理屈です。
けれど、犯人グループは、武装し、カザフスタンに逃げ込んでいるのです。
つまり、キルギス共和国の国境の外、外国にいるのです。
キルギス政府は、到底動けるものではありません。
このことはウズベキスタンも同じです。
国境の外に行かれてしまってはどうにもならない。
しかしこのままでは、拉致された鉱山技師らは、全員命を失う危険があります。
そこで中山恭子先生がどうしたかというと、単身で、その武装した反政府ゲリラの本拠に乗り込んだのです。
相手は、機関銃で武装しています。
そこに日本人女性が、ひとりで乗り込んだのです。
そして筋道をたてて武装ゲリラを説得し、なんと拉致された被害者全員を、まるで無傷でカザフから連れて帰って来られたのです。
おそらく、こんなことをやってのけた女性というのは、人類史上はじめてのことではないでしょうか。
中山恭子先生は、東大を出た後、大蔵省に入省されています。
大蔵省では、女性初の地方支分部局長として四国財務局長に就任し約2年間を高松で過ごされています。
まさに女性官僚の草分け的存在なのですが、ひとつ中山恭子先生について、他の女性官僚と大きく異なるのは、赴任したすべてのセクションにおいて、いまだに中山恭子先生のおいでになった時代が、最高の仕事ができた、最高に楽しかった、最高の時代だったと懐かしがられている点です。
人間的魅力、お人柄、そして周囲の誰もが、いつの間にか気がついたときには、内面から善意のかたまりになってしまう。
人間のもつ力というのは、自己を鍛えることでここまですごいものになるのかと、つくづく関心します。
こう書くと、なんだか鉄の女のような感じがするかもしれません。
けれどそうではないのです。
実際にお会いしてみたらわかりますが、実におしとやかで、おっとりとされていて、温和そのものの方なのです。
ところがその温和さの中に、国家観という鋼鉄の芯が一本、ピンと通っている。
冒頭に西村眞悟先生の「アイアンレディーは中山恭子さんだけです」というお話をご紹介させていただきました。
その中山恭子先生は、7月には、参院選を戦われます。
日本が、絶対に失ってはいけない政治家。
それが中山恭子先生です。
どうかみなさん、7月の参院選では、比例区には是非「中山恭子」と書いて下さい。
組織票をもたない中山恭子先生を、政界に送り出せるのは、一有権者である私たちだけなのですから。
【中山恭子】~平成25年5月13日 参議院予算委員会~
気がつくと周囲が与野党関係なく全員が恭子先生の味方になっています。

