ヤマハさんと河合さん | mappyの憂国

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天秤棒で荷物を運ぶ人
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私などが子供の頃は、小学校の教室にはオルガンがあって、音楽の授業のときなどは、先生がそのオルガンを弾いてくれ、みんなで合唱したりしたものです。
クラスの中には、ピアノを習っている女生徒などもいて、学級内での合唱とかのときには、その女性とがオルガンを弾いてくれたりしましたが、そうやってオルガンを弾いている同級生が、なぜかとてもまぶしく見えたりした、そんな古い昔の経験をお持ちの方も多いかと思います。

音楽の授業で教わった文部省唱歌の、さくらや桃太郎、浦島太郎や富士山、春が来た、春の小川、村の鍛冶屋、鯉のぼり、海、荒城の月、おぼろ月夜、我は海の子など、あれからもう何十年も経っているけれど、いまも心の歌になっている気がします。

そういえば、老人ホームなどで、こうした動揺や文部省唱歌は、ご高齢者の方々の共通の想い出の歌となっていて、年齢を超えて、みんなで楽しむことができ、しかもこれがボケ防止にもとても良いという話を聞いたことがあります。

最近の学校では君が代も教えず、卒業式に蛍の光や仰げば尊しなども歌わず、教えもしないと聞きます。
代わって、流行歌などを子供達に歌わせるのだとか。
歌は世につれ、という言葉がありますが、そうした時代毎の流行歌と、日本人として共通の心の歌は、また別なのではないかと思うし、時代を越えて生き残っている歌は、そのまま歴史の一部なのではないか
とも思います。

そういえば、私が子供の頃には、靖国神社や、蘇我兄弟、広瀬中佐、八幡太郎、八岐大蛇、加藤清正、水師営の会見、斎藤実盛、児島高徳、日本海海戦、天照大神といった、私たちより前の世代の唱歌は、教えられなくなっていました。

けれど考えてみると、これらは歌を通じて日本の歴史を学ぶことができる、日本人としてのアイデンティティを構築する上で、とても大切な歌であるように思います。

何事も、変われば良いというものではありません。
とりわけ義務教育で教わる歌は、一生の宝でもあります。
とくに最近では、海外の人たちが、カラオケなどを通じて日本の歌に接し、そのやさしさや、心の細やかさに心打たれ、すっかり日本のファンになるケースも多いと聞きます。
歴史や、国語、物理、数学の授業のことばかりでなく、戦後、日教組によって歪められた音楽の授業についても、是非、メスを入れていただきたいと思います。


さて、その音楽の授業や、教室での合唱のときに定番だったオルガンですが、学制がひかれ、全国に小中学校が配置された頃から、あたりまえのようにあったものではありません。
明治の中頃までは、学校にオルガンなどというシロモノはありませんでした。

けれどそのオルガンを、子供達のためにと、必死で作った人がいました。
そしてその重たいオルガンを、田舎の山奥の小学校まで、歩いて運んだおじさんたちもいました。
昔はトラックなんてありませんから、みんな天秤棒にぶら下げて、担いで運んだのです。

そうやって子供たちに歌が届けられました。
学校に、ただ一台のオルガンです。
そのオルガンを、音楽の先生が弾いてくれ、その旋律に合わせて同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいった時代がありました。

その先人たちの思いや努力、歴史を、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのでしょうか。
むしろ、それこそ情感に対する暴力そのものといえるのではないでしょうか。

そして子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた日本人としての共通の思い出を奪う者は、もはや教育者の名にさえ値しない。
そう思います。

そこで今日は、平成21年の過去記事から、ヤマハさんと河合さんを、リニューアルしてお届けしたいと思います。
この物語を通じて、先人達の思いに、すこしでも感謝の気持ちを思い起こすことができれば、と思います。

山葉寅楠
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日本で最初に国産のオルガンを作ったのは、ヤマハの創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)です。
寅楠(とらくす)とは、ちょっと変わったお名前ですが、楠正成(くすのきまさしげ)にあやかって付けられた名前だそうです。

山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人だったそうです。
けれど若い頃の山葉寅楠は、宮本武蔵の強烈なファンで、16歳で二天一流の武者修行に出ています。

この武者修行というのは、剣の道を極めようとする者が、全国の道場をめぐり、剣術の試合をして腕を磨いたという、江戸日本の制度のようなものです。
よく、時代劇や格闘もののマンガなどでは、いわゆる道場破りがいて、その道場の門弟と試合をして勝つと道場の看板を持って帰ったり、割ったり、踏みつけたりするようなシーンが描かれますが、日本ではそのような乱暴狼藉は、100%御法度(ごはっと、禁止行為)でした。

武者修行者は、全国の道場を廻り、そこで試合を所望します。
これには、その道場の高弟が対応し、どちらが勝っても、買った方は負けた方に、剣術を教え、互いの技術を高めあいました。

ちなみに、昨今の武道の試合では、ギャラリーが「ファイトー」とか声援を送りますが、かつての日本の武道の試合では、そうしたギャラリーの声援も御法度です。
日本の武道は、欧米の格闘技のような体力そのものを競うものではありません。
竹刀でむやみに打込んで、当たれば一本というようなものでもありません。
なにせ試合は木刀です。
打ち所が悪ければ、相手を殺したり、大怪我を負わせてしまいます。

ですから、打込む前に、相手の動きをよく読み、相手の動きを最小限の体捌きで躱(かわ)しながら、相手を斬るという稽古を重ねたわけです。
ですから試合にはたいへんな集中力を必要とします。
そして試合は、神前に礼をしてはじめる、神聖なものとされていました。
だからギャラリーの大声をはりあげての声援など、もっての他だったわけです。
試合は完全な静謐の中で行われていました。

そういう武者修行の旅に、寅楠は16歳で出たわけです。
相当な腕前であったろうことが、推察されます。

こうして、世が世なら、寅楠は、紀州藩で親の天文方を継ぐか、剣術道場を開いてそこの先生に収まるかしたところだったのですが、しかし明治維新で家が没落してしまいます。
時代が変わったのです。
いまさら剣術でもないし、これからは手に職がないと生きて行けない。
山葉寅楠は、20歳のときに、ひとり大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械の修理を学びました。

ところが、せっかく精密機械の修理工を学んだものの、肝心の仕事がないのです。
明治の中頃です。
そもそも精密機械というもの自体が、決して数が多くない。
彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。

そんなとき山葉は、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。
明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。

その頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられていたのです。
浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)では、その唱歌教育を全国でも先駆けて開始しようと、オルガンを1台購入しました。

当時、まだ国産オルガンはありません。
ですから外国製です。
当時のオルガンは、外国から船に乗ってやってきたのです。
当然のことながら、とんでもなく高価な品でした。

ちなみにオルガンは、外見はすこしピアノに似ていますが、足のペダルで風を送って音を鳴らします。
ですので、当時はオルガンのことを風琴(ふうきん)と呼びました。
高価な外国製の風琴を、浜松の小学校が買ったということで、これはたいへんな評判になり、元城小学校には、全国から大勢の教師が視察に訪れたそうです。

ところが、この風琴、すぐに故障してしまったのです。
修理したいのだけれど、外国製だし、交換部品もなければ専門の楽器修理工もいません。
しかもとびきり高額な貴重品です。
万一修理に失敗したら、とりかえしがつきません。

困った小学校は、ある日、浜松県立病院に精密機会の修理工がいるという話を聞きつけます。
こうして山葉寅楠のもとに、オルガンの修理の依頼がきました。
時計や医療器具修理のできる山葉寅楠なら、きっとオルガンも直せるだろうというわけです。
いまにしてみれば、かなり乱暴な話ですが、当時にしてみれば、まさにワラをもつかむ思いだったわけです。

山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安でいっぱいでした。
まわりの人たちが心配そうに見守る中、寅楠は、まずオルガンの点検からはじめました。
そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに気がつきます。

そして、ここが実におもしろいのですが、このとき寅楠は、
「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺につくれそうだ」と思い立ったというのです。
「アメリカ製のオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくることができる!」
そうなれば、日本の未来を担う子供達に、もっとたくさんのオルガンを普及し、活用してもらうことできる」と思い立ったわけです。

ちなみに明治10年代の白米10キロの値段は50銭でした。
いまだと同じ量で5,000円くらいですから、感覚的にはオルガン一台4500万円のところを、オレなら30万円で作れる、と考えたわけです。

寅楠は決心しました。
「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」。


このあたりの寅楠の考え方は、非常におもしろいと思います。
オルガンの市場性に着目するだけでなく、それが「国益になる」と考えたわけです。
一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があったのです。

寅楠は、もと徳川方の武士で、当時の政府は薩長政府です。
お国のためというのが、薩長政府のためになるから、面白くない、などとはまったく考えなかったわけです。
それでも彼は、お国のため、と考えたわけです。

これもたいへん重要な点です。
当時の元武士たちは、武家という身分を四民平等で失ってもなお、そして政府が薩長政府であろうがなかろうが、お国のため、という意識を明確に持っていたということだからです。

よく、明治維新を革命だと考える人がいますが、それは違います。
日本は江戸の昔も、明治の世も、等しく天皇を中心とした国家体制だったのです。
ですから明治維新は、革命ではなく、天皇の親任のもとにある政府が、徳川家から薩長政府に代わっただけの政権交替です。
だからこそ、全国の武士たちは、廃藩置県や四民平等後も、お国のためを第一に考え、行動していたのです。

そしてかつての武士たちのこうした思考は、明治の終わりから昭和にかけて、全国民の共通の思いとなって行きました。
ですから、お国のため、という思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである、などというのは、とんでもない間違いで、江戸の昔から、武士たちの間には、お国のため、あるいは公益に尽くすという考え方が、あたりまえのこととしてあったし、その精神が崇高なものであったからこそ、その精神が全国民の共通する思考となっていったのです。

さて、オルガンの修理を依頼された寅楠は、その翌日から、来る日も来る日もオルガンの内部を調べました。
修理が必要なバネだけではなく、オルガンの持つ様々な部分を、細かく図面に書き写したのです。

そうして約一ヵ月が経ち、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、そこからやっと壊れたバネの修理に取りかかりました。
バネそのものは、冶金術が発達していた日本では、作るのがそんなにむつかしいことではありません。
こうして寅楠は、見事にオルガンを直してしまいました。

「山葉さん、すばらしい。直してくれてありがとう!」
「いいえ、校長先生。私のほうこそお礼をいいたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから」
山葉寅楠も、内心、ニッコリです。

ところが、です。
オルガンの図面は作ったものの、寅楠には、オルガンをつくるための資金がありません。

そこで寅楠は、あちこち尋ね歩いて、オルガン作りの資金援助の協力を求めます。
ところが、多くの人たちは「あんた、気でも狂ったの?」

面と向かって、そう言って断られれば、誰だって気落ちします。
プライドだってズタズタになる。
それでも寅楠は、あきらめませんでした。
「お国のためになるのだ」
その一念だけ
で、寅楠は、浜松市内の篤志家を求めて、一軒一軒を尋ね歩いたのです。

そうして5日ほどたったある日のこと、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎と出会います。
そして「力を貸してほしい」と頼み込みました。
河合喜三郎は、寅楠の熱意と腕に、「よしっ! こいつに賭けてみよう!」と決心します。
こうして寅楠は、河合喜三郎とともに、翌日から小杉屋の仕事場を借りてオルガンづくりをはじめました。

けれど、二人とも、情熱はあるけれど、材料もなければ専用の道具もありません。
寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど毎日徹夜で、ひとつひとつ工夫しながら部品を作りました。
そして二ヵ月かかって、やっとオルガンの第一号を完成させたのです。

寅楠は、出来上がったオルガンを、真っ先に元城小学校へ運びました。
そして唱歌の先生に頼んで、そのオルガンを弾いてもらいました。

けれど、先生から、
「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われてしまいました。
そうです。調律がなってないのです。

ところが、まだ「調律」という言葉もなかった時代のことです。
しかもドレミの音階そのものが、まだ世に定着していない。
先生は「おかしい」というけれど、寅楠には何がどうおかしいのかがさっぱりわかりません。
先生も、何かがおかしいということはわかるけれど、具体的に何がどうおかしいのかがわからない。

そこで寅楠は、おなじく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)に、オルガンを持参しました。
けれど結果は同じでした。
音がおかしい、です。

音の何がどうおかしいのか。河合と寅楠にも、肝心なところがさっぱりわかりません。
どうすればいいのか。。。。
こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃわからんかもしれん。

寅楠と河合喜三郎の二人は話し合い、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと決めます。
「それには、東京にある音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろう」

しかし音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのかなんてわかりません。
会うためには、どうすればいいのかもわからない。
電話なんてものはありません。もちろん携帯もありません。
104の番号案内も、ありません。
行ったところで、エライ先生が会ってくれるかどうかもわかりません。

しかし、とにかく行くしかないだろう。。。

二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにしました。

かつぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
まず重たい。
道のりは東海道を270kmです。
それを歩いて運ぶのです。

雨の日は動けません。
晴れても、風が吹いたらあおられます。
しかも、箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
いったい何日かかることか。

山葉オルガン1890年
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重たいオルガンをかついで、東海道を上り、ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せました。

教授たちはびっくりします。
国産でオルガンをつくってしまったことに、まず驚ろきました。
そのオルガンをかついできたことにも驚きました。
そして音が外れていることにも驚きました。

音程が狂っている。
音階もおかしい。
これでは楽器として使えるものではない。

西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、
「調律があってないのです。あと一歩です。オルガンを完成させるために、君たち、ここで音楽を学んでいきなさい」と言ってくれました。
そして伊沢所長は彼らのために、宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可してくれたのです。

喜三郎は、先に浜松に帰ることにしました。
寅楠は東京に残って、調律や音階を必死で学びました。

こうして約1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかったのです。

ところが・・・・。
途中で、資金が底をついてしまったのです。

河合の妻は、親戚中をかけまわって借金してくれていました。
衣服も、嫁入り道具も、ぜんぶ質屋に入ってしまっています。
残った着物は、いま着ている1着だけです。
ですからその着物を洗濯するときは、まる裸になるしかありません。

そんな様子を聞き知っている親戚たちは、お前たち夫婦は気でも狂ったのかと猛反対しました。
河合の妻は、それでもあきらめず、夫のために金策をしてくれました。
そんな河合の妻の様子は、夫の喜三郎も、寅楠も、みるのも辛いことでした。
もうやめようか、とも考えました。
けれど、寅楠と喜三郎は二人で話し合い、「今度こそ立派なオルガンをつくろう、日本中の子供たちに音楽を届けるために頑張ろう」心に念じて努力に努力を重ねます。
もう、後がないのです。
これで失敗したら、二人はすべてをあきらめるしかなかった。

二ヵ月経ちました。
とうとう第二号のオルガンが完成しました。

こんどは大丈夫だ。
しっかりと調律もした。
これならきっと認めてもらえる。

二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げ、ふたたび270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かったのです。

再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせました。
「山葉さん、すばらしい! よくやりました。これなら外国製に負けない見事なオルガンです。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ!」

やっとできた!
認められた!
このとき、寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いたそうです。

この時代、男は「男が涙を見せるのは、一生に1度」と教わっていた時代です。
その男が、大の大人のおやじが、洟をすすりながら、手を取り合って泣いたのです。

あまりの喜びに、寅楠と喜三郎は、このオルガンを国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈しました。
「伊沢所長のおかげで完成したのです。どうか使ってください」

気前がよくてオルガンを寄贈したとかそういう話ではありません。
それだけうれしかったのです。
だからそのうれしさをカタチにしたのです。

二人は手ぶらで、浜松に帰りました。
そして喜びに目を輝かせて帰宅した二人を待っていたのは、河合の妻でした。
河合の妻は、嬉しそうに様子を語る二人の話をじっと黙って聞いてくれました。
「で、あんたたち、これからの生活はどうするの?」

一方、二人が造ったオルガンの寄贈を受けた伊沢教授は、このピアノについて、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ってくれていました。
実はこれ、ものすごいことだったのです。
どういうことかというと、二人の作ったオルガンが、いわば東京芸術大学学長のお墨付き、となったのです。
ニュースは、口コミで広がりました。
そして、寅楠のもとに、オルガン製造の注文が来たのです。

注文第1号は、静岡県内から、いきなり5台というものでした。
代金は前払いでいただくことができました。
そして、その後も政府の文部省唱歌の普及促進方針によって、オルガンの需要は全国でうなぎ登りとなったのです。

寅楠と河合喜三郎は、河合のお店の作業場に「山葉風琴製造所」の看板を掲げました。
そして本格的にオルガンの製造にとりかかりました。
そしてわずか1年後には、「山葉風琴製造所」の従業員は100名を超え、ロンドンにまでオルガンを輸出するようにさえなって行ったのです。

二人の努力と周囲の善意は実を結びました。
明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力し、個人商店だった山葉琴風製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組しました。
そしてこの頃から寅楠は、オルガンだけでなく、ピアノの国産化を目指すようになったのです。

伊沢修二教授の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学し、部品を買い付けました。
帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号をつくるべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかったのです。
ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しました。

なぜ国産にしたかというと、実は、天才がいたのです。
それは、河合喜三郎の親戚の河合小市(かわいこいち)という少年でした。
このとき、小市は河合の親戚の河合小市が造った。小市は、後に「河合楽器」を創業したひとだけれど、このとき小市は、わずか11歳でした。
けれど、いまでいう絶対音感があったのです。
そしてこの河合小市は、後年、おなじく浜松で、寅楠からの暖簾分けでピアノの製造会社を創業します。
それが、いまの「河合楽器」です。

山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功しました。
山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞しています。

オルガン、ピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は、社名を「ヤマハ株式会社」に変え、いまでは世界一の楽器製造を誇る企業へと成長しています。

東海道を、天秤棒で重たいオルガンを担いで、270kmを歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎の二人の情熱と努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めました。

田舎の山の中の小学校にも、オルガンが届けられました。
トラックなんてなかった時代です。
重さ100キロのオルガンは、船で運び、陸路はそれが山道であっても、一台一台全部、おじさんたちが担いで運びました。
大八車に乗せて運んだら、振動で調律が狂ってしまうからです。

ある日、学校に、はじめてのオルガンがやってきます。
全校生徒が、いまかいまかと、期待に旨を膨らませています。
そこへ、遠くのほうから、山道を登って来る、オルガンの輸送のおじさんたちが、天秤棒にぶら下げた大きなオルガンを下げてやってきます。

教室の窓際に座っている生徒が、それを見つける。
「きたぞー!!」
その声に、全校生徒が校門に向かって駆け出します。

ようやく荷物がやってくる。
校舎内に、その荷物が運び込まれて、セットされる。
子供達が、音楽の先生に、
「弾いてください!」とみんなが口々に声をかけます。

この日のために、紙の上に鍵盤の絵を書いて、必死で練習してきた先生が、オルガンの前に座る。
どんな音がするんだろう。
みんながドキドキしながら待っています。

先生が、オルガンのフタを明ける。
白い鍵盤が顔を出します。

鍵盤をひとつたたく。
ポーンと澄んだ音色が鳴り響きます。

そして、先生が、全校生徒が知っている唱歌を、そのオルガンで弾く。
生徒たちが、その澄んだ音色に胸をときめかせながら、先生と一緒に、その唱歌を歌う。
オルガンの音色がうれしくて、誇らしくて、みんなが力一杯、次から次へと知っている唱歌を歌う。
どの顔も、みんな笑顔です。

学校にはじめてオルガンがやってきた日、全国の小学校で、そんな様子が繰り広げられました。
そうやって子供たちに歌が届けられたのです。
そして同じ国の同じ国民として、みんなが共通の思い出を刻んでいきました。

そういう先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当の意味での教育といえるのか。
私には疑問に思えてなりません。

そしてすくなくとも、そうやってお国のために、子供達のためにと、オルガンを造ったり、運んだり、弾いたりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、私たちはぜったいに忘れてはならない
と思うのです。



松竹映画「 二十四の瞳 」 仰げば尊し