人食い人種がやってきた | mappyの憂国

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人食い人種がやってきた
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ある日、ニューヨーク(ロンドンでもどこでも良いですが)に、千人の人食い人種がやってきたと想像してみてください。
要するに、冒頭の写真のような光景が、町中で見られるようになるわけです。

彼らは、町中で徒党を組み、あちこちの観光地などに出没しては怒鳴りあいのような大声で話し、そのけたたましさといったら、まるで台風です。
なにせ肉食だから元気がいい。

人食い人種たちは、多くが人肉食用の大型刃物を携帯しています。
人食い人種たちは、地元住民の家を襲い、家屋内にいた母親を縛り付け、その母親の見ている前で、子供を殺し、遺体を食べ、さらに父親が仕事から帰って来ると、その父親の目のまえでその母を楽しみながら殺害します。

さらになかには、人肉から搾り取った油を食料油として安値で販売したり、牛肉や豚肉に混ぜて人肉や、飼い猫、飼い犬の遺体からとった肉を利用して格安肉料理店を開く者もいたとします。

もし仮に、そのような事態が起これば、それは大きな社会問題なのではないでしょうか。
けれどそれが現実に起きています。


西暦208年のことです。
華北の地を制した魏の曹操は、江南を平らげようと7月に50万の兵を率いて南下を開始しました。
そして降伏した荊州の兵を組み込み、公称100万と号する大兵力(実数80万)で呉に向かいます。

一方、曹操に追われながらひたすら南に逃げのびた劉備玄徳は、呉の孫権とともに、曹操に立ち向かいます。
そして魏の曹操対、呉の孫権、劉備玄徳両軍がついに長江に沿う赤壁で対決のときを迎える。
ご存知「三国志」の赤壁の戦い(Red Cliff)です。

知将である呉の周瑜、天才軍師の諸葛孔明、人情家の劉備、猛将関羽など、魅力的な人材がしのぎを削るこの物語に、まさに血湧き肉踊る興奮を味わったことのある方も多いのではないかと思います。

ところでみなさまに質問です。

魏の曹操は、当初50万、後に公称100万の大軍を率いて、魏の首都である洛陽(らくよう)から、赤壁まで兵を引き連れて進軍しているのですが、そのときの兵たちの食べ物(糧食)は、なんだったのでしょうか。
また、食べ物はどのように調達したのでしょうか。

洛陽から赤壁までは、直線距離でも約700Kmの行程です。
つまり東京~広島間くらいの距離です。
直線距離700kmということは、実際の移動距離は約1000kmほどになります。
ちょうど東京~福岡間とおなじくらいです。
それだけの距離を移動する。

西暦208年の出来事ですから、当然、自動車や電車はありません。
もちろん飛行機だってありませんから、行軍は徒歩です。
通常の徒歩と違い、軍隊の行軍は隊列を組みますし、多数の荷物を携行します。

このため、ギリシャ・ローマ時代では、強行軍で1日20km、通常の行軍が1日15kmでした。
近代戦の場合でも、1日の行軍距離はだいたい24kmといわれています。

ですから仮に魏の曹操の大軍が80万だったとして、1000kmを行軍するとなると、当時の水準からすれば1日20kmで、約50日の行軍です。
その50日の行軍で兵たちは何を食べていたのでしょうか。

必要な食料は、80万人×1日2食(昔は1日2食だった)×50日分です。
合計8000万食です。

実はこれはたいへんな量で、ひとりが1回に食べる量が300gとすると、50日分で2万4千トンです。
10トン積みのトラックで2400台分というとほうもない量です。

また金額に換算すると、仮に1食300円としても、それだけで240億円が飛びます。
戦費もバカにならないし、なによりそれだけの量の食料の調達が困難です。

たとえば、いまあなたの住んでいる町に、その80万人の大軍がやってきて、八百屋からスーパー、コンビニ、食料品店から一般家庭に至るまで、すべての食料を強制的に調達したとしたら、どうでしょう。
まるでイナゴの大軍ですが、それだけの食料を、あなたの住んでいる町で、賄うことができるのでしょうか。

魏の曹操の時代には冷蔵庫があったわけでもないですし、どの村、どの町に行っても、それだけの食料の調達は不可能です。
けれど、兵は食べなければ死んでしまいます。

で、何を食べていたのでしょうか、という質問になるわけです。
まあ、冒頭の書き出しが「人食い人種がやってきた」ですから、答えはもうおわかりと思います。


すこし生臭い話ですが、体重50kgの人を殺して肉を捌くとだいたい30kgの肉が手に入るのだそうです。これはだいたい150人分の食料になります。
80万の軍勢なら、一度に5000人くらいを殺して食べるわけです。


支那では古来、皇帝は将軍に対して、「お前に何万人の兵をさずけるから、どこそこを攻めなさい」と派兵を命じるだけです。
将軍が授けられた兵を行軍させ、敵地を攻めるためには、その兵たちを食べさせなければなりませんが、そのための食料調達に、皇帝は関与しません。
食いものがないから行軍できませんと将軍が言えば、皇帝はその将軍の首を刎ね、将軍の家族や一族を皆殺しにするだけです。

ですから命令された将軍は、攻めてこいと命令されれば、行かなくてはならない。
兵たちの食料調達は、将軍持ちです。
けれど将軍は、みずから農園を開いているわけではありませんし、移動先での食料調達も、自分たちの手で行わなければなりません。


そして支那の人肉食は、古来からの一般的習慣です。

食料として殺す人々は、行軍途中にある村や町の人々です。
老若男女子供を問わず、片端から食べる。食べる。

三国志の物語は、知謀権謀がうずまき、また様々な人間ドラマがあって、諸葛孔明などの名参謀や関羽や張飛のような豪壮な武者が活躍する一大スペクタルドラマですが、実情は、人を殺して食べていたという、これは華やかなドラマや小説ではない、現実です。


支那の歴史は、まさしく内乱の歴史そのものですが、1800年前の赤壁の戦いに限らず、近世にいたるまで、数万から数十万の兵が動くときは、その都度、人肉食がセットになっています。

元寇は13世紀末に、元と高麗の連合軍が日本に攻めて来た事件ですが、このとき彼らは壱岐、対馬に立寄り、島民を虐殺したということは、有名な話ですが、これも行軍途中の食料調達のためです。

近世にいたり、支那では1900年に義和団事件が起きていますが、このとき北京に集まった義和団の軍団は20万人です。
その義和団の集団が、北京郊外で何を食べていたか、ということです。

そうした人肉食文化が根底にありますから、彼らの国には人間の遺体に対する尊厳という概念がありません。
死ねば、遺体は牛や豚と同じ、ただの食用肉です。

そういう食人文化を持った人たちが、いま日本にたくさんきていて、しかも支那人民解放軍の命令一下、国家動員法に基づいて日本国内で、いくらでも暴れ回るという体制にあるわけです。

そして町を歩く彼らのポケットには、必ずといっていほど、大型の軍用サバイバルナイフが携帯されているといわれています。

ちなみにサバイバルナイフというのは、日本ではなかなか買えません。
実際に海外で使われている市販の海外ブランド品もありますが、日本国内での販売物は、歯のないナイフと法律で規制されています。

支那にはもちろんすぐれた文物もありますし、優れた歴史上の人物や古典も多数排出しています。
私達日本人が、学ぶべきこともたくさんあると思いますし、個人としてはたいへん優秀な人も数多くいます。

けれど私達に食人文化はありません。
私達は遺体は仏様として大切にするという文化を持つ国の住人です。
戦時中、日本の兵隊さんたちは、あちこちで飢えのためにお亡くなりになりましたが、どんなに飢えても、戦友の肉を食らうくらいなら、飢え死にを選ぶというのが、私達日本人です。


福岡一家惨殺事件は、冒頭に述べた家族皆殺しの悲劇ですが、犯人の支那人留学生は、支那本国に逃げ、日本には引き渡しさえもされません。

冒頭の写真は、ある映画の1シーンでしかありませんが、ところがそれよりももっとヒドイことを、通州事件や尼港事件、その他数多くの事件で、数多くの日本人が支那人、朝鮮人たちから被害を受け、そしていままた、支那人や朝鮮人留学生たちによって、抵抗できない日本人が、同様の目に遭わされています。


民族には、違いがあります。
ただやみくもに、他国民を受け入れるというのではなく、受け入れるなら受け入れるで、ちゃんと日本人としてのアイデンティティをまず日本人が確立し、その上で、他国民の良いところ、悪いところを取捨選択して受け入れる。
そして、必要のないものは「受け入れない」という決然とした態度が、いま日本には求められている
ように私は思います。

「人食い人種がやってきた」という言葉は、たいへんに扇動的かもしれませんが、これは現実にいま、日本に起きている事実であるということを、私達は大人の常識として理解する必要がある
のではないでしょうか。


反日から親日に覚醒した中国人の手記