ねずさんのひとりごとより転載   支那事変は支那が起した。 1 | mappyの憂国

mappyの憂国

日本に居てる日本人に読んで考えて欲しい。
保守系チャンネル、記事の纏めです。
日本の政治や経済状況に関心を持とう!
BGMが気になる方は右、自動再生の動画を止めるか、音量調節お願い致します。。
カスゴミは偏向隠蔽の限りを尽くし真実を伝えません!

yahoo携帯から見させないようにしていますww
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-date-20120806.html

この記事 何処の会社?馬鹿yahoo!


支那事変は支那が起した

父英霊に遺児の参拝 北蓮蔵画伯 昭和14年
$mappyの憂国

史実を世界に発信する会の茂木さんが、実に明快な論考を書かれたのでご紹介します。
タイトルは、ずばり「日中戦争は中国が起こした」です。

論文そのものは、下段に全文を掲載しますが、その解説というか、流れと要旨を、わかりやすいようにねずブロ流で、ご紹介したいと思います。

~~~~~~~~~~
一般的に、支那事変(日中戦争)は、盧溝橋事件が始まりとされているとされています。
けれど、これは大きな間違いです。

盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件です。

このとき日本軍は、演習中でしたが、実弾を携行していません。
つまり、日本軍は「銃は持っていたけれど、弾を持っていなかった」のです。
ですから、当然、応戦はできません。
なにせ撃ち返す弾がない。

これは、たいへん危険な状況です。
時代が時代なのです。

日本軍のすぐ近くには、蒋介石率いる国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍です。
兵力10万人の大軍です。

ところが、この国民党軍も、日本軍が発砲を受けた同時刻に銃撃を受けています。
日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだ。
けれど、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだのです。

この発砲がひきがねになり、日本と国民党軍との間に、小紛争がおきます。
けれど、両軍とも、妙に腑に落ちない。
両軍は使者を出し、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
日本軍も国民党軍も、どちらも戦いたくなどなかったのです。

では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。

支那共産党の周恩来首相は、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。

支那共産党の首相自らが、犯人は自分たちであったと自白しているわけです。
さらにいまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。

加えて支那共産党は、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)には、「対日全面抗戦」を呼び掛けています。
盧溝橋事件が起きる事を知っていたからできた手際良さです。

要するに盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない、ということです。

「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで武装している10万の大軍と戦闘状態にはいる。
常識で考えても、あり得ないことです。

ところが村山富市などは、内閣総理大臣当時にこの盧溝橋を訪れ、
「盧溝橋の日本軍侵略行為の往事を反省してきた」などと寝惚けた発言をしています。
アホとしかいいようがありません。

この盧溝橋事件が11日に停戦すると、当時の近衛内閣は、この事件を「北支事変」と命名しました。
そして、戦闘の不拡大のための華北派兵を決断しています。
派兵は当然です。
現地の治安を確保しなきゃならない。

いまだって国内で暴動が起きれば、そこに警官隊や機動隊が派遣されます。
治安を保つためには、当然のことです。

ただし、当時の近衛内閣が華北に移動を命じた兵力は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけです。
内地にいる軍隊の派遣まではしていません。

ところが、7月25日には、北京郊外の廊坊駅で、通信施設修理中の日本軍の少数の部隊が、やはり支那兵に襲われるという事件が起こりました(廊坊事件)。

さらに26日には、北京の広安門で、門を通過中の日本軍の大隊が、縦隊となって門を通過している最中に、突如門が閉ざされ、大隊の隊員たちを門の内外に分断された上、支那兵によって手榴弾と機関銃による猛攻撃を受けるという事件が発生します(広安門事件)。

そして廊坊、広安門で蹴散らされた支那兵たちは、7月29日までに北京郊外50キロにある通州城に終結し、日本軍が外出して手薄になった通州城内で、日本人居留民、260名をきわめて酸鼻な方法で殺害するという事件が起きています(通州事件)。

さらに8月9日には、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵を惨殺されます。
支那国民党は、ご丁寧にもひとりの支那人死刑囚に国民党軍の軍服を着せて、飛行場の門外で射殺しています。
日本側が先に発砲したように見せかけるための工作です。
支那側は、攻撃されたので反撃したとして保安隊員の死体を持ちだしてきて強弁したのですが、弾痕から日本側のものではないことが明らかとなり、その後はシカトしています。

毛沢東伝である「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳、講談社、2005年)によれば、このとき国民党南京上海防衛隊司令であった張治中は、支那共産党の国民党への潜入スパイであったが、蒋介石に日本軍攻撃を決断させるために、こうした事件を仕組み、蒋介石に日本との開戦を強く迫ったことが記されています。

そして、こうした事件が支那各地で、7月7日以降、大小合わせてなんと61件も起こったのです。
日本側は、ここまでされてもなお、事件を穏便に処理しようとして、報復戦など挑まず、平和裏に事態を収拾しようと努力しました。
いわゆる「不拡大方針」です。

そもそも当時の支那には、統一政府もなければ警察も、国法もありません。
たとえてみれば、無政府状態に陥った日本で、革マル派やオウムなどが武装して全国あちこちで強盗や殺人、強姦などしたい放題荒し回っているという情景を思い浮かべていただけたら、わかりやすい。
そのなかでも、とりわけ勢力のおおきかったのが、蒋介石の国民党と、毛沢東の支那共産党だったわけです。

そういう無政府状態のなかにあって、各国は自国の居留民や、一般の支那人を守るために、軍隊を支那に駐屯させていました。
なかでも地理的に支那に近い日本は、多数の民間人が支那にいたこともあり、治安維持のために相応の軍隊を出さざるを得なかったのです。

ただし、当時の日本は、国内外の全兵力を合わせても、25万です。
いまの陸上自衛隊の二倍に満たない陸軍兵力しかありません。

一方、軍閥が割拠する支那では、軍閥の陸軍兵力は、なんと210万です。
これは文句なしに世界一の陸軍兵力です。
ちなみに二位がソ連で、160万です。

つまり、日本が支那に武力行使するということは、8倍以上の敵と戦うことになる、ということです。
そしてこれにソ連が参戦すれば、敵の数はなんと19倍です。

しかも当時の国民党兵は、ドイツ軍によって近代装備を支給され、ドイツ式教練を受けた精鋭部隊となっていたのです。

いまどきの左翼は、二言目には、かつての日本は軍国主義だったとか、日本が支那を侵略したのだというけれど、そもそも支那の治安を悪化させたのは支那人自身です。
ドイツ式装備と教練によってすっかり精鋭に生まれ変わり、しかも日本に8倍する世界最大の兵力をもって、日本を叩こうとして、徴発の限りを尽くしていた。

世界の戦争は、常に「軍事バランスが崩れたとき」に起こります。
つまり、どちらか一方が、強烈に「強く」なったときです。
客観的にみれば、当時のアジア情勢は、国の形を失った支那において、軍閥という国際法の適用外の無法者集団が、日本に8倍する兵力と武力を持ち、日本に対して楽勝できると日本を侮り、大陸にいた日本を徴発して起こしていたのです。

日本はあきらかに劣勢でした。
だからこそ日本は、通州事件のような乱暴狼藉に遭いながらも、我慢するしかなかったのです。
それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。

不戦を希求する日本に対し、支那国民党は8月13日には、こんどは上海において、3万の蒋介石軍が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していたわずか4200名の日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃をしかけてきたのです。(第二次上海事件)

この第二次上海事件については、8月31日付のニューヨークタイムスが、次のように報じています。
~~~~~~~~~
【外国人は日本を支持】

上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。
日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。

「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。
しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。
日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。
だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)
~~~~~~~~~

当時のニューヨークタイムスは、常に日本に対して批判的だった新聞社です。
とにかく日本について良いことは一切書かない。まるで昨今の日本のメディアみたいなものです。

ところがそのニューヨークタイムスでさえ、上海事変については「支那の一方的な攻撃によって、上海の戦いが始まった」と伝えざるをえなかったのです。

この頃、上海の共同租界には日本人が3万人余り居住し製造業、商業などに携わっていました。
そしてその居留民保護のために、日本の海軍陸戦隊2200名が上海租界の居留民保護にあたっていました。

ところが支那国民党軍が、いきなり租界の外側の非武装地帯に大量に侵入してきました。
そこで日本の海軍陸戦隊は、急遽約2千の増援部隊を集めたのです。
それが、上記記事にある、「増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかった」と書かれている「増援部隊」です。
日本は、本格的な戦闘に発展することを恐れたのです。

一方、上海租界を包囲する支那国民党軍は、ドイツ式装備を施された精鋭部隊の88師を主体とする3万の大軍です。
そして国民党軍は、兵力と火力にものをいわせて、13日から日本の海軍陸戦隊に対して攻撃を始め、14日には、航空機による爆撃を含む一斉攻撃をかけてきたのです。

こうして史実を冷静にひとつひとつ積み重ねて行けば、戦争を仕掛けてきたのが、明らかに支那側であることがあきらかです。
日本は望まない戦に引きずり込まれたにすぎません。

さらにいえば「条約に基づき駐屯している軍、および民間人に対して正規軍で一斉攻撃をかける」という行動は、国際法上は、たとえそれが自国内のことであっても「侵略行為」です。

従って、支那事変が、支那国土内で起こった事件であったとしても、これは「支那による日本への侵略戦争」である、というのが、客観的に見た支那事変開戦の真相です。

ただし、歴史において客観的に「何が真実なのか」という科学性を大事にするという精神は、これは日本人固有の精神です。

以前にも書きましたが、支那人や朝鮮族にとっては、古来、「事実」も「史実」も、実際にあったほんとうの出来事を意味しません。
彼らにとっての「事実」や「史実」は、「そうありたい、そうあってほしかった」という願望であり、勝ってしまえば、征服してしまえば、実際にあった真実など、いくらでもねつ造し、変造し、偽造できる。
すなわち、彼らにとっての「真実」は、覇者にとって、彼らにとって都合のよいことが「真実」なのであって、事実は関係ないのです。

要するに、「と、日記には書いておこう」という希望、願望が、彼らにとっての「真実」だ、ということです。
この点、客観的事実を重視する日本人とは、考え方がまるで違う。

ちなみに当時の支那では、日本に対する主戦論が圧倒的に優勢でした。
農民を除く都市の住民たちは、日本との戦争を熱望し、勝利を確信していたのです。
そりゃそうです。
兵力は8倍。軍備は世界最強。
これで勝てると思わない方がどうかしています。

このことは、当時支那で発行されていた新聞各紙を見れば一目瞭然でで、加えて支那共産党や支那の地方軍閥たちは、自分たちは蒋介石政権よりももっと抗日的であると主張することで、知識人などに主導された過激な世論を味方にしようとしていました。

実際、支那共産党は、抗日を最大の政治的な武器とし、なんと昭和6(1931)年11月の時点で、中華ソビエト共和国を名のり、翌昭和7(1932)年4月26日には、中華ソビエト共和国中央政府の名により日本に対して公式に「宣戦布告」まで発しています。

こうして戦えば必ず勝つの心意気と、入念な準備、圧倒的な兵力のもとで、支那国民党が支那本土内で日本に対する侵略行為として開戦に至ったのが、支那事変(日中戦争)です。

ところが、あにはからんや。
世界最強の近代装備に身を固め、ドイツ式教練を受けた支那軍は、戦地のことごとくで寡兵の日本軍に敗退し、支那中を追いまくられた。

そして日本が占領した地域は、昭和20年の終戦時まで、きわめて平和で治安の良いエリアとなったのです。


http://www.sdh-fact.com/CL02_3/17_S1.pdf