マジで酷かったテレメンタリー2012 とんでもない自虐史観番組でした | mappyの憂国

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マジで酷かったテレメンタリー2012
御覧になった方はおられるでしょうか?
いやいや、予想を遥かに超える酷さでした。
クソ長いですが、気が向いたら読んでね。

(番組HP→http://www.tv-asahi.co.jp/telementary/

歌と戦争の時代  ~日本と朝鮮半島の間で~

 韓国、ソウル。ソウルのテレビ局には毎日のように沢山の日本人が集まって来ます。
女性「ティーントップです」
女性「ホ・ヨンセンの応援に来ました」
 皆、K-POPアイドルが出演するテレビ番組の収録を見るために来たというのです。
女性「韓国のイメージがもの凄く良くなりました。私達の世代は(韓国は)近くて遠い国だったんですけど。」
 韓国は今、国のイメージや親近感を高めるために、文化コンテンツの輸出に力を入れています。音楽は最も影響力のあるコンテンツの一つ。

(ここで真珠湾攻撃の映像)
 その音楽が戦争の道具として使われた時代がありました。今から半世紀以上前、日本統治下の朝鮮半島。
 1910年、日本が韓国を併合した年。日本最初のレコード会社が出来、流行歌が生まれました。
 流行歌はやがて、戦争の機運を盛り上げる軍国歌謡へと変わって行きます。
 「赤とんぼ」「からたちの花」などの名曲で知られる作曲家、山田耕作は、音楽挺身隊を組織して、積極的に軍隊などの慰問をし、100曲近い戦意高揚のための曲を作り出しました。当時、戦争の役に立たぬ曲は今は要らぬとまで語りました。
(ここで「燃ゆる大空」が流れる)
 ♪皇国(みくに)に捧ぐる雄々しき命 無敵の翼よ溌剌挙(こぞ)れ

 そして、当時日本の統治下にあった朝鮮半島でも数多くの軍国歌謡が作られました。
 名古屋で生まれ育った在日コリアン2世の朴燦鎬(パク・チャンホ)さん(69)。焼肉店を営む傍ら、韓国大衆歌謡の研究を続けて来ました。
 朴さんの書斎は、何十年もの間集めてきたレコード、新聞や雑誌などの資料で足の踏み場もありません。
 朴さんが書いた本、『韓国歌謡史』です。
朴燦鎬さん「日本には『歌は世につれ』という言葉がありますけれども、日本人にとっては朝鮮の歴史はまあ殆ど知らないわけですよ。知らない人にそういうような背景があって庶民達がこんな歌を歌っていたんだということを知らせたい。在日2世・3世にとっては親の世代が育った時代、青春時代はこういう背景があってこういう歌が歌われたんだ。」
 朴さんが特に力を注いで調べたのは1940年代の歌。その頃日本は日中戦争の泥沼化、そして太平洋戦争突入と、ひたすら戦争の道を進んでいました。
 日本統治下の朝鮮では、学校での朝鮮語禁止、名前を日本式に変えるなどの「皇民化政策」がより強固になっていった時代です。 (←ハイ、ウソが入りました!)
朴燦鎬さん「1940年頃から戦争に関する歌がまあちょっと目立ち始めましたね。中身は『天皇のために我々は命を捧げる』とか。」
 この頃から終戦までの朝鮮半島の歌を朴さんは「暗黒期」の歌謡曲と呼んでいます。
 朴さんの家にある一枚のレコード。
朴燦鎬さん「いやあ、大変な時代だったんだなぁ。こんな歌を強制されて、情けないと言うか悲しいと言うか、そういう風にしか言いようがないですね。」
 朝鮮徴兵制実施記念として1943年に発表された「血書志願」。当時朝鮮半島で人気を博していた白年雪(ペン・ニョンソル)、南仁樹(ナム・インス)ら3人の歌手が歌っています。
(歌詞訳)
 ♪薬指噛み切り 鮮血したたらせ 日章旗描いて 聖寿万歳叫び
朴燦鎬さん「こういう歌があることは知ってた。知ってたけど聞いた事はなかったんですね。現物を目の前にしたことは嬉しい、驚き、怒り、色んなものがごちゃ混ぜになって複雑な気持ちでね、おそらくこれね、心情から言ったらこれ、こんなの見たら叩き割ってしまいたいような…。 」

(ここで学徒出陣の映像)
 日本が兵力不足を補うために、それまで憂慮していた日本人学生の徴兵に踏み切ったのは1943年のこと。
 同じ年の10月、朝鮮半島出身の学生に「陸軍特別志願兵臨時採用規則」が施行されました。
 理工系など一部の学部を除く高等教育機関に在籍する学生を日本陸軍に志願させるための法律です。
元朝鮮人学徒志願兵・許相燾(ホ・サンド)さん(90)「誰が志願しますか兵隊さんにね。日本人も行きたくない兵隊さんに朝鮮人がなんで行けますか。」
 韓国・テグ氏に住む許相燾さん90歳。日本の中央大学に留学していた許さんは1944年1月20日、他の朝鮮人学徒志願兵4385人とともに日本陸軍に入隊しました。許さんはその日のことをこう記しています。「悔恨と汚辱まみれの1月20日 許相燾」。
 志願の命令を受けた許さんは逃げたといいます。日本の警察は代わりに許さんの家族を捕らえました。
許相燾さん「みんな家族を苛めてね、年取ったおじいさんを駐在所に引いて拷問をするんです。だからおじいさんが引かれたから私のお父さんが見ておられないでしょう?もうこれは到底いけない。出て来い。おじいさんがこんなに拷問を受けている。お前が犠牲になるしか仕方がないと言って私を捜しに来たんです。隠れている所へ。それで一緒に出て。名前が学徒志願兵です。強制じゃなくてね。朝鮮学徒志願兵。」
 朝鮮半島で発行されていた日本語の新聞には、学生が一人残らず志願することを促す記事が毎日のように掲載されていました。
(ここで「血書志願」が流れる)
(歌詞訳)
 ♪半島の血うけし 輝ける血筋 一つ国屋根の下 恵まれ育ちし身 この時を逃そうか 生命を惜しもうか 御国の兵たらんと 望みます
許相燾さん「全身が震えるんだ今、興奮して。これみんな、この一曲だけでも分かるけど、みんなこうしてね、朝鮮人の思想を根こそぎひっくり返すためにこういう歌を作って。これを子供達が曲がいいから、元気が出るでしょ、軍歌だから。これに合わせてみんな歌ったんです、子供達が。」

 「血書志願」を歌った歌手の一人、白年雪。韓国の大衆歌謡研究家・朴燦鎬さんが一番好きだという歌手です。
 朴さんは白年雪の故郷を訪れました。
 白年雪が卒業した星州(ソンジュ)高等学校には、彼の功績を記念して同窓会が建てた歌碑と胸像があります。
朴燦鎬さん「私は小さい時から白年雪の歌をよく聞いていました。だからとても親近感を持っています。」
同窓会会長チュ・ソルジャさん(70)「ここ星州出身の韓国を代表する歌手として私達はとても尊敬しています。」
 郷土の先輩として尊敬を受けている白年雪。しかし、この町での彼に対する評価はそれだけではありませんでした。
 太平洋戦争末期、朝鮮半島では「血書志願」のような軍国歌謡が数多く発売されました。「李仁錫(イ・インソク)上等兵」「息子の血書」「志願兵の母」。全て当時人気のあった歌手達が歌ったものです。これらの歌を歌った歌手達は皆、半世紀以上経って、日本に協力した人々、つまり「親日派」として糾弾されています。ノ・ムヒョン大統領の時代、「親日反民族行為真相究明委員会」が発足。日本統治時代の対日協力者の調査が始まったことも拍車を掛けました。
同窓会顧問イ・サンヒさん(80)「そんな歌を普及させて志願兵を集めなくてはならなかった日本の政府は、誰がどうやって歌えば一番効果があるのかを考え、一番人気のあった白年雪を選んだのです。それが『親日』だというなら当時の人達は皆全部『親日』だった。」
 町には白年雪の歌碑を建てることに反対する人々がいます。
白年雪の歌碑建設に反対するイ・ジェドンさん(46)「過去に『親日行為』をした人の銅像を他でもない学校に建てるなんて、学生達に間違った歴史認識を与えることもある。悔しいとか悲しいというより、文化を戦争の道具におとしめた事が本当に腹立たしい。」

 「血書志願」を歌ったもう一人の男性歌手、南仁樹。当時から「歌謡皇帝」と言われ、死ぬまでその座を譲りませんでした。しかし、南仁樹の生まれ故郷、慶尚南道(キョンソンナムド)の晋州(チンジュ)市でも親日派究明運動が起こり、彼の名を冠した音楽祭は2007年を最後に行われていません。
 その南仁樹を偲ぶ展示会がソウルで今年6月から開かれています。人気歌手だった南仁樹の功績とともに、日本軍に協力するような軍国歌謡を歌ったこと、そして現在「親日派」として糾弾されている事実も展示されています。
 南仁樹は日本の軍国歌謡を数多く歌いました。
 「血書志願」のB面です。
 ♪皇尊(すめらみこと)の御民(みたみ)われ われら今日より兵となり 行くぞ戦の海の涯(はて)
男性「銃や刃で強制された『親日行為』で当時は仕方なかったでしょう。南仁樹は何と言っても当時の国民的歌手でした。」
男性「当時の私達国民からしてみれば良い行動だったとは言えないでしょう。でも歌うしかなかったということは皆分かっています。」
企画した聖公会大学教授イ・ジュンヒさん「南仁樹が『親日的』な軍国歌謡を歌ったのは紛れもない事実です。ただ、事実を明らかにするのと、それをどのように評価するか、どのように歴史的意味付けをするかは違う問題だと思います。南仁樹が『親日的』軍国歌謡を歌ったことを明らかにしましたが、彼が『親日派』だったと言っているわけではありません。」

 親日派として糾弾され、2010年に韓国の国会で謝罪をした歌手がいます。朴燦鎬さんはその遺族を訪ねました。
 半夜月(パン・ヤウォル)。歌手として、また作詞家として、1939年から今年3月、94歳で亡くなるまで韓国歌謡界で活躍していました。
朴燦鎬さん「半夜月さんが『親日的』な歌を歌ってたという事はご存知でしたか。」
次男パク・インホさん(55)「私は知りませんでした。以前、父と一緒にある作曲家の歌謡祭に行ったことがあります。彼が『親日派』だという話が話題となっていました。その時は父も私もその話にとても心を痛めていましたが、突然、父も『親日派』と言われるようになり、心労は大変なものだったと思います。」
朴燦鎬さん「半夜月さんはどうして国会で謝罪会見をすることにしたのですか。」
大衆音楽評論家パク・ソンソさん「日本統治時代の記録が色々と明らかになってきました。半夜月さんはまだご存命だったので、当事者として謝ると同時のその時代の状況を説明しようとしたのです。『親日行為』は謝りましたが、『親日派』だったと認めたわけではありません。それは謝罪も出来ずに亡くなった沢山の音楽家達も同じ気持ちでしょう。」
次男パク・インホさん「同じ状況にあったら作曲家の私はどうするだろう。作曲してしまうのではないか。そう考えたりもします。」
 太平洋戦争末期、日本の政策に協力し、軍国歌謡を歌った人気歌手達。彼等の評価を歴史はまだ下す事が出来ません。

 ソウルに「大韓祖国主権守護一念碑」と書かれた碑があります。国が二度と主権を奪われることのないようにとの願いが込められた碑です。
 韓国大衆歌謡研究家の朴燦鎬さんは、碑を建てた一人、カク・ピョンウルさんを訪ねました。カク・ピョンウルさん、92歳。日本に留学していたカクさんは、当時行われていた繰り上げ卒業で1943年9月に大学を卒業、銀行に就職しました。直後に朝鮮人学徒志願兵の制度が敷かれ、その対象となりました。カクさんは日本人の支店長に事情を打ち明けたのです。
元朝鮮人学徒志願兵カク・ピョンウルさん「福地さんという支店長の所に話しに行ったんですけど、『お前、行きたくなかったら逃げろ』と。行きたかったら行くし、行きたくなかったら逃げてしまった方がいいんじゃないか。その話を聞いて翌日逃げた。」
 結局カクさんは逃げ切る事が出来ず、翌年1月20日、日本陸軍に入隊しました。
 カクさん達が建てた碑には、朝鮮人学徒志願兵4385人のうち判明した2700人の名前が記されています。
カク・ピョンウルさん「最初は1360名だったんですけど、私が調べてみたら、中学校の同窓生なんかも漏れてるし、一緒の部隊におった人も漏れておるので全部捜し出した。侮られ、辱めを受け、その後の残りは我々には怒りと追憶しか残してくれなかった。」
 カク・ピョンウルさんが碑の除幕式に書き記した言葉です。「恥辱と侮蔑が残した憤怒と追憶の一念碑」。
 朝鮮人学徒志願兵4385人のうち、戦死した人の数は未だ分かっていません。
 特別志願という名の下に、朝鮮の学生が日本陸軍に入隊させられてから70年近い月日が流れました。
許相燾さん「その歴史は私達が直接受けた痛みですから、死んでも嘘も出来ないし、忘れられないです。そういう悔しみを持って、あれこれ90歳になってしまいました。」
カク・ピョンウルさん「『親日派』区別のあれがあったでしょ。今はそういう事言う時期じゃないと思うんですけどね。お互いに手を繋いで行けるようになればと思ってるんですよ。隣同士の国でそういう事を言ったりつまらない。」
(ここで「血書志願」が流れる)
朴燦鎬さん「『血書志願』。平和な時代に、この3人が別の歌を歌ったら良かったのになぁと。馬鹿らしくも、腹立たしくも、悲しくもあり…。」
 かつて、歌が戦争の道具となった時代がありました。
朴燦鎬さん「そういう時代は二度と来て欲しくない、私は。体験したくない。」
 歌には、人の心を動かす力があります。その力が二度と利用されることのないように、朴さんは、人々を戦争に駆り立てた歌を伝えます。



とんでもない自虐史観番組でした。
こんなの日本で放送して誰が得するんでしょうか。
正直言って、愚民時代の私が何にも知らないで見てたら、確実に洗脳されてしまってますね。
あ~、怖い怖い。