電気のために命をかける
「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさなければいけないのか?」
それはエネルギーの確保が国家の命運を決めるから。
石炭の採掘では落盤事故等で、今まで膨大な犠牲者を生んできました。
独仏は、炭鉱があるアルザス地方をめぐって何度も戦争を繰り返してきました。
まず、事実として、人類の歴史は、エネルギーのために命がけだったのです。
歴史を帰り見れば、エネルギーの確保と利用方法が、国家の浮沈を握っています。
たとえば、狩猟採集→農業と言うのは、太陽エネルギーのより有効な利用の仕方への変遷と言うことでした。日本で大和朝廷の勢力範囲の拡大が稲作の広がりと一致することが、この典型例です。
世界史的に見ても、風車でエネルギーを得たオランダが覇権を握り、石炭と蒸気機関で大英帝国が世界を支配し、次に石油と内燃機関での世界覇権は米国が押さえており、さらに、核エネルギーが次の世界覇権の源になると目されています。
もしかしたら、その他の再生型エネルギーや石油以外の化石燃料の時代かもしれません。私も、未来のことは分かりませんので、そう言う可能性は否定しません。
しかし、太陽電池にしろ地熱発電にしろメタンハイドレートにしろ原子力にしろ核融合にしろ、それは電気に変換されて使用されます。
だから、電気の確保こそが、日本の命運を握っていると言ってよいと思います。
戦後、関西の電力需要を満たすため、黒部ダムが建設されましたが、その工事では171人が殉職しました。
その彼らを「たかだか電気のために命をかけた」バカ者だとでも言うのでしょうか?
戦後復興に命をかけた国士と考えるのが日本人の常識でしょう。
大東亜戦争やオイルショックの経験から、省エネを進めるとともに、石油以外のエネルギーを確保し、エネルギー安全保障を高めることが、日本のエネルギー政策の根幹でした。
どんな組織にも、甘い汁を吸ったり、無能だったり、違法・脱法行為をする人間はいます。その問題は、それとして対処しなければなりませんが、エネルギー安全保障向上と言う国策を受けて、原発を受け入れた地方自治体の住民を「たかがだ電気のために」補助金に目がくらんだ連中と考えるのか、それとも、日本のエネルギー安全保障のため、負担を受け入れた立派な国民と考えるのか?
「たかが電気のために、なんで命を危険にさらさなければいけないのか?」
この言葉に納得してしまう人は、「国家」の概念が不足しています。