(原文)通化事件に学ぶ国を失うことの過酷
ねずきちのひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1129.html
通化大虐殺
(大東亜)戦争が終わっても、引揚者が無事に日本へ帰ることは容易でなかった。
http://d.hatena.ne.jp/nay/20050707
日本人の一部が国民党と組んで八路軍(共産軍)を攻撃したという理由で、昭和21年2月3日早朝、大規模な日本人狩りが行われた。戦前の中国が一つだと思っている日本人にはなかなか理解できないが、蒋介石の国民党と毛沢東の争いは根深いものがある。筆者の親戚が自らの体験を記した手記によると、3千人とも4千人ともつかない日本人が、零下30度の寒さの中、両手を上げさせられて八路軍(共産軍)に銃剣で追い立てられていた。日本人の男16歳から60歳が連行され、先頭から氷の上で射殺され川に投げ込まれたと言う。この列は途中で方向転換したが、親戚は旧通運会社の社宅に100人近くの人と押し込まれた。八路軍は、身動きできず酸欠で口をパクパクしている人達を、窓からライフルで撃ち、足元が血の海になったが死体を外に出すこともできなかった。一週間にわたる拷問と銃殺、あるいは凍死によって軍とは何のかかわりもない民間の2千人近く殺された。
戦争が終わって半年経っても大陸ではまだこのような日本人に対する虐殺が平気で行われていたことを今の日本の若者は知らずにいる。
このさなかに、「延安からやって来た筋金入りの日本人共産党員」がいたことが、手記には書かれている。彼らが組織した「日本解放工作委員会」は、あるいは「清算運動だ」あるいは「集団訓練だ」と言って、居留民の財産没収、自由拘束、不服従者の人民裁判など弾圧を繰り広げ、しかもスパイ網を確立して全日本人を不安と絶望のどん底にたたき込んだという。彼ら日本人共産党員によって、居留民会長であった寺田氏を始め、通化在住の実業家、著名人約180人が密告されて逮捕、罪状ねつ造の上処刑された。その処刑の様子は先に記したとおりである。戦時中、日本を捨て共産主義の延安に走った彼らは、当時、売国奴として日本人にののしられたが、日本が負けて彼らは逆に英雄気取りであった。「避難民が乞食同然の生活苦に追いやられている時、彼ら工作員は立派な服を着て街を闊歩しており、罪なき日本人を売って得意となっていたことをこの目で見て腹立たしい思いがする。」と書かれている。
後で再会した開拓団の団長によると、この親戚が生後40日ではぐれた一人娘は、開拓団の医者の手で殺されたとわかった。ソ連が侵入したときには、開拓団には女、子供と病人しかおらず、馬車を仕立てて避難していたら満州人に馬車ごと荷物を全部盗まれてしまった。道中、団長は暴徒に襲われ靴まで脱がされた。食べるものもなく、追いつめられ、子供は乳が出ないため次々と死んでいった。それで開拓団の医者は、これ以上苦しめるより楽に死なそうと女の子に注射をし、死体は箱に入れて他の山積みになった日本人の死体の所に置いてきたという。その後、ソ連兵に捕まって収容所に入れられたが、収容所の内外で開拓団の女性は乱暴され殺された者もいたと言う。団長は、筆者の親戚に「気が済むまで自分を殴ってくれ」と詫びたという。
また、別の満州引揚者から直接お聞きした話だが、当時小学校で仲良しの女の子がいた。ところが父親が警察官だったため、終戦後、多数の支那人がその家を襲い奥さんと小学生の女の子まで連れ去っていった。同級生の女の子は二度とその家に戻ってこなかった。親子3人が支那人になぶり殺しにされたのである。敗戦国民の悲しさで、誰も助けてあげられなかった。
歪んだ歴史教育のおかげで・・・、すっかり日本は加害者、悪者と思い込んでいる人が多いですが、それは違います!通化事件もそうですが、通州事件も知っておかないといけないと思います。これを知ると、南京大虐殺で使われた被害者の写真の大半が、その通州事件の日本人被害者であることを知るでしょう。日本人はきちんとした歴史認識を持たんければなりません。