今回、紹介するお寺は「楠木正成」の正室「楠木久子」が眠る、「楠妣庵(なんぴあん)観音寺」です。
「峰條山 楠妣庵観音寺」。創建は1339年。開基は「楠木正行(まさつら)」。宗派は「臨済宗妙心寺派」。本尊は「千手観世音菩薩像」。
「楠妣庵観音寺」は1339年、「楠木正成」の嫡男「楠木正行」が崩御された「後醍醐天皇」を弔うために、この地に一殿を建立し「後醍醐天皇」の念持仏である「千手観世音菩薩像」を安置して、「峰條山 観音殿」と称したのが始まりとされています。
1348年、南北朝の争いの四条畷の戦いで、「楠木正行」と弟「楠木正時」が戦死して、2人の母親「楠木久子」が自分の生まれ故郷にある「観音殿」の側に、草庵(楠妣庵)を結んで名を「敗鏡尼」と称し、念持仏の「千手観世音菩薩像」を安置しました。
「敗鏡尼」は16年間の余生をこの草庵(楠妣庵)で、亡き夫「楠木正成」をはじめとする一族と、郎党の菩提を弔いながら隠棲したと言われています。
「敗鏡尼」の没後、「楠木正行」の弟「楠木正儀(まさのり)」が「観音殿」を改めて「観音寺」とし、「藤原藤房」を住ませて楠木家一族の香華寺(菩提寺)としました。
その後、戦乱の兵火により焼失し荒廃してしまい、明治時代には廃寺となってしまいます。
1915年に岐阜県の篤志家、加藤鎮之助氏の援助によって再興されて、現在の寺観に至っているようです。
「楠妣庵観音寺」の交通アクセスは近鉄長野線の富田林駅からバスで、すぐ側まで行くことが出来て、車でも側に無料の駐車場があります。
「楠妣庵観音寺」には表参道と裏参道があります。
駐車場からは裏参道となり、霊園がある坂道を登っていきます。
裏参道の途中には「夫人常用泉」があります。
「久子」夫人が、ここから湧き出る水を使用していたと言われています。
表参道は裏参道より東側にあり、こちらに正門の「山門」があります。
「山門」の側には「楠母子の像」、「大楠公像」があります。
1336年、「楠木正成」が湊川の戦いで戦死し、敵将「足利尊氏」の配慮で首級が一族の元へ届けられました。
「観心寺」の「中院」にいた嫡男「正行」は、変わり果てた父の首級を見て涙をこらえながら「持仏堂」に入り、父の形見である菊水の短刀で自害しようとしたところ、後を追ってきた母「久子」に止められます。
「楠母子の像」は母「久子」が「正行」に、生きることを説得し励ましている時の姿だそうです。
「大楠公像」は鎌倉幕府により隠岐島へ流罪となった「後醍醐天皇」が、1333年に隠岐島から脱出して兵庫に到着した際に、「楠木正成」が7000余りの兵を率いて出迎えた時の姿だそうです。
大楠公像。皇居外苑の大楠公騎馬像も、この時の情景だそうです。
「山門」は山梨県の「恵林寺」の塔頭「青松軒」にあった門で、1964年の大楠公夫人600年祭に移築されたものです。
「山門」を抜けると右手に、「観音寺」の「本堂」があります。
「本堂」は1922年に建立されたものです。
「本堂」には「後醍醐天皇」の念持仏である、「千手観世音菩薩像」を本尊として祀っています。
「本堂」の左手には「恩光閣」があります。
「恩光閣」は1932年、「昭和天皇」の御大典に使用された建築物を移築したもので、庫裏や客殿などに使用されています。
「裏門」から入山すると「楠妣会館」、「手水」があります。
「楠妣会館」は一般社会人の座禅会や研修会、老人の憩いの場所など広く活用されているようです。
「楠妣庵」は「本堂」より高台に建っています。1917年に鎌倉時代末期の建築様式を再現して建立されたようです。
「楠妣庵」の側に「観音堂」があります。
「観音堂」は「久子」夫人の念持仏である「千手観世音菩薩像」を祀り、「楠妣庵」と同じ年の1917年に建立されたものです。
「観音堂」の左手に「大楠公夫人の墓」、「楠木一族供養塔」があります。
最後に「楠妣庵」が建っている高台周辺は、全体的に苔むしていて非常に風情のある景色となっています。秋には紅葉が非常に綺麗だそうです。
楠妣庵観音寺の御朱印。























