今年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~」が終わりましたね。
「江」が最後に嫁いだ「徳川秀忠」の父である「徳川家康」は、関ヶ原の戦いで勝利し征夷大将軍となって江戸に徳川幕府を開き、天下統一の為に豊臣家「淀殿」と「豊臣秀吉」との子「豊臣秀頼」との間に起こった戦である大坂夏の陣に勝利し、豊臣家を滅ぼしました。
大坂夏の陣の勝利で天下統一を成し得た「徳川家康」は翌年、「駿府城」にて死去し最初は駿府の「久能山東照宮」に葬られて一周忌後、「日光東照宮」へ改葬されました。
しかし大阪府堺市堺区にある「南宗寺」という臨済宗のお寺に、「徳川家康」のお墓があるのをご存知でしょうか?
「龍興山 南宗寺」。創建は1557年。開基は「三好長慶(みよしながよし)、大林宗套(だいりんそうとう)」。宗派は「臨済宗大徳寺派」。本尊は「釈迦如来像」。
「南宗寺」は戦国時代の武将「三好長慶」が、父「三好元長」の菩提を弔うために、1557年に「大林宗套」を迎えて、現在の堺の宿院町辺りに建立されました。
1574年、「松永秀久」の兵火で被害に遭い、1615年には大坂夏の陣で堺の町と共に焼失しました。
1619年、当時の住職で「沢庵漬け」の考案者と言われる、「沢庵宗彭(たくあんそうほう)」が現在地に再建し、17世紀にかけて復興したようです。
その後、太平洋戦争での空襲で一部を焼失し残ったものが、現在の「南宗寺」の寺観のようです。
「南宗寺」は「チンチン電車」と言われる「阪堺電車」が走る、「御陵前」駅の側にあります。
車では境内に広場があり駐車場となっていますが、一方通行が多く辿り着くには注意が必要です。
車では近代的な門から境内に入ってしまいますが、徒歩では「総門」から入山します。
「総門」を抜けて少し進むと「甘露門(山門)」があります。
「甘露門」から少し進むと「鐘楼」があります。
「鐘楼」の付近には「仏殿(大雄宝殿)」、「唐門」があります。
「仏殿」には本尊の「釈迦如来像」と、両脇には「文殊菩薩像」、「普賢菩薩像」が安置されているんですが、両脇の菩薩像は盗難に遭ってまだ戻らないそうです。
「仏殿」の天井には「狩野信政」筆、「八方睨みの龍」が描かれています。
「仏殿」内に入るには拝観料が必要です。
「唐門」は将軍と奉行のみが通れる門として造られたようです。「唐門」の瓦ですが徳川家の家紋である「三つ葉葵」となっています。
「徳川家康」の墓は「仏殿」と同じく、拝観料を支払い拝観することが出来ます。
「南宗寺」の塀ですが土に瓦を埋めて強化しているようですが、これは大坂夏の陣にて「大野治胤(おおのはるたね)」により、堺の町を焼き討ちされた際の瓦を使用しているようです。
その量は凄まじくて、繁栄していた堺の町が全て焼きつくされた事が想像できます。
入り口の門を進むと横手に「禅堂」があります。
「禅堂」の奥から「徳川家康」の墓がある場所へ向かいます。
拝観順路を進むと、まず「坐雲亭」があります。
この「坐雲亭」内には2代将軍「徳川秀忠」、3代将軍「徳川家光」が「南宗寺」へ訪れたことを記載する板額があるそうです。
大坂夏の陣から8年後の1623年7月10日に「徳川秀忠」が訪れ、同年8月18日に「徳川家光」が訪れたそうです。
疑問その1。なぜ「徳川秀忠」、「徳川家光」は「南宗寺」へ訪れたか?
「南宗寺」へ訪れた理由は定かではありませんが、「徳川家康」の墓があったからだという考えも否定は出来ない。
そして「開山堂跡」に「徳川家康」の墓があります。
石板には「無銘ノ塔 家康サン諾ス 観自在」と」刻まれている。
「開山堂跡」は開山の「大林宗套」と、江戸期に再興した「沢庵宗彭」を祀っていた堂宇の跡です。
この「開山堂」の床の下に「徳川家康」の墓だと言われる、無銘の墓石が眠っていたらしいです。
「徳川家康」死亡説は大坂夏の陣にて、「真田幸村」の奇襲に遭い負傷し、駕籠に乗り堺へ敗走する途中、「後藤又兵衛」により槍で突かれて戦死したという伝説が残っているようです。
総大将「徳川家康」の死は士気の低下に関わるので「南宗寺」に秘かに葬られて、その後の「徳川家康」は影武者であったという伝説があります。
豊臣家滅亡後、徳川家の安泰の世の中になり、「南宗寺」に葬られている「徳川家康」の亡殻は秘かに「久能山東照宮」に移されて、その後「日光東照宮」に改葬されたと伝わります。
疑問その2。「日光東照宮」に保存されている「網代駕籠」には、槍に突かれたような穴が空いている
何故、屋根の部分に穴が空いているかと言うと、「後藤又兵衛」が馬上から槍を突いたからのようです。
疑問その3。「南宗寺」には「堺東照宮」が存在していた。
太平洋戦争の空襲で焼失しましたが、昔「南宗寺」には「堺東照宮」が存在していたそうです。
昭和42年、「堺東照宮跡」には新しい「徳川家康」の墓が建てられました。
この新しい「徳川家康」のお墓は、徳川御三家である水戸藩家老の末裔「三木啓次郎」氏が建てたものです。
この墓石の裏には発起人の名前が刻まれています。
「松下幸之助」氏は二股ソケットを売っている際に、「三木啓次郎」氏に助けられた縁があるそうです。
その関係で「徳川家康」の墓の発起人に名があるようです。
時代劇「水戸黄門」のスポンサーがパナソニック1社独占というのも、この事が関係しているからのようです。
やはり「南宗寺」は、徳川家に何らかの関係があるんでしょうね。
疑問その4。「徳川家康」の墓の真正面にある「唐門」の瓦は、徳川家の家紋である「三つ葉葵」になっている。
徳川家にゆかりのあるお寺なので、瓦は徳川家の家紋である「三つ葉葵」となっている。
こういう疑問があるだけに大坂夏の陣で「徳川家康」は戦死して、「南宗寺」へ葬られたという伝説が残っているようです。
いろいろ疑問な点も多いですが、歴史的ミステリーってやつですね。
信じるか信じないかはあなた次第です。
「徳川家康」の墓の周辺には「千利休」を含む一門の墓や、開基の「三好長慶」を含む一族の墓があります。
中央に「千利休」の墓があり、左側が「裏千家」、右側が「表千家」、右側手前が「武者小路千家」の墓となっているようです。
「南宗寺」は「千利休」ゆかりのお寺で、師匠である「武野紹鴎(たけのじょうおう)」と共に「南宗寺」で修行したそうです。
「千利休」の墓の左には師匠の「武野紹鴎」の墓があります。
また「千利休」と共に「天下三宗匠」である、「津田宗及」の津田家の墓が側にあります。
室町時代 中期の連歌師、歌人「牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)」の墓も側にあります。
「三好長慶」一族の墓は「徳川家康」の墓の前にあります。
「三好長慶」一族の墓の側に「方丈(本堂)」があり、国の名勝庭園に指定されている「枯山水庭園」があります。
奥には石橋があり、川の流れを表現するのが石の模様。方丈に座って眺めます。
「方丈」の奥には「曹渓の庭」、「実相庵」があります。
「曹渓の庭」には「水琴窟」があります。
穴らしき箇所に竹筒を当てると、地下からキーンと水が落ちる音がする。
「実相庵」の側には「千利休」遺愛の向泉寺伝来の「袈裟形手水鉢」、「武野紹鴎」遺愛の「六地蔵燈籠」があります。
入口が非常に狭く屈んで入らなければいけないのは、茶道では身分は関係なく平等って意味から狭く作られているようです。
実相庵の側にも津田家一門の墓と、牡丹花肖柏の孫である半井卜養の墓がある。
「仏殿」から「方丈」までは「回廊」になっていて、「坐雲亭」の裏手に「夢界堂」があり、「方丈」の右手には新しい「本堂」を建築中のようです。
その他の堂宇などを紹介します。
同じく塔頭の天源院。薩摩藩、島津家の祈願所として建立された。
天源院には織田信長と信忠親子の供養塔があるようです。拝観不可。
自分は「幕末」の歴史が好きなので、戦国時代のことは学校で習ったぐらいしか知らなくて、「江」を観るようになってから知ろうとするきっかけになったのですが、自分の住んでいる家の側に、「徳川家康」の死に関する謎めいたお寺があるなんてビックリしましたね。





















































