病院で自分の言葉を信じてもらえないかも知れないと言う不安と、見捨てられるかも知れないと言う恐怖でいっぱいだった時、主治医の「私はあなたを信じますよ。」その一言がどれほど嬉しかった事か・・・妻であれば(夫も同じかな?)解っている筈の一言「愛しているよ」を、絶対毎日聞きたいものだ・・・っと、私は思う。あたりまえになりかけているその一言が、毎日の喜びを彩り豊かにしてくれるだろう。日本の男はそういう言葉を口に出さないものらしい。と言う私も、もう暫く男性からそういう言葉をかけれられていない。そうなってみると、口から出されるその「言葉」には、甘い響きだけではなく、見えない未来の夢や希望の実現を確信させるような力も与えてくれていた事に気がつく。
「信じている」「愛している」この言葉をかけられた喜びは、主イエスにしたって同じだろう。口での告白を、毎日される事の喜びは、ひとりの罪人が悔い改めた時の、神の御使いたちにわき起こる喜びのようなものかもしれない。だから・・・私は毎日の祈りの中でくり返す。「私はあなたを信じます」「私はあなたを愛します」それは、救いの中に入りたいからではなく、主イエスの喜ぶ顔が見たいからである。
日常生活の中で私達が行わなければならない『意識革命』、自分の視点をどこに据えるか、また聖別、聖化。風が吹いたら吹き飛ばされるような「証」ではなくて、この戦いを勝ち得て初めて宣べることの出来し「証」をなしえるように、この世にあって「働き」と、「祈り」を実践していかなければならない。
11歳の男の子をどんな大人に育てたいかと言うアンケートが配られた。
「忍耐を持って善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者」(ローマ人への手紙2:7)
私はこれに限ると思った。そういう者は永遠の命を得る事が出来る。
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」(ヘブル人への手紙10:36)
けれどもこの忍耐は、私達が我武者羅(この文字通り!)になってもだえ苦しみながら耐える忍耐ではない。正しい良い心で御言葉を聞くとき、神の栄光をあらわされる時を喜び待ち望む力が与えられる、その心躍るような忍耐である。