マーラー5番 |  ヒマジンノ国

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マーラー交響曲5番のことを、先日観た映画「TAR」の感想と合わせて少し書こうかという試みです。内容は所詮趣味の範囲にとどまりますのでご了承下さい。

 

 

さて、映画の「TAR」を観てから、久しぶりに複数のマーラー5番の録音を聴いています。映画「TAR」については、前回ブログを書いた後、評論家町山智浩さんの有料ノートを拝聴しました。これはかなり面白かったです。ただ「映画」の内容については面白いですが、個人的には音楽談議について、もうちょっと色々知りたいとは思います。

 

はたして、「TAR」の監督自身、意図的にキャンセル・カルチャーを描いたものではないといい、ラストのモンハンの音楽についても一言いっていますね。

 

以下はネット上に公開されている、トッド・フィールド監督の言葉です。

 

<まず、日本のゲーム音楽について話をさせてください。私はあのゲームのファンで、私の家族はいつも私があのゲームをプレイしていたことを知ってます。あの音楽を「TAR」に持ち込んだ理由は、あのゲームが“モンスター”についての作品であるということ、そして私があの音楽が大好きだからです。

 

・・・(中略)・・・

 

次に、西洋音楽のヒエラルキーの頂点に立っていた人物が東南アジアで仕事をすることについて、それをキャリアの転落だとするのは間違いであると指摘させてください。21世紀において、クラシック音楽はアジアの全域で高く評価されていて、そこでは最高レベルの演奏がおこなわれています。また、私が知っている優れた指揮者や作曲家たちは、ビデオゲームの音楽について偏見を持っていません。それどころか、現代において新しい音楽が生まれている領域として、ビデオゲームは最もエキサイティングなジャンルだと主張することも可能だと思います。>

 

評論家の町山氏曰く、ラストのモンハンはター自身の内面のモンスターを殺すために選ばれている。故にこれはマーラー5番の交響曲の構成からしてもター自身の再生の物語でもある、としています。多分これも正しい意見で、特に異論は挟みませんが、反面、これは音楽についての表面的な解釈のようにも思えました。

 

ベルリン・フィルハーモニーは20世紀の初めから、世界最高の楽団として存在し、その証明のように、多くの素晴らしい指揮者が音楽監督を務めてきました。特にフルトヴェングラー(1886-1954)とカラヤン(1908-1989)という存在が大きく、映画の中でも触れらている部分があります。カラヤンの後の音楽監督がイタリア人の指揮者、クラウディオ・アバド(1933-2014)でした。英国人のサイモン・ラトル(1955-)の後、その後継が注目されていましたが、先ごろロシア人のキリル・ペトレンコ(1972ー)に決定しました。多分ターは、このペトレンコの位置づけなんだと思います。

 

この映画の、ベルリン・フィルはクラシック音楽の歴史そのものであり、過去の栄光ある指揮者に触れつつ、ラストにゲーム音楽を持っていくという構成自体、監督に音楽に対する根本哲学があるとしか思えず、そしてそこに何かしらの「監督自身の(意図するにしろ、しないにしろ)」意見があるとしか、自分には思えませんでした。そこに対する解釈をしてくれる、映画評論家なり、音楽評論家なりがいると面白いと思います。

 

キャンセル・カルチャーを描いたものでないという事実と、しかし同時に、結果としては映画自体が自然とその方向を向いているという事実が、この作品の現代性をあらわにしています。

 

はたして、旧来、クラシック音楽作曲家の王者はベートーヴェンでしたが、今日に至り、オーケストラの魅力などを伝える作品として、マーラーの音楽が選ばれるようになりました。古い時代の、フルトヴェングラーとカラヤンの音楽の主軸は、やはりベートーヴェンであったでしょうが、クラウディオ・アバドに至ってはマーラーの権威の1人となり、また近代オーケストラにおいて、「マーラーを演奏するか否か」というテーゼは一種の踏み絵のようにもなってきたといえます。

 

ベートーヴェンの音楽は音符の数が少なく、指揮者が自己の情熱と、意志でもって繋ぎ止めなければいけない音楽です。ところが、当人自体が名指揮者であった、マーラーのスコアは複雑ですが、各所に細かい指示があり、この指示通りにやれば自然と音楽になるといわれています。しかしそれには確かなオーケストラの力量が不可欠であり、そのレベルをクリアしたオーケストラのみが演奏を許されます。マーラーの音楽は、近代オーケストラのため作曲された作品のように見えます。

 

とはいえその作品は複雑で、矛盾の多い作品です。

 

社会学者でもあった哲学者、T・アドルノ(1903-1969)はマーラーを高く評価していた人物でした。彼のマーラーに対する評論は的確だと思います。

 

 

彼の著作から引用します。

 

<マーラー以降の音楽史、とりわけその最新の局面は、統合への傾向を極限まで貫徹してきた。それはバッハやベートーヴェンやブラームス流の主題労作の原理を、あらゆる音楽要素が一つの潜在的な共通母から完璧に決定されるところまで推し進めた。それは本来統合されるべき多様性を、その際に実質的に溶かしてしまった。最新の音楽にとって個別は、既に当初から全体の単なる機能に格下げされてしまうことで、その実態を失ってしまった。>(T・アドルノ「幻想曲風に」、藤井俊之訳)

 

ここでアドルノは「マーラー以降」としていますが、時代を遡って、ベートーヴェンが始めた、「統一された1個の動機」でもって、曲全体を構成していく方法への批判を行っているともいえます。ベートーヴェンの音楽が1個の小宇宙を形成するとき、「その各部分」は、以前にもまして(モーツアルト以前)、全体の中で、単なる歯車として、個性を失うわけです。(その後のブーレーズやシュトックハウゼンの管理音楽に及ぶ、歴史の始まりであるとしている。)しかし、マーラーの音楽は必ずしもそうではないといいます。

 

<作曲の中に彼は―――自分自身がそうであったのと同じく―――抑圧されてきたものという次元を獲得したのであり、これこそが今日の音楽の可能性の条件に他ならないことが、明らかになりつつある。それは諸キャラクターという次元であり、現代の統合的言語の無差別的統一の中では、それらの間の差異はほとんど消し去れかけているのだ。(それに対して)マーラーの作品におけるあらゆる個々の領域は、極めて明確かつ一義的に定式化されていた。「私が継続です、私は移行です、私はその後です、私はその結びです」と、それらは語る。しかしながら、あらゆる個別をその機能―――全体の中でのその形式上の意味―――によって個別たらしめている。こうしたどぎついまでのキャラクターの徹底性によって、個別はまさに個別以上のものとなる。原理として外からこれらの諸キャラクターに調達されるのでなく、まさに個別の中から結晶してくるような全体へ向けて、個別は開かれるのだ。だからこそマーラーにおける諸キャラクターは、観想的に見紛いようがないにもかかわらず、決して作品プロセスの中で同一にとどまったままではなく、絶えず変化しているのである。

 

・・・(中略)・・・

 

彼が活用する処理方法は変奏である。諸キャラクターは全体に対してあまりに自立しており、また生成の中であまりに存在を主張しすぎるが故に、伝統的な主題労作の法則に従って分解したり、継ぎ目なしに全体に溶かし込んだりすることができない。(しかし)変奏の中ではそれらは常にそれと認識できる形を保っており、主題と変奏形象の構造は守られている。しかし個々の相貌は変化していくのだ。口頭伝承や民族音楽の原理が芸術作品に入り込んでくるのであり、旋律が反復される際にちょっとしたフェイントやに小さな差異を持ち込むことで、同一的なものを非同一的なものへと変えるわけである。技術の領域に至るまでマーラーは、逸脱の作曲家であった。>(「幻想曲風に」から)

 

マーラーの音楽にあっては、以前の作曲家に比べて、全体よりも個々の部分の個性が強く、それぞれの部分の主張が強くなったといっているようです。

 

実際にマーラーの交響曲を聴いた際に受ける、「分裂症的な雰囲気」というのはこうした傾向から免れることができないでしょう。確かに彼の音楽が、全体として1つの世界を作り上げているのは確かですが、個々の部分を見る限り、前後に脈絡のない音楽が割り込んでくるわけです。先にひどく興奮して情熱的であった音楽が次の瞬間には、落ち込んで鬱屈した雰囲気になる、という風に。

 

マーラーにおいては、第5交響曲以降は特にその傾向が強くなった、といえるでしょう。

 

マーラーの、交響曲1番から4番にかけて作られた作品の雰囲気というのは、メルヘン的で、この作曲家の楽天的で無邪気な性格を示すものでしたが、この5番以降はより哲学的な傾向を示すようになり、分裂症的な傾向をはっきりと示すようになりました。

 

確かに第5交響曲は表向き、失意から栄光に向かう、旧来の打ち上げ花火式の軌道を、その構造は描いていますが、その内部には後にマーラー自身が抱いている、この世への不信感と、死への不安が、底辺に横たわっているともいえます。実際その曲調は、かなりグロテスクでさえあります。

 

そして主題は、かつて描いていたメルヘンの世界から、1人の女性をめぐる、マーラー自身のプライヴェートな内容へと変容します。当時ウィーン歌劇場では、マーラーに対する反発が増え、彼はその場を離れようかと思い悩みます。英雄の死とその回顧を描いた、第1、第2楽章は、おそらくそんなマーラー自身の姿を描いた楽章でしょう。そこに現れたのが若き才媛、アルマ・シントラ―でした。

 

 

↑、グスタフ・マーラー(1860-1911)。10曲の交響曲の作曲家。「死」を極度に恐れて、思い悩んだ人物です。未完の第10交響曲のスケッチには、「憐れみ給え! おお神よ! なぜあなたは私を見捨てられたのですか?」や「君のために生き! 君のために死ぬ! アルムシ!」という走り書きがあるといいます(アルムシは妻だったアルマの愛称)。彼はオーケストラや妻に対して不遜な態度を取ることがあり、それが後に問題化していきます。

 

第5交響曲、その曲自体が全体で醸し出す雰囲気はまさに、世紀末ウィーンの退廃美であり、憂鬱といえます。しかしその憂鬱の中にも、久遠の彼方から金色に輝きつつ、甘美な慰めとして、現れてくる第4楽章のアダージェットは、おそらく当時のマーラーが抱いていた、アルマ・シントラ―のイメージそのものであり、ここにきてウィーンの退廃美の極致といえる状況を作る作品です。

 

 

↑、アルマ・マーラー(1879-1964)。当時のウィーンの社交界の花形で、教養が深く自ら作曲もした才女でした。年の離れたマーラーと結婚した理由について、この夫婦を診たジークムント・フロイトは、妻アルマのファザー・コンプレックスの傾向を指摘しています。マーラーと結婚しているにも拘らず、バウハウスのワルター・グロピウス(1883-1969、当時前衛の建築家)と懇意になり、問題になりました。しかしこれはマーラにも問題があったというのが妥当かと思います。後には画家のオスカー・ココシュカ(1886-1980)などとの関係もありました。

 

さて、残りの、この交響曲のフィナーレは、打ち上げ花火式ながら、物事の解決を「知識」に委ねようかという、いわゆる「インテリゲンチャ」的な感触を保ったまま終わりを迎える、変わったフィナーレです。

 

<5番目の最後の楽章においては、これまですべての要素が結集し、再開し合う。形式の運びのモデルとなったスケルツォとくらべ、不安定さは和らげられたようにみえるが、克服されたわけではない。最後のコラールと「高邁な知性への賛歌」との「密接な」親近性が明らかにされるが、マーラーはそれによってコラールから、形而上学的な尊厳をはぎとってしまう。「葬送行進曲」とスケルツォの結びつきを彷彿とさせる不愛想な身振りが、楽章を、そして交響曲を閉じる。

 

マーラーの第5交響曲は、天国を魔力から解放しようとする第4交響曲と、英雄的な悲劇的な破滅を描く第6交響曲の間に立つものである。マーラーはここで、「高邁な知性の賛歌」を、すなわち、懐疑を通じての救いを歌っている。>(バーンスタイン指揮のCDのライナーノートから。ホルスト・ウェーバーの批評、磯山雅訳。「高邁な知性への賛歌」はマーラー自身が曲をつけた歌曲。そこの旋律的断片がフィナーレに使われている。)

 

フルトヴェングラーはマーラーの交響曲を、すすんで指揮しませんでした(第3を指揮したという記録などは残っている)。カラヤンは数曲録音しましたが、全曲録音はしていません。彼らにとっては「分裂」よりも「統合」こそが大事ということです。

 

彼らのメインはやはりベートーヴェンであり、その内面にあるのは偉大な人物への憧憬でありました。ところがマーラーは偉大ですが、人間的な弱さは否定しようもなく、人類の苦しみを一身に背負ったような音楽を書き、そのまま他界しています。それに比べると、ベートーヴェンの内面にはやはり、「神」がおり、そこへの回帰があります。

 

しかしマーラーにはそれがありませんでした。

 

また以下はアドルノの言葉からです。

 

<マーラーの内実はごく簡単に言い当てられると人は思いがちだ。絶対的なものが考えられ、感じられ、憧憬されながら、しかし存在しないという風に。彼以前のほとんどすべての音楽がお経のように繰り返してきた存在論的な神の証明を、マーラーは信じていない。すべて正しいのかもしれない、しかしその中身は失われている―――彼の痙攣的な身振りはこのことに反応している。しかしながら、まさにそれ故にこそ、彼の作品を前にしたとき(神は存在するという)不毛のお題目は、なんと惨めで、抽象的で、誤ったものに見えることか。>(アドルノ、「幻想曲風に」から)

 

19世紀の終わりから、20世紀の初めにかけて、ニーチェ流の無神論の中で人々は喘ぎ苦しむようになりました。マーラーもまた然りということでしょうか。神という内面の確信は疑念へと変わり、その位置に「知識」が乗っかってくるのです。

 

ベルリン・フィルの形も時代ごとに変化し、フルトヴェングラー時代は彼が家長の、1つの家庭のようなものだったといいます。しかし、カラヤン時代になって、指揮者と楽団の明確な差異ができ、結局のところ契約的な形になっていきます。

 

映画「TAR」の中でもベルリン・フィルの民主的な感じが描かれますが、そこにいる人々はやはり現代的な「ドライ」な人間関係を彷彿とさせます。

 

細部の分化と独立性がマーラーの交響曲の本質であったように、現代の人間関係もまた分離と独立の傾向を示しています。

 

フルトヴェングラーには何人かの隠し子がいたといわれていますが、彼を心から尊敬する楽団員は彼を擁護しました。現代なら、タイガー・ウッズのような「なんちゃら依存症」といわれても仕方のない案件です。

 

 

↑、ウィルヘルム・フルトヴェングラー。ドイツ史上最高の指揮者。現代から見るとその存在は、ほとんど神格化されています。芸術が芸術である理由、そういうことを「根本」から感じさせてくれる、非常にまれな存在です。しかし結局「クラシック原理主義」でない人たちには、理解されないのかもしれません。

 

そしてこのような分離と独立の傾向を、現代のSNSが一層助長しているわけです。

 

分離と独立の現代的傾向、それはこの映画の中でより一層強く感じられます。そしてそのこと自体が「音楽哲学」自体と全く無関係ではないという事実と重なって見えてくるわけです(マーラーの音楽と重ね合わされている)。

 

しかし逆に考えるならば、現代のクラシック音楽の行き詰まりは、そのせいだともいえるのではないでしょうか?何故「ゲーム・ミュージック」が、その代替になるといえるのか?この監督は結局、音楽については、ジャズの方が専門らしいですが、これは何だか村上春樹氏のことを自分は思い出させます(あくまで個人的な推測でものをいっています)。

 

村上春樹氏は「クラシック原理主義」でないといいました(彼もどちらかといえばジャズ畑らしいです)。自分は彼らに比べると完全に「クラシック原理主義者」ですが、その方向から見れば、過去に「進歩的」といって捨ててきたものの中に、現状、この音楽界の行き詰まりを暗示させる事柄があるとしか思えませんがね。

 

だから現代の音楽界はせいぜいマーラーか、なんとかショスタコーヴィッチ程度でとどまらざるを得ないという結果を、招いているとしか思えませんね。これは行き詰まりであって、必ずしも進化ではないと思えます。また、現代人にマーラーが似合うという感触は、そこに何分かの不安を暗示させているともいえます。

 

演奏の技術的向上や、スコアリングの正確さなどだけでは結局専門職の、自己満足でしかないということです。

 

 

クラウディオ・アバドによる演奏(1993)。

 

去年イタリア人指揮者のファビオ・ルイージのベートーヴェンを、実演で聴きましたが、直接的な切れの良い指揮ぶりに、ああ「これはイタリア人の指揮だ」、というのを強く感じたのをよく覚えています。イタリアの、トスカニーニや、ムーティなどの指揮は叙情性よりも、男性的な強烈なアタックに魅力があります。音楽を演奏するというより、音楽を行為するという感じです。

 

それに比べると、同じイタリア人でもアバドはセンシティヴで、どこか女性的な雰囲気があります。彼が何故ベルリン・フィルの監督に選ばれたか、良く分からないところもあります。彼は、晩年のカラヤンや、チェリビダッケのように、演奏しました。つまり、「作曲家の意図」を重視するのではなく、指揮者独自の美学で曲を染め上げていった、ということです。特にマーラーは彼の得意とするところで、色彩的な音を出し、マーラーのグロテスクな側面を強調せず、しなやかで美麗なものにしています。この第5も、ウィーンの退廃美を繊細に生かし切った、美しさがあります。

 

 

レナード・バーンスタインによる演奏(1987)。

 

バーンスタインは2度、マーラーの交響曲全集を完成しており、特に2度目の全集は20世紀のマーラー演奏の模範として名高いといえます。1960年代以前、マーラーは人気がなく、人々の理解を超えた作品でした。彼の長大な音楽はコンサートだけでは理解できぬ内容で、録音が発達し、人々はその作品を一度自分の部屋でじっくり理解する必要がありました。

 

今日マーラーを演奏するオーケストラは増え、その精緻な演奏が色々なマーラーの音楽の側面を示すようになりました。近代的なオーケストラでベートーヴェンをやると、各旋律の分離が良く、見通しの良い演奏になりがちです。すると、ベートーヴェンの音楽は内面的に結晶化した、その音楽の精神を取りこぼすことがあります。美麗にやればよいというものでもないように思います。ところがそれがマーラーになると、各旋律が良く分離することによって、各々の部分の意味と主張がはっきりし、魅力的に聴こえるようになります。

 

しかし、バーンスタインの指揮は旧世代に属しており、必ずしも演奏の分離が良いわけでもありません。彼はマーラー内部に入り込み、その音楽と一体化するところに驚きがあります。それによって徹底的に音楽の意味を掘り起こしていきます。アバドの演奏を聴いた後、この演奏を聴くと、背景に広がる巨大な精神と、音響の像に圧倒されますね。20世紀後半のマーラー・ルネサンスを牽引した指揮者がバーンスタインでした。

 

 

映画「TAR」のサントラです。

 

ライナー・ノートから引用します。

 

<リディアはアメリカ人という設定なので、英語とドイツ語を混ぜながらオーケストラに指示を与えているが、第4楽章アダージェットの途中、リディアすなわちブランシェットが「Vergessen Sie Visconti(ヴィスコンティのことは忘れて下さい)」と言っているのが聴こえるだろう。要するにリディアは、アダージェットが使われたことで有名なルキノ・ヴィスコンティ監督の映画「ヴェニスに死す」(1971)のイメージにとらわれず演奏してくださいと、指示を与えているのである。>(前島秀圀)

 

監督は、ドイツ語による指示の部分は、翻訳をしないように指示を出していたとかで。ドイツ語の知識がなければ、映画だけ観ていても、中々分からない部分です。

 

最近のグラモフォンはカラヤン時代と打って変わり、変わった試みばかりが増えました。アーティストは古典ばかりでなく、現代音楽や、映画音楽を交えたアルバムを制作するようになっています。これもそんな1枚で、映画との関連を抜きにして語れないアルバムで、映画を観た人が聴くべき内容になっています。