ラー文書 |  ヒマジンノ国

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「ラー文書」、ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、ジェームス・マッカ―ティ著、紫上とはる訳。

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スティーブン・グリア博士の「ディスクロージャー」を読み、宇宙人という存在に興味がわきました。その存在がどんなものか、という自分の一つの回答になったものが、この「ラー文書」という本です。

 

少し話が横道にそれますが、アメリカのスタートレックというSFドラマがあります。その中で、人類は数々の異星人とコンタクトを果たし、ディープ・スペースという深部宇宙まで旅をするレベルまで科学技術が発達している、という設定となっています。

 

 

その存在は我々からいえば「宇宙人」のような存在なわけです。彼らは独自の規則を持っており、それに従って旅を続けていることになります。

 

例えば、「彼らよりも水準の低い星の生命体」にスタートレックのメンバーは直接関与することは認められていません。まあ、空想ドラマなので、そこは厳密ではないですが、彼らにはその存在が秘密のまま、他の星の人々の間に溶け込んだりして、問題を解決したりします。スタートレックの設定上、本当ならやってはいけないはずですがね。

 

 

(スタートレックはヴォイジャーとディープ・スペース9が好きでした。アメリカでは新しいシリーズがやっていたみたいですが、観れてません。('ω')ノ)

 

確かに我々が子供の成長などについて考えるとき、大人は色々なことを考えます。子供たちが直面している問題について、その困難の克服を、全て子供の代わりに親がやってしまえば、子供は成長しません。夏休みの宿題も子供がやるから意味がありますが、親がやってしまえば、子供のためにはなりません。

 

何がいいたいのかといえば、仮に宇宙人がいるとするのなら、それは我々よりも高度な道徳なり、哲学や考えがあっておかしくないということです。人類の代わりに、宇宙人がその責任を肩代わりはしてくれない、ということです。それはポジティヴな場合もネガティヴな場合もそうといえるでしょう。

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かつてドイツのナチズムは自分たちのUFO研究に「ヴリル協会」というものを設けて、巫女によるチャネリングを行ったといわれています。その存在が、いわゆる我々「地球人」よりも知性レベルの高い、宇宙人であった可能性があったといわれています。

 

(<補足>少し先走りますが、この本の中の「ラー」は、必ずしも善意ではない存在も宇宙にいるといっています。ラー自身は「他者への奉仕(ポジティヴ)」を主な目的としたコンタクトを取るといいますが、中には「自己への奉仕(ネガティヴ)」を目的とした存在もいるとのこと。ただし、ネガティヴな存在は数は少ないとしています。)

 

この著作もカーラ・L・ルカートという女性を介して、受け取られた、「ラー」という存在との対話の記録です。この本を読む限り、仮に我々の考える「宇宙人」とは西洋のいう、天使とか、何かの聖霊というような感じであり、ハリウッド映画の作るような、この3次元に形作る「物質的存在」とはいささか雰囲気を異なるように思えます。いわゆる「靈」とか「魂」とかといった感じが我々の感覚では妥当な気がします。

 

では、それが何か空気のような「ふわふわしたもの」かといえば、また違うともいえましょう。この本に書かれていることが真実であるならば、彼らは明らかに「高い知性」を有しているように思え、実在的な印象を強く持ちます。ここでの会話の内容は、地球人の起源や、より高次の次元の存在など、「哲学的」で根本的な内容ばかりで、彼らが視覚的に「何者か」という表現は、この本の中にはありません。

 

はたして、彼らは人類に対して友好的であって、より高度な哲学を我々に伝えようとしているかに思えます。

 

<私はラー。今私たちは交信いたします。私たちは「一なるものの法則」に属しています。私たちの波動の中では、あらゆる両極性は調和しています。あらゆる複雑なことがらは単純化しています。あらゆる逆説(パラドックス)は解明されています。私たちはひとつです。それが私たちの性質であり目的なのです。>

 

ラーという存在は以上のように自己紹介をしています。「一なるものの法則」とは我々が「神」の概念を抽象的に考察する際の概念と、ほとんど同意義だと思われるものです。

 

この著作の中では、彼らがずっと地球を監視して、見守っていることが述べられています。必要に応じて彼らは「地球人」にコンタクト(多くの場合、チャネリングと呼ばれる方法)を取るようですが、宇宙には「自由意志の尊重」という概念、あるいはルールがあるために、かなり限定的なものがあるようです(つまりあまり積極的な交渉は、ある程度を超えると圧力とも取れます。それは相手の自由意志の尊重になりません。我々が彼らの考えを理解できる程度の能力を有し、高度な生き方を心から望まなければ、あちらはコンタクトは取らないということになります。逆にいえば破滅を望むのなら、それはそれで自由意志ということになり、彼らなりに警告などは与えるようですが、無理に止めないということになります。自由意志とは自己責任でもあるわけです)

 

さて、この著作の内容は多岐にわたるため、簡単に一部だけクローズアップして書いておきます。それは、このラーがいうところの、人類がこの世界に生まれて、生きている(生かされている)意味についてです。

 

分かりにくいかもしれませんが、簡単に書いておきます。

 

彼らによると我々人類は「第三密度」と呼ばれる状況に置かれた存在であり、そのための学びをするために生きているといっています

 

我々の前段階というのは、「第一密度」と「第二密度」であり、それは鉱物や植物、動物などの存在をあらわしているそうです。つまり、「生命」が生まれるとその存在は「全体」から切り離され「個」となります。自分を「自ら」意識できない鉱物や水のような存在が「第一密度」だとすると(鉱物や水にも意識はあるとしています)、「自己」を「個」として認識を(ある程度自覚して)始めるのが「第二密度」の動物や植物たちといえます。そして我々「第三密度」においては、その「個」がより深く認識され、「個」が各自の「個」だけで生きていけないことを理解するための「学びの場」であるとしています。

 

そしてその学びを繰り返し、遂に「全体は一つ」という認識になるとき、「第三密度」を卒業し、「第四密度」に入るとしています自分だけでなく、他人も大事である、という考え方になる、ということです。それは、いうなれば我々の宗教が「天国」といってきたような世界でしょうか。しかしその後も学びを続けることは我々の考えている「天国」とは違います)

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当然、このような話が受け入れられるためには輪廻転生」の概念を受け容れる必要があります。この概念は最近のスピリチュアル・ブームの中でも盛んにいわれるようになりました。

 

つまり「人間」は何度も生まれ変わりを繰り返しながら自身を徐々に成長させているという考え方です。生まれ変わるごとに各自のクリアするべき「テーマ」が決まっておりそれを何度も繰り返すことによって、成長していくいうものです。このテーマにおいてはエドガー・ケイシーなどが詳しいようです

 

ここのラーがいうこともほとんどそれと同じです若干の引用をします。

 

<転生の回数が蓄積されていくと、存在はさらなる要求を見い出すようになります。それには取引する要求、愛し愛される要求、動物的な行動様式から品性を高め、より全体的視野をもとうとする要求などがあります。

 

第三密度の周期の初期のあいだに関しては、輪廻転生は、身体という乗り物のエネルギー複合体が中断したそばから迅速に無意識に起きます。それは、直前の転生の体験を熟考したり癒したりする必要があまりないためです。

 

・・・(中略)・・・

 

寿命の短命は「一なるものの法則」のゆがみのひとつで、存在は、自分が耐えうる以上に激烈な体験を今以上たくさん受け入れるべきでないことを暗示しているのです。しかしこのゆがみは個人レベルでのみ効力が発し、惑星複合体や社会複合体に対しては影響力をもちません。

 

存在や叡知や愛を拒絶したことにより、それらが存在の自己の一部として受け入れられぬまま「創造者」の意識に映し出された場合、かなり厳しい体験がその後で続いて起きてくることになります。それで、その存在をそうした体験から外してあげる必要が起きるために、寿命の短縮が起きるのです。そして当人には、死後の癒しや、その人生をきちんと評価する必要が生じてくるのです。>

 

補足的にもう一冊だけ書物を紹介します。

 

若干話は飛びますが、よろしくお願いいたします。

 

 

「眠れる預言者エドガー・ケイシー」光田茂著。

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宇宙に残る記憶媒体、アカシック・レコードを読むことができたという、アメリカの靈能者エドガー・ケイシー(1877-1945)の紹介本です。

 

彼は病気の人の治療のために、その人の前世を見ることができたといわれています。この本の中身はエドガー・ケイシーについての総合的な案内本のようですが、その中にケイシーによって前世を読まれた人達の例が示されています。

 

それが、この書物の中に、いくらか具体的に書かれているので、上記の内容と合わせて、若干の引用をしていきたいと思います。

 

本来、エドガー・ケイシーについてはもっと十分なスペースを取って書かれるべきだと思います。しかし、エドガー・ケイシーについて書きだすと、その内容は「ラー文書」同様、多岐にわたった内容ですので、厖大です。ここでは省きます。しかし、この靈能者(?)のいっていることはかなり「ラー文書」のいっていることとかぶります。また「ラー文書」内にもケイシーについての言及もあります(他には二コラ・テスラなどについても)。

 

エドガー・ケイシーが患者や彼に関係ある人々の前世を読んだ(リーディングというらしい)その例の引用です。一応、輪廻転生があるのではないかという、証明の意味合いぐらいでの引用です。

 

これらは各個人の持つ人生の問題や、性向について掘り下げるために聞かれたものです。

 

いくらか唐突に思えるかもしれませんが、引用します。

 

  神を否定し続ける男性(十字軍の遠征に失望)

 

ケイシーの身近に、徹底した無神論者がいました。彼の前世に興味を持った人が、リーディングにその原因を尋ねました。それによると、彼は前世で十字軍の遠征隊に加わりエルサレムの奪回に参加したひとりであったということでした。しかし、聖地を奪還するという聖なる目的の裏で、宗教指導者たちの目に余る乱交、不道徳な行為を目撃し、宗教に大きな失望を感じ、それ以来宗教を毛嫌いするようになったというのです。

 

また、全く逆のケースとして宗教的に寛容な女性がいました。彼女のライフリーディングによると、彼女はキリスト教とイスラム教との間で宗教戦争がしばしば行われている時代に生まれましたが、イスラム教徒の人々と接したところ、彼らが人格的にも非常に高潔で、高い道徳的な生活を送っていることを経験し、それ以来、他の宗教にも優れた点があることを認めるようになったということです。>

 

ここで語られていることは「良い」ことも「悪い」ことも、生まれ変わりを超えて持ち越されていく、ということです。そしてその内容はラー文書のいうところと意味合いは合致しているように思えます(つまり各存在の成長が求められる、という意味において、です)。

 

ここで問題になってくるのが、こうして持ち越された「業(カルマ)」が、過去に犯した「罪」とか「悪い」行いの克服へと変容する場合です。

 

「ラー」のいうことが正しければ、人間は他者と理解し合うための学びをしているといえます(一なるものの法則)。それ故に、他者と分離をもたらすような生き方や考え方は矯正されねばならない、ということになります。

 

もし、物事が建設的に変容し、次世代に持ち越されるのなら、何も問題はありませんが、物事が悪い方向へと変容した場合、それは次回の人生で学ぶべき「テーマ」となり得るとしています。

 

以下のようなケースがあったと、ケイシーのリーディングは述べています。

 

  交通事故

 

次のケースは15歳の時に交通事故に遭った少年のものです。彼は交通事故の後遺症でその後の人生を車椅子で過ごさねばなりませんでした。彼のケースは、いろいろな意味でカルマについて深い示唆を含んでいるので、少し詳しく解説することにします。

 

ライフリーディングは、彼が直前の前世でアメリカ独立戦争の時に兵士として戦い、その時の人生では、困難な状況に遭遇しても、それを快活さと忍耐をもって最善の形で克服する能力を培ったと評価しました。それによって彼は精神的にも靈的にも成長することができたのです。

 

彼が半身不随というハンディキャップを負うことになる前世の理由は、それよりさらに前のローマ時代にありました。

 

リーディングは、初期キリスト教時代のローマで彼が作ったカルマについて次のように説明しました。彼は捕らえられたキリスト教徒と闘技場で戦うことを楽しみにし、何の抵抗も示さず屈してしまう人々に嘲笑を浴びせたのです。「そのために、今度は自分自身が同じ苦悩を味わうことになり、自らの苦しみを軽んじなければならなくなったのである」と。

 

このケースを使って、カルマの重要な側面を説明しておきたいと思います。

 

この男性の嘲笑のカルマは初期キリスト教のローマ時代で作られたことをケイシーは指摘したわけですが、その時の過去世から今回の人生までの間に少なくとももうひとつの過去世がありました。そこでこの男性はすぐにこういう疑問を起こしました。「ローマ時代のカルマはなぜ直後の人生に現れず、今回の人生に現れたのでしょうか」と。それに対してケイシーは次のように答えました。「直後の人生に現れていたなら、あなたはその重荷に耐えられなかった。それゆえに、次に人生ではカルマを償えるほどの精神力を鍛えることに費やされたのだ」。

 

ローマ時代の直後の人生で罪を償おうとしても、それでは彼にとってあまりに荷が重すぎたのです。ケイシーはこの種の状況に対してしばしば「たとえあなたが重荷を引き受けようとしても、神がそれを許し給わない」という言葉で説明しましたが、このケースがまさにそれでした。魂が成長するまでカルマの負債は延期されるのです。何という高い配慮でしょう。

 

すなわち、現在の人生において何らかの身体的障害を持っている人たちは、たとえそれが前世のカルマによっているのもであったとしても、それを背負うことを神に許されているほど精神的・靈的に成長した魂であるということです。>

 

このような前世や来世、この世あの世という概念は現代に浸透している一般的な無神論的な概念と正反対の意義を持っているように思えます。はたして、上記の交通事故にあった少年の例は、確かに我々が生死を繰り返しながら、成長を続けているという、良い例のように思えました。

 

自分には、こうした記述はラーのいうところと良く似通っているように思えるのです。偶然の一致、というよりも、何か背後の理由から導き出されてきている、「一致」のように思えます。

 

もし人生が一回こっきりで、死後全てが消えてしまうというのなら、我々が努力して、自分の今いる状況を改善したとしてもそれは「一回こっきりの夢」のようなものです。仮に、何も努力せず、人生を面白おかしく暮らしても、当人が死んでしまえば「努力した人」と「努力しない人」に何の差もありません。

 

ここで述べられていることは、今の社会の中で求められている「富」や「名誉」が必ずしも人生の目標でないことを暗示しています。人は各自に自分で設定している「目標」があり、それを自分の力で克服していくことこそが大事であり、その問題に取り組んでいる限り、その人生は肯定されるべきであるということです。単に誰が「善い」とか「悪い」という事柄に左右されず、人は自分の人生を、自分なりに歩めば良いのではないのでしょうか?

 

自分が最近こうしたオカルトともいえる思想や思考を支持するようになってきたのは、こうした点が大きいです。

 

今私たちが生きていて、それが必ずしも現実的に利益をもたらすものでないにしても、そこで行われている努力自体は次の人生に影響し、意義があるということは、私たち人間の倫理や道徳性に照らし合わせてみても、重要なことのように思えます。

 

そういった意味で、我々が「自己」を顧みるとき、より深い意味で自分という「存在」を自覚するようになるのではないでしょうか。

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「ラー文書」というこの本の中では、その他にもアトランティスなどの古代文明について、また、惑星連合という彼ら「宇宙人」の存在など多岐にわたって書かれています

 

こうした部分は中々理解が難しい部分かもしれません。

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まず一般的な人には全く理解されない内容だろうことは、今回も承知して書いています。

 

あくまで個人的な意見ですが、この本を読む限り、ひどいデタラメを書いてるとも思えませんでした。むしろ、最近は他のニューエイジ系の書物や、宗教書なども漁っていますが、点と点が繋がっていくような感じで、我々の認知してこなかった世界像が一定の形をもって出来上がっていくことに驚いています。

 

人類にはガリレオ・ガリレイの例がある様に、物事の真実性が実は「常識」の中にない可能性があるのではないのかもしれないと、考え始めています。

 

とりあえず、以上です。自分も自由は尊重されるべきだと思っております。

 

今回も「いいね」はいりません。m(__)m