中学校では演劇部

 
高校では英語劇部
 
大学は芸術学部で
演劇から踊り専攻へ。
 
 
卒業後は3年間
パパ・タラフマラという
パフォーミングアーツカンパニーの研究所
 
 
25才で
がんになったとき
 
 
また踊るんだ
 
 
ということを希望にした。
 
病室の
夢の中で何度も何度も踊っていた。
 
 
当時4つほど舞台を抱えていたけれど
すべて降板した。
 
回復後何度か舞台に立ち
 
だんだん踊らなくなっていって
いま、踊る身体ではなくなったって思ってた。
 
もうダンサーじゃないって思ってた。
 
 
 
でもちきゅうのがっこうや日々
 
誰でも踊れる。
誰でも歌える。
誰でも命を表現できる。
 
って伝えているのに
 
 
なんでわたしは
もう踊る身体じゃないって
ダンサーじゃないって思ってるんだろう。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ばりばり踊っていたときの記憶や身体の感覚と
いまもばりばり踊っている先輩方
どんどんダンサーとして成長し、輝いていく後輩たちを
みて
 
わたしはダンサーじゃないと予防線を
はっていたような気がする。
 
 
 
 
 
もともとおどることも、うたうことも
わたしにはできない。
恥ずかしいと思っていた。
 
大学で
《作品を創る》ことと出逢って
はじめて動きは自由でいいんだと知った。
 
踊ることはわたしを自由にした。
 
風になったり、水になったり、
音になったり、どんどんと色が溢れ出た。
 
 
だんだんと
こういう作品を創りたいってイメージはわくのに
動けない自分に限界を感じて
 
卒業後、もっと身体とむきあおうと
パフォーミングアーツの研究所に入った。
 
 
すぐに上達してやめようと思っていたけど
身体は言うことをきかなかった。
 
毎日、毎日おどったり、表現にむきあった。
 
じぶんが理想とする身体には
到底なれなかったし、
尊敬するダンサーに近づくこともできなかった。
 
 
尊敬するダンサーの一人が
80才くらいにベストのパフォーマンスができるように
なりたい。
 
と言っていたことがあった。
 
 
 
 
わたしは、すごく早い段階で
踊りを諦めたんだと思う。
 
 
いまも現役でおどっている人は
諦めずに毎日じぶんと空間と向き合っている人だ。
死ぬ間際までおどっている人だ。
 
 
ちきゅうのがっこうで
身体のワークをして
 
作品を創って
 
やっぱりわたしは踊りが好きだと思った。
 
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じぶんの命を燃やし表現することが
たまらなく好きだと思った。
 
 
生きている限り
ずっとずっと身体と付き合って向き合っていく。
 
 
日常がおどりでありうたであり
すべてが表現だ。
 
 
わたしはダンサーだ。
死ぬまでダンサーだ。