3月父が亡くなりました。
亡くなるまでの3ヶ月ぐらいを書き記しておきます。
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2020年夏
胃がん
肝臓がん
食道がんがみつかり抗がん剤治療
途中に肺にも転移
帯状疱疹にもなりました。
コロナにもなりました。
関係ないだろうけど白内障になり手術を受け、
脊柱管狭窄症にもなりました。
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抗がん剤が食道がんにだけ
効かなくなっていたので
11月中旬から
放射線治療をうけるため入院。
その間熱が出たり延期になったりで
12月末まで入院。
入院したその日から
突然食事は禁止になりご飯は点滴の栄養剤のみに。
食べると食道に穴が開くかもしれないからと先生に言われ、食べられず。
放射線治療の効果が出るのは遅いと聞いていたけど、結局効果があったのかなかったのか、
効果がでれば食事ができたはずだったのですが
最後まで食べることは叶いませんでした。
最初はお腹すいたすいたを連呼していた父も
途中から食べ物の話はしなくなりました。
クリスマスはコスプレした先生と看護師さんと父とで撮った写真を嬉しそうに見せてくれ。
退院して年末に家に帰ってきてからは
24時間栄養の点滴を引き連れながら過ごしていました。
父の話を聞く限り病院ですごいハードなリハビリをこなしていたこともあり、入院前より足取りはスムーズに。
そこから2ヶ月ほどは穏やかに過ごし、
2月の終わりごろから熱が出たりちょっと気になるような乾いた咳をするように。
咳止めが効いている時間は咳が止まっていたけど
効き目がなくなった瞬間から止まらないせき。
熱が高いことが多かった。
熱があっても
母は「ひとには自分の免疫力があるから」と
解熱剤をあまり飲まそうとしませんでした。
「私たちみたいな健康な人はそれでいいんだろうけど、お父さんは病気だし免疫力ないんだから!!」って母に対して怒ったことも何度か。
咳が止まらないのが続いている中
3月初めの診察日。
そのまま入院。
抗がん剤の副作用による肺炎でした。
そしてその翌日先生に呼ばれ
「危篤に片足つっこんでいます」と。
酸素をMAX量入れてるけど全然追いつかないと。
肺が焼け野原のようになってる、
もし良くなったとしてもこのまま酸素を持ちながら生活しなきゃいけない話、
よくなるのも最低ひと月はかかる、
そんなような話をされたと思います。
それでも父は
面会に行くと
酸素マスクをつけて
喋るのもしんどいだろうに
一生懸命喋ろうとしてくれていました。
「先生に聞いたんだけど俺結構重症だったんだな」と。
「そりゃそうでしょ」
ちょうどWBCの時期で大谷大好きだった父。
地上波で見れないことを知り残念がっていたので、私と一緒にネトフリの契約をしました。
そして市県民税の申告が終わっていないことが気になっていたようで、
そんなこと、といったらあれですが
自分の体が大変な時期に気にしなくていいのにと思いつつ、代理で全部書いて父に見せてから提出したり。
姉と弟嫁もかけつけてくれました。
全然喋らなくなっていた父が
弟嫁の元気さにつられてか
めちゃめちゃ楽しそうに話していたのが印象的でした。
「長生きしたいけど元気じゃないとなぁ」
と笑いながらぽつり。
最後、父と何話したっけかな。
入院して7日目。
お見舞いに行ったら、先生が来て
やばい状態です、面会時間すぎてもここにいていいですよ、と。
目を開けたまま手足をバタバタさせてました。
少し落ち着いたかな、という頃に1度家にもどることに。なにがあったらすぐ連絡します、と看護師さん。そんなにやばいのか。明日の仕事どうしようかななんてこと考えながら就寝。
夜中3時、病院に呼び出され
病院につくと、あまりに暴れるからと手足を拘束された父の姿。
ご家族がいると安心するかと思ってお呼びしましたと。手足をバタバタさせるのを、なでなでしていました。モルヒネが聞いてきたのか朝方にはようやく落ち着きました。
朝の回診できた先生が
午前中でもう危ないかもしれません。
目が上天しているので。と。
呼びたい人呼んでくださいと。
姉も弟も遠くに住んでいるので
電話で2人の声を聞かせてあげました。
その時に看護師さんが少し脈が安定してきました、と報告しに来てくれました。
声がちゃんと聞こえたのかなぁ、
そこから1時間ほど経った頃
私が外を見た瞬間に
いままで息を吸う音が聞こえてたのに
無音に。
異変に気づいた看護師さんが
「声掛けてあげてください」って
泣きながら声をかけて手を握っていました。
それが最後。
闘病生活5年9ヶ月?かな。
やつあたりすることはあっても弱音はほぼ吐かず。
治療に前向きによくがんばりました。
いまはただゆっくり休んでほしい。