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以下、小説となります!!



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キッチンとダイニングの仕切りのない、大きな空間の中。
新たに家族となる人を出迎えるため、そして日常生活に支障のないように、かつ、見た目にもゆったりと寛げられるよう吟味して揃えられた家具たちは今、誰にも使われることなく放置されている。


代わりに頻繁に使用されているのが、イルカさんの家にあった年代物のちゃぶ台だ。
フローリング畳というのものを床に直接置き、これまたイルカさん宅にあった座布団をお供に座っている。
しかも、部屋の隅っこ。
はりきって用意した部屋がほとんど用をなしておらず、オレは密かに落ち込んでいた。


最近なんて、仕切りが欲しいなぁと独り言を漏らしては誰も使わない空間に目をやるから、今度はイルカさんと一緒に家探しをしようと思う。
不動産屋の言われるがままに購入したが、流行りとは無縁のイルカさんにはお気に召さない住居だったようだ。


「イルカさん、お茶ここに置くよ」
「はーい。ありがとうございます」
仕事を持って帰ってしまいましたとしょんぼりしつつ、精を出すイルカさんのためにお茶を入れて傍らへ置く。
一緒に暮らし始めてよかったと思うのは、オレがイルカさんの側に近づいても、触れても、ビクつかなくなったこと。寛いだ表情を自然とオレに見せてくれること。あと、お互いの呼び名が『先生』から『さん』へ変わったことだ。


猫の譲渡会で黒猫なイルカさんを譲り受けた飼い主的な立場ではあるものの、騙すようにこの家に連れ込み、共に暮らすことを強制した。
始めの一日こそ、暴れに暴れまくったイルカさんだったが、切っ掛けは不明だが突如として大人しくなり、オレと住むことを許容してくれた。
イルカさんの口から「いってきます」と「ただいま」の言葉が自然に出るようになったのは、思えば早かった。
今日なんて、帰ってきたオレを「おかえりなさい」と自然な笑顔で出迎えてくれたものだから、思わず「解」と印を切ったくらいだった。
イルカさんの環境適応能力が高すぎて、いらぬことを考えてヤキモキすることは多々あるが、今が幸せならいいとオレは己に今日も言い聞かす。


本日で、一緒に暮らし始めて12日目となる。


黙々と明日提出する書類を作り上げていくイルカさんの横顔を眺め、茶を啜る。
イルカさんとの距離はすぐ触れるほどに近くて、その気になればその体温を感じられる。
さらさらとイルカさんの書類を書きつける音とひそやかな呼吸音を聞きながら、オレはゆったりと過去を振り返る。



オレのイルカ先生。いいや、先生になる前のうみのイルカと出会ったのは、オレが暗い暗い地の底にいる頃だった。
あの頃は、火影の直属隊である、暗殺戦術特殊部隊、通称暗部で、その名の通り血生臭い任務ばかりを遂行していた。


ちょうど時期が悪かったこともあっただろう。
四代目火影が倒れ、引退していた三代目を引っ張り出し、立て直しを図っていた木の葉の里は、裏社会と深く関わらなければならないほど困窮を極めていた。
正しければ正しいほど利が薄いのは、世の習いだ。
だが、表向きの木の葉の印象を落とせば、木の葉全体が裏社会に塗れてしまう。
後々のことを考え、三代目は裏社会からの依頼を、火影直属の部隊に全て任すことを決めた。


裏切り、裏切られ。殺し、殺され。
昨日の友が、今日は敵となり、油断のならない仇となる。
この世の薄暗いものが全て集結したような世界だった。
そこに温かいものは何一つなく、あるとしても必ず下心や罠が張り巡らされていた。
当然、そんな世界に長く身を置けば置くほど、心は荒み、精神は墜ちていく。
その場その場の快楽だけが唯一気が紛れるもので、それも場合によっては血塗れとなり、心の安寧など望むべくもない。
正規の忍びたちの殺しがいかにお綺麗で情に溢れたものだと、暗部の仲間たちと嘲笑っていた。その裏にはどうしようもない羨望を抱きながら、見下すことでしか己を保つ術がなかった。


そんな時に出会ったのが、まだ少年の輪郭を残す、うみのイルカだった。
行き会ったのは、一度きり。
いつもの如く胸糞悪い任務を終えて、一時の休みを仮宿で得ようとした時だった。


時は冬で、うっすらと白い雪が積もっていた。
深夜の、誰にも汚されていない新雪を踏みながら、誰もいない夜の道を進んでいると、後ろから呼び止める声がした。
「待って、お願い、待ってください!!」
待てと言われて待つ者はいないだろう。だが、この時のオレはほんの少しの嗜虐心に引かれて、足を止めた。
我ながら始末の悪いことに、殺した奴の返り血そのままに里へと戻っていた。
月のない暗がりの中、周りは白く染まった世界で一人蠢くオレは、傍目から見て、きっと幽鬼や化け物の類に見えるだろう。
声を掛けてきた者は、変声期をようやく終えたような不安定な調子を持ち、まだ年若いことを示していた。
そして、ここは暗部の通り道。
ここを使う者たちも、ここが何かを知ってる者たちも、任務後の暗部が如何に危険か、身をもって知っている。
無警戒にも声を掛ける輩は、何も知らない、それこそ忍びとすら言っていいのか疑問さえ残る、里の幼き者だけ。


くくっと小さく笑いが零れた。
その無垢な瞳にオレが映った時、どんな表情をみせてくれるだろうか。
綺麗なまあるい目の玉に、血塗れのオレが映る様はどんなに冒涜的なものか。
その少年の綺麗な心にオレという醜いものが傷として残る事実は、実に愉悦に富んでいた。


息せき切って少年が背後にたどりつく。
それと同時に振り返って、面越しに目を細めた。
さぁ、一体どんな悲鳴を上げる? どんな顔をオレに晒してくれるだろうか?。
殺しの興奮がまだ冷めやらぬせいか、ひどい飢餓感を覚えながら少年を見下ろし、少年の夜よりも暗く明るい黒い瞳とぶつかった。


少年の驚く顔。
見つめ合ったのは一秒にも満たない時間だっただろう。
けれど、その直後に、少年はほっと安堵の笑みを浮かべた。


「良かった。あなた自身の怪我じゃないんですね」
朗らかに言われ、息を飲んだ。
意味が分からなかった。
想像していた少年の反応と目の前にいる少年の言動がことごとく一致しない。
少年は、鼻の中央部を一文字に横切る傷が特徴的なだけで、あとは平凡な顔立ちをしている。その平凡な少年は自身の鼻傷を軽く掻きながら、何でもないように笑った。
「血塗れの足跡があったので、近所の人に救急箱借りて急いで来たんです。でも、違ったみたいで良かったです。もしもの時のために式も用意してましたけど、使わなくて本当に良かったです」
最後の言葉は自分に向けたように言い切り、少年は最後に白い歯を見せ笑い、頭を下げた。
「お騒がせしてすいませんでした。それじゃ、俺は――」
暇を告げる言葉を耳にし、気付いた時には華奢な手を捕まえ、押し倒していた。
周囲には少年が持っていた救急箱の中身が散乱し、間抜けな様子で箱が口を開けっ放しにしている。


真ん丸に少年の目が見開く。
その目の奥に見える感情を逃さないように見据えて、騒ぎ立てる感情のまま言葉を吐き出した。
「バカだーねぇ、お前。手負いの暗部に声かけて、無事に帰れると思った?」
食い散らかしてしまえ。
興奮のまま己の獣が吠え立てる。
食いでも何もない、貧弱な体だ。それでも今日の熱を治めるぐらいの役には立つだろう。
暗部の特殊装備である鉤爪で、少年の服だけを真っすぐに断ち切れば、少年は泣いて暴れると思った。
止めて、許してと、今宵この手で葬った者たちのように、金切りめいた悲鳴をあげるものだと思っていた。
違うのは生きているか、生きていないか、ただそれだけだと。


だけれど、オレの脳裏に浮かぶ絵と、目の前の少年が重ならない。
オレの体の下に引き敷いている、貧弱な体は微動だにせず、恐さで口が真一文字に引き結んではいるものの、決してオレから目を反らさずに、じっと仮面越しにあるオレの瞳を見つめている。
だからなのか、少年の喉元に突き付けた鉤爪を下ろせなかった。
静かに、恐怖を湛えながらも黒い瞳がオレを見つめるから、そこから先の行動に移せない。
互いに動けず見つめ合っていると、小さく少年の唇が動いた。
「……いい、ですよ。あなたが本当に、この行為を必要としているなら、いいです」
奥歯を噛むように、己の何かを殺すように、少年は言葉を吐いた。そして、強張っていた体の力を抜いた。


その言葉に、オレへ身を任せる仕草に、咄嗟に反応できなかった。
少年はオレを見ている。ずっと。
会ってから今まで。
目を反らさず、恐怖に負けず、オレを見ている。


瞬間、少年の頬に触れそうだった手のひらを取り返し、みっともないまでに後ろへと距離をとった。
心臓がうるさい。
駄目だ。駄目だ。駄目だ。今は、駄目だ。
今、触れれば、オレはきっと。


叫び泣きだしたくなる衝動を殺し、背を向ける。
何もないように、この邂逅は幻だったと己に言い聞かせるために歩き出したのに、馬鹿な少年はオレに声を張った。
「あの! 猫、猫飼いませんか!?」
脈絡のない言葉に詰めていた息と線が緩んでしまう。
思わず足を止めた己の意志の弱さに辟易していれば、少年はこちらが去る前にとまくし立てるように言葉を並べた。
「ね、猫って、温かくて! それに寂しいと寄って温めてくれるんです。普段は本当に役にも立たないし、犬より賢くないし、寝てばっかりだけど!! でも」
言葉を止めた少年に、意図もなく振り返ってしまう。
少年はまだオレを見つめていて、何故か泣きそうな顔を見せていた。


「本当に、あったかいんです」


その言葉の意味を理解するには、今はどうにも都合が悪くて。
オレはそれを断ち切る意味でも踵を返し、今度こそ振り返らずに歩き出す。
「あ、あと、あの!!」
それでもなお言葉を伝えようとする少年から去るべく、走る寸前。
「おかえりなさい!!」
怒鳴るように告げられた言葉に、堪らなくなった。
逃げるように最速の速度で走り出すオレの姿は、きっと少年からは消えたように見えただろう。
だから、当然、その直後に返した言葉は聞こえていないはずだ。


「ただいま」
湿った声で聞き取りにくいそれ。
真っ暗闇の中、小さく、けれど確かにオレに輝きを見せた星を、見つけてしまった瞬間だった。



******



「ふー。終わった。やっと寝れるー」
ふわぁぁと大きなあくびと伸びを見せるイルカさんの声に、遠い過去から今へと意識が戻る。
結局お茶は一口しか飲んでいない。しかも、どれだけ夢想していたのか、手のひらに感じていた熱はすでに温度を失っていた。
「……カカシさん、先に寝ててよかったんですよ? 明日、早いんでしょう?」
イルカさんはオレを真っすぐに見つめて心配してくれる。
その優しさは、彼の美徳だろう。だけれど、オレにとってはひどく切ないものだ。
零れだしそうになる心の声を聞きたくなくて、オレはイルカさんの手を取り、首を振る。
「いいの。一緒に寝るのが猫飼う醍醐味でショ?」
本音を冗談で紛らわせて、ベッドに誘う。
そういう意味でイルカさんのことは思っているのに、臆病なオレは猫と寝るのだと自分とイルカさんを騙し続ける。


二人で寝ても余りあるほどの大きなベッドに、イルカさんを誘って一緒に布団にくるまる。
今がまだ寒い時期で良かったとも思う。
イルカさんを猫として扱っている現状では、求めていても何か理由がなければこうして腕の中に囲うことはできない。
今日もイルカさんの首の下に腕を差し入れ、肩口に頭を乗せるようにしてぎゅっと抱き着く。
もぞもぞとしばらくはイルカさんは身動きするけれど、自分のお気に入りの場所があるのか、位置が定まるなり力を抜いてオレに身を任せてくれる。
そのことが例えようもなく嬉しい。
イルカさんにオレの存在が許されていることを感じる一瞬が今は励みになる。


「……イルカさんはオレの猫なんだから、他の人に愛想振りまかないでーよ」
それでも胸の中にいつもある不安がぽろりと声に出て、一瞬ひやりとした。
そもそも猫になるとは言っていないと、この家から去られたらどうしようと更なる不安に襲われ始めた時、小さく息を吐かれた。
それはどこか呆れたように、でも、とっても軽い感じで。


「いつ言おうか悩んでましたけど、いい機会なので言っときますね。俺的に、カカシさんの猫になったつもりは毛頭ありませんよ」
まさかの発言に、イルカさんの顔をガン見してしまう。
けれど残念なことに、密着したこの態勢ではイルカさんの頭しか見えない。
得られる情報が少なくて、うろたえているオレに、イルカさんは続けて言う。
「まぁ、あのびっくり仰天な手を回しまくった感のある譲渡会を経て、ここに俺が住み着いたもんだから、カカシさんは俺がペット的なものになったのを了承したのだと勘違いしてんだろうなぁとは思っていましたが、俺は違います。あのときは猫耳尻尾がついていましたが、今は、正真正銘の人間のうみのイルカです。うみのイルカが己の意思でカカシさんと一緒に暮らすことを望んだので、ここにいるのです」
重ねて飛び出てきた、自分にとって都合のいい言葉に混乱してきた。
夢? これは夢か?
何て贅沢な夢を見ているだろうか。いっそこのまま目が覚めなければいいのにと、腕の中にいるイルカさんを抱きしめて願っていれば、イルカさんがくつくつと体を揺らしながらオレの背中を叩いてくる。


「ちょっと、もう。夢じゃないですから。話しますから。あんたが不安に思っていたことをたぶん解決できる話をしますから、ちゃんと聞いてくださいってば」
宥められるように叩かれて、ほんの少し冷静さを取り戻す。
オレが落ち着いたことを見計らい、イルカさんは静かに語りだした。


「昔話になりますけど、関係することだからちゃんと聞いてくださいよ。俺ね、小さいころから新雪を踏むのが大好きだったんです」
新雪。
思わぬ言葉に、黙り込む。
気分が落ち込んだオレに気付いたのか、イルカさんはぽんぽんとオレの背中を叩きつつ話を続けた。
「真っ白い何も跡がついていない中に俺の足跡だけ残ると、達成感というか、征服感というか、子供心をくすぐられたんですよ。で、年を取ってからもそれが止められなくて、暇を見つけては新雪見つけて楽しんでしました。そんで、ある時、とっておきの秘密の小道を見つけたんですよ。木の葉の里内の森に続く道から少し離れた小道。そこはいつ行っても真っ新で、通りかかる度に俺、そこ踏んでいたんですよね」
イルカさんの言葉に、一瞬ひやりとしたものが走る。そこって。
イルカさんもオレの考えていることが分かったのか、悪戯が成功したような悪ガキみたくケタケタと笑って、白状した。
「あそこ、暗部の通り道だったんですってね。知らなかったとはいえ、無謀なことをしてました。後から三代目に目くじら立てて怒られて、二度と行くなと厳命されました」
イルカさんの言葉に、オレはむくれる。やっぱりイルカさんはオレ以外にもああいうことをしていたのだろう。返り血塗れの暗部に声を掛けるイルカさんだ。それはもう、オレ以外の暗部にもその優しさを駄々洩れさせていたに違いない。


ぶーたれるオレの気も知らないでイルカさんは言う。
「まぁ、話は三代目に禁止される前のことになるんですけど。ある時、その秘密の小道の新雪がことごとく踏まれている現場に遭遇しましてね。俺、なんだかすっごく悔しくなって、それよりも先に踏んでやろうと朝に昼に夜に。……特に夜な夜な徘徊していた時期がありました」
「夜な夜な!?」
「はい、夜な夜な」
何て危険極まりないことをするのだろうか。
夜なんて、任務帰りの気が立った暗部と遭遇してもおかしくない時間帯だ。
三代目に禁止されて良かったと遅れながらに鼓動を早まらせていれば、イルカさんは小さくため息を吐いた。
「それでも先を越されましてね。こりゃ、相手は複数だなと俺より先につけられた足跡を観察するようになって、とある足跡が異様に気になったんですよ」
「……足跡が?」
「はい、足跡が」
おかしなところに注目するなぁと思うオレに、イルカさんは思い出すように語る。
「ほかの足跡よりも少し小さくて、華奢で。猫背の癖があるのか、妙に前に突っ張るような動きしてるんですよね。それと極めつけが、その足跡だけ赤かった」
しんみりと漏らされた言葉に、息が止まりそうになった。
あの頃、何もかも面倒で仲間内からも苦情が出るほどに、任務後の後始末を投げやりにしていた。雪の上に滴るほどの血を残して歩く酔狂な奴は、オレしかいない。


「俺ね、一度だけその赤い足跡が一つだけ新雪の上に残っていたものを見ました。気だるい足取りで、それでも真っすぐ、真っすぐに前に進む足跡を見て、胸が衝かれました。ひどく悲しくて、ひどく尊くて、俺、いつの間にか泣いちまってた。馬鹿みたいにボロボロ泣いてました」
イルカさんの言葉を黙って聞いた。いや、黙ってないと余計なものが溢れ出そうで口を閉ざした。


イルカさんは言う。
そこから自分の目的が変わったと。
新雪をいかに先に踏むかではなく、その赤い足跡の人の痕跡を見るために通ったと。
もうその頃には、この道は訳ありの道だということを薄々分かっていたが、通うことを止められなかった。
後半部分になると、救急箱をいつも持参していたと笑った。
もしそれが返り血じゃなく怪我をしていた血だったら恐くて、持てざるを得なかったと複雑そうに笑みを漏らした。


「で、あるとき、真新しい跡を見つけたんですよ。俺、後先考えず夢中に追いかけて追いついて、初めてその人と対面しました。一面積もった雪に負けないほど白くて儚くて、それと同時に真っ赤で鮮烈で。俺、浮かれちゃってたんでしょうね。不用意な言葉漏らして反感買って、おまけに慰めにさえならなかった。……完膚なきまでに打ちのめされた気分でした」
違う。
違うよ、違うんだ、イルカさん。オレだって、オレだってあのとき。
胸に秘めた思いが荒れ狂う。口に出すためには息を吸わなくてはいけなくて、でもその瞬間、決壊しそうで。
オレがオレの事情でこんがらがっているのを尻目に、イルカさんは続けた。
「だから、俺じゃ無理だけどって猫飼えばいいってその人に勧めたんです。寂しそうに、寒そうに凍えるあなたをきっと温めてくれるから、寄り添ってもらえば寂しくなくなるって勧めたんです。そうしたら」
突如言葉を切ったイルカさんがオレの顔を両手で捕まえて、伸びるようにしてオレと顔を突き合わせる。


「十数年後に、俺という黒猫をご所望してくださったみたいで」
くしゃりと笑ってイルカさんは、きっと情けない顔をしているオレを見た。
息を一つ吐いて、また吸って。
確かめるように呼吸を繰り返すオレを黙って待ってくれているイルカさんにようやく言葉を紡ぐ。
「……気付いてたの?」
遠い昔。一度きり邂逅しただけの、危険極まりない人物がオレだと、イルカさんは気付いていた。
何と言っていいか分からず、後の言葉が続かない。
わななくように震える唇が無様で噛みしめれば、イルカさんの指が唇を撫でた。
「噛まないでくださいよ。……情けないことに、気付いたのはこの家に来てからです。何といっても、俺が見た暗部の犬面の人は頭から白いコート被ってて、唯一その人だと認識出来たのは、二言三言の声と、面から覗く両目だけでしたもんで」
じっとオレの両目を見つめるイルカさんの瞳が潤む。
「足跡が気になって、その歩き方の癖が気になって、あんたの目を間近に見た瞬間、もう落ちちまってた。……俺の初恋の人なんですよ、あんた」
「……え」
ぽんと放たれた言葉に、目が見開く。
イルカさんは何とも言えない表情を浮かべてオレを見た後、恥じるように下へと視線を落とす。
「いや、分かりますよ。その、あり得ないって、お、俺だって他の奴が言ったら嘘だろって絶対言うし、でも、あり得ないことが起きちまった身としては何て言っていいか。だから、その!!」
ぐっと奥歯を噛みしめ、顔を真っ赤に赤らめたイルカさんは挑むようにオレを睨みつける。
「あんたしか、接触してませんから!! 俺はあんただから声を掛けたし、何でもいいから助けになりたかった! あんたのことが好きだからだって、そこはちゃんと分かれ!!」
ふんと大きく鼻息を吐いたイルカさんの言葉に、じわじわとその意味が浸透してくる。


「……誰彼かまわず優しい言葉掛けてたんじゃないの?」
「掛けません。だいたい暗部に声掛けようなんて危ない真似するほど命粗末にしてません」
「本当に?」
「本当ですってば。そもそもあんた、俺のことを博愛主義が極まった聖人みたいに見ている節がありますけど、全くそんなことありませんから。俺が手を掛けるのは、子供たちとあんたくらいですよ」
むぅっと不満げに口を曲げたイルカさんを見て、ふいに心が軽くなる。
優しいから、イルカさんは誰隔てなく手を差し伸べる人だとずっと思っていた。
だから、オレに手を伸ばした。だから、オレを見てくれた。
そう、ずっと思い込んでいた。
だけど。


「……オレだから、声掛けてくれたの?」
「そうですよ」
オレの問いに速攻で答えてくれる。
「オレだから、追いかけてくれた?」
「……はい」
今度は少し照れ臭そうに。
「オレだから、救急箱用意して、心配して、果てには体までゆる」
「うあぁぁぁぁ! そうだって言ってんだろう!! そ、そういうことは蒸し返さないのが武士の情けでしょうが!!」
イルカさん的に恥ずかしかったのか、オレの口を手で塞いでくる。
真っ赤な顔をして涙目でオレを睨むイルカさんはただただ可愛くて、とても愛おしかった。


口を塞ぐ手を捕まえて、その内側に唇を寄せる。
ちゅっと故意にリップ音を立てれば、イルカさんは驚いたように手を退けようとしたけどそれを阻む。
ちゅっちゅっと捕まえた手の指先に口づけを落とし、口を開けて軽く噛んでやった。
ひっと驚きの声をあげるイルカさんを真正面に見て、オレは笑う。


「イルカさん、好きだよ。アンタの了承を取らないで、黒猫として強引に引き取るほど、オレはアンタにイカレてる」
自分の必死なまでの足掻きを思い出し、笑いがこみ上げてくる。
ふふふっと抑えきれなくて笑いを漏らせば、イルカさんは顔を真っ赤にしたままオレを睨んだ。
「カカシさん、好きですよ。強引に飼い主になった不気味な人が初恋の人だと気付いた瞬間、あんたのこと惚れさそうと画策するくらい、俺だってあんたにイカレてる」
じっとお互いを見つめ合って、次の瞬間、どちらともなく笑い、抱き合った。


「オレたち、初めから両想いだったんでーすね」
背中に回る確かな腕の感触と腕の中にある温もりを味わいながら漏らせば、イルカさんは「へ」と間の抜けた声をあげる。
そういえば言ってなかったなぁと考えながら、ぐるりと体を回して、イルカさんを体の下へ組み敷く。
あのときと同じ状況になぞらえて、体を離して、イルカさんを見下ろした。


イルカさんは目を瞬きしながらオレを見上げていて、オレはあのとき触れなかった頬へと手を伸ばす。
本当は触れたかった。
イルカさんの許しをもって、その熱を味わいたかった。あなたへ、溺れたかった。
「オレもね、恋をしたーよ。オレを真っすぐ見つめてくれたその目に。どうしようもないオレを許してくれたアンタに。……でも、アンタの手を握り返すにはオレは弱くて、意気地なしだった」
手のひら全体で熱を覚えこむように触れる。頬から首筋へ、時折、親指で触れられる場所を擽りながら。
イルカさんはオレの手を目を細めて受け入れてくれるばかりか、擦り寄るように懐いてくれる。まるで猫みたいに。
「……今だから手を伸ばしてくれたんですか?」
ちょっとからかうように問いかけてきたから、オレは笑って否定する。
「本当はもう少し前から狙ってたーの。里に帰る度、アンタの居場所つきとめて、忍犬に張り込みさせたり、様子を見たり。いつ声を掛けようか、いつ知り合いになろうかって窺ってたんだけど、どうにも、ね。子供たちを介して知り合えた時にやっと一歩を踏み出せたと思ったんだけど、言葉が出なかった」
何度も何度も視界に収めて、同じ空気を吸っている今に感謝して、一歩踏み出しても誘いの言葉が出てくれなかった。
怪訝そうな表情でオレを見てくれるだけで嬉しくて、でもじれったくて苦しかった。
「意気地なしな自分に嫌気さしてーね。もう、なりふり構ってられなくて外堀から埋めちゃった。……どうしようもない男でショ?」
肩を竦めて自嘲すれば、イルカさんは目を細める。
いつもは隠している写輪眼が埋め込まれた左目の横を指先でなぞりながらぼやいた。
「カカシさんの両目を見る機会に恵まれてたら、俺から行ってたんですけどね。まぁ、あんたの両目を見ることは死と同義語だって言われてたから難しかったんでしょうけど」
「イルカさんが見たいって言ったら即見せてたーよ?」
「無茶言わんでくださいよ。俺はしがない中忍ですよ? 上官に向かってそんなこと言えるわけないでしょうが。……だからこそ、あんたの強引な手も必要だったっていうことでいいじゃないですか。結果オーライってやつですよ」
くすくす笑って慰めてくれるイルカさんが甘くて、とろけてしまいそうだ。
堪らなくなって額に口づけを落とせば、びくりと体が震えて固まってしまった。
さきほどから接触する度に過剰な反応を示すイルカさんが不思議で、まじまじと見れば、イルカさんは口を真一文字に食い占めて顔を真っ赤にしている。
極度の緊張と照れが入り混じった様子を感じ取って首を傾げれば、イルカさんは唸るように言葉を発した。


「あ、あのですね! お、俺もその気持ちが通じ合って、そういうことするのは吝かではないんですけども、過去の少年時代ならいざ知らず、ごつくなった今は俺がやるべきなのは重々承知しておりますが、初恋の人と思いが通じた嬉しさとか喜びとかで胸がいっぱいで体的にもう一杯一杯でお相手することが困難というか、男はデリケートな生き物なので、今夜はこのまま思いを噛みしめて眠りにつくのが吉といいましょうか!!」
ぷるぷる震えながら必死に思いを伝えるイルカさんに、オレは瞬き一つして、次の瞬間破顔した。
イルカさんも男なんだーね。でも、それは少し思い違いがあるというか。
「ねぇ、イルカさん。ネコってね、もう一つ意味があるの知ってる?」
にこりと笑ってオレは水を向ける。
あくまでイルカさんを怯えさせないように、外面の良い、とてもいい笑顔を意識して作る。
オレの笑みに少し肩の力が抜けるイルカさんを見下ろしながら、ほんのりと胸に灯る加虐心にそそのかされ、囁くように教えてあげた。
「同性同士の行為において、受け身な人を指す用語なんだーよね。ねぇ、オレの言っている意味分かる?」
うっそりと笑えば、イルカさんは目を真ん丸に開いて、口をぱくぱく開閉し始めた。うん、その通り、察しがいいね、イルカさん。


逃げられないよう、さりげなく胴体に跨り動きを封じ、意思を持ってイルカさんの体に手を這わせる。
オレの手一つで早くもびくびくと身じろぐ敏感な体を、内心舌なめずりしながら、体を倒して顔を寄せた。
ちゅっと軽く唇に吸い付けば、それこそ目の玉が落ちんばかりに見開く可愛いイルカさんへ言ってやる。


「そういう意味でオレだけの猫になってね?」


「いや、ちょま、心の準備というか、そういう意味で猫になったわけでもなぁぁあああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!??」



猫の日から、12日後。
猫から人になったイルカさんは、別の意味でオレのネコにもなってくれた。







おわり