【コラム】城田憲子のフィギュアの世界 | 浅田真央さん&浅田舞さん 応援ブログ

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日本のメダリストのコーチたち~佐藤夫妻〈3〉

$浅田真央さん&浅田舞さん 応援ブログ 信夫&久美子コーチが初めて育てた世界選手権メダリスト、佐藤有香。実の娘だからこその難しさ、葛藤、衝突。そして栄冠を手に入れた時の、すべてを上回る大きな喜び…。有香さんとともに佐藤夫妻も、多くのことを学びながら歩んで来た。

 城田「そうやって先生たちの指導を受けて、有香ちゃんもオリンピックを目指す選手になって。出場したのは92年のアルベールビル大会と94年のリレハンメル大会だったけれど、さかのぼれば88年のカルガリー大会も狙える位置にいたのよね。でもその年の全日本では、フリーで何度も転んでしまって…」

 久美子氏「そうそう(笑)。コンパルソリーとSPで有香は2番にいたのに、フリーでメタメタになって3番になっちゃったの!」

 城田「それで結局、カルガリーはみどりちゃんと八木沼純子が行くことになった」

 久美子氏「あの時、お父さんとも話したんだけれど、私たち親にも執念がなかったのよね…。それは反省したのよ。もうちょっと『オリンピック行かせたい!』って気持ちを持っていればよかったな、と」

 城田「連盟も有香ちゃんに期待してた。でも全日本で失敗してしまって、『しょうがないね、次もあるだろう。これで悔しい思いをして、きっとまた頑張るでしょう』ってことになって」

 久美子氏「でもカルガリーの年は、あれはあれで有香にとっては良かったと思ってるの。あの全日本があったからこそ、次のアルバールビルは頑張ったんだよね」

 信夫氏「うん、あの年と次の年。カルガリーの時に失敗して五輪に出られなくて、その翌年もまた世界選手権に行けなかった。89年は女子が3人いけるはずだったのに、全日本でまた逆転されてね…。あの頃の経験がなかったら、たぶん今の有香はなかったと思う。彼女はまあ、それまでがとってもラッキーだったから。これは親の責任だけれど、きちんと教え始めてからも、『有香は選手なんかにしなくてもいいんだ』って気持ちがどこかに残ってた。だから『スポーツに取り組む姿勢』というものを全然教えて来なかったんです。それでも、なんだか知らないうちに東日本に出られるようになって、全日本にもギリギリで残って…。そんなことの繰り返しできてしまった。ラッキーに任せて進んで行くばかりで、きちんとした仕込みも足りずにオリンピックを目指すところまで来て。そのツケが、カルガリーの頃は技術よりも精神面で出てしまったね。そこから取り返すために、みんなに追いついていくために、有香は本当に苦労したんだ」

 城田「そこから先の有香ちゃんは、先生にかなり鍛えられたのよね。練習帰りに車から途中で降ろされて、家まで走らされてるって聞いて、『有香ちゃんがかわいそうだよ、誰か信夫先生を止めて!』なんて言われるほど(笑)」

 久美子氏「今でいう、クールダウンよね。練習が終わると、私たちは車で先に家に着いて、お父さんが自転車で有香を迎えに行くの。その時、自転車無灯火でおまわりさんに引っかかって!」

 信夫氏「何度も何度も捕まったんだよ(笑)。灯りはちゃんとつけてたはずなのに、なぜか走ってる間にフッと消えちゃうんだ」

 久美子氏「女の子の後ろにぴったりついて、おじさんが自転車乗ってたらねえ(笑)」

 城田「そりゃあ、怪しまれる(笑)」

 久美子「有香はお父さんが捕まっても、知らん顔してどんどん走っていくんですって。『この人お父さんです』とかなんとか、言ってあげたらいいのにねえ(笑)。そんなこと、何遍もあったのよね」

 城田「それでもやっぱり、娘は可愛いでしょう?」

 信夫氏「いや、あの頃の僕は、厳しいコーチだった」

 城田「そうか…。私も、本気になってからの信夫先生は本当に厳しいな、と思ってた。それに対してカナダのピーターはとっても優しくて温厚、かつ物静か。有香ちゃんを教える2人、すごく対照的だと思ったわね。信夫先生は、やると決めたからには厳しくなる人なんだな、と。そしてアルベールビル、リレハンメルと有香ちゃんは出場して、リレハンメル後の94年世界選手権で、優勝!」

 久美子氏「あの時の有香はラッキーだったのよね、お父さん」

 城田「そんなことない。もちろん日本で開催(幕張)したことの強みはあるし、周りも色々と頑張ったけれど、ちゃんと滑ったのは有香ちゃん本人。あの大会、私は事務局長で色々と仕事があって、有香ちゃんのフリーはカーテンの横からやっと見られたんですよ。『おめでとう!』もリンクの向こうサイドから走って行って、やっと言えた。そしたら有香ちゃん、表彰式の花束を私にくれたの! 『だめよ、信夫先生かママにあげなくちゃ!』って言ったら、『いいの。私は城田さんに花束をあげたいんだ』って。フフフ…有香ちゃんのことは小さい時から知ってるし、ほとんど自分の子どもみたいなものよね。だからやっぱり世界の頂点に立った時にはうれしかった」

 久美子氏「でも本当にラッキーだったのよ。みどりちゃんみたいに、チャンピオンになっても当然、みたいな選手とは違って」

 城田「有香ちゃんだって、あの年のステップシークエンスは今でもISUのお手本ビデオに残ってるのよ。曲のタイミングやビートにステップがピタッと合っていて。スケートはもう、氷に吸いつくよう。あのビデオはジャッジになると何度も見ることになるけれど、何度見てもやっぱり素晴らしいと思う」

 信夫氏「僕は本音を言えば…信じられなかった。こういうことってあるのか、と。でも5日くらい前から徐々に徐々に、こっちに向かって風が吹いていることは感じていて…あんな経験は、後にも先にもなかったな」

 城田「教え子、しかも我が子が世界チャンピオンになるって、それは不思議な気持ちよね」

 久美子氏「でもね、あの時の有香自身は無欲だったのよね」

 信夫氏「うん。やっぱりラッキーで全日本の上まで来たのはいいけれど、そこからもう、本格的にどん底に突き落とされたんです。さあ、そこから這い上がるか、這い上がれないか。本当に地獄の底を見せつけられて、そこからもう1回立ち上がったわけだから…。僕から見ても、あの年齢の女の子がよくぞそこまで悟りを開いたな、と思う。結局『無欲』という境地に、自分で達するしかなかったんでしょうね」

 久美子氏「あの世界選手権の間は、練習からずっといい集中ができてたのよね。気持ちがキリキリしてるわけでもなく、なんだか突き抜けてるようだった。それであの試合では、有香の気持ちと技術、全部がピタッと合ったのよ」

 信夫氏「僕が試合の直前に『おい、有香。大丈夫か?』って聞いたら、『』何心配してんのよ、大丈夫に決まってんじゃないの!』なんて言われた(笑)」

 久美子氏「だいたい試合の前に、幕張駅前のカラオケに行って遊んでたんだもんね!」

 城田「そうそう、私も後から聞いて驚いた。選手たち、試合前にリラックスするためにカラオケ行ってたって」

 信夫氏「悪いのがいっぱいいて(笑)、盛りあがってたらしい」

 久美子氏「私たちもあの頃には、試合の時の選手たちにうるさく言わなくなってたの。有香にも、他の選手たちにも好きなようにさせてた。それはカルガリーの次の年、全日本の前の有香をホテルに閉じ込めたことがあったから。そうしたら一人で考え過ぎて、試合でボロボロになってしまった…。これはちょっと失敗だったなあ、と」

 城田「有香ちゃんが苦しんでた頃、先生たちも色々な経験を積んでたのね」

 久美子氏「うん、だからプライベートのことはもういいや、と。その変わり、日々の練習を毎日きちっと、とにかく集中してやらせることにした。練習さえすれば、後は何をしてもいいから、と。それからはとても良かったわね。日ごろの練習だけをコンスタントに―その方法で、有香は最後までずっとうまくいった。私たちもそれなりに学んだわけです(笑)」

 信夫氏「こちらも大人になったんですよ(笑)」

 城田「そうやって、初めての世界チャンピオンを誕生させた。しかもそれが有香ちゃんだったことは、先生としても親としてもうれしかったでしょう。そしてその経験が、今につながるわけね」

 信夫氏「実はその幕張の世界選手権は、(小塚)崇彦が初めて見たちゃんとした試合なんだよ。そして『僕もスケートやりたい!』って言いだした」

 城田「幕張で!」

 信夫氏「そう、彼のお父さん(嗣彦氏)が日本のチームリーダーをしていてね。それで息子を会場に連れてきていて」

 久美子氏「そこから崇彦のスケートも始まったのよ」

 信夫氏「それまでも滑ってはいたけれど、あの試合を見て、『自分も選手になりたい』って言いだしたんだ」

 城田「そうなんだ…。そんな子どもたちも、きっと多いんでしょうね」

 久美子氏「だから大事なんですよ。日本で大きな大会を開催することは。裏方の人は本当に大変だと思うけれど、でも確かに意義のあることなんですよ」(つづく)
(2012年3月30日00時36分 スポーツ報知)
http://hochi.yomiuri.co.jp/column/shirota/news/20120330-OHT1T00023.htm