虎ノ門事件、100年。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

有栖川まおの愛が止まらないR

「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 皇太子であった裕仁親王(後の昭和天皇)が、東京の虎ノ門で難波大助に狙撃された事件から、本日で丁度100年となります。

 犯人の難波大助は、山口8区の衆議院議員の難波作之進の四男で、幼い頃から尊王思想を叩き込まれてきました。しかし、中学5年生(現在の高校2年生)の時に、帰省した陸軍大臣の田中義一を迎えるというので、みぞれの降りしきる中強制的に沿道に並ばされ、その所為で親友が肺炎に倒れてしまい、それに対して教師が「無礼だ」と叱った事により、思想的な変化が芽生えました。その際、教師を2、3名ぶち倒したとの事です…。

 その後上京した大助は、貧民街の実情を目の当たりにした事や、自らも日雇労働者として働いているうちに、尊王思想とは真逆共産主義へと傾倒して行きました。山口への帰省の際にも、父の作之進と意見を衝突させていたとの事です。そして彼は、その共産主義者としての怒りを、皇室へのテロという形で発散させる事にしました。標的には、脳病を患っていた大正天皇よりも、その摂政として実務を行なっていた皇太子の裕仁親王を選ぶ事にしました…。

 帰省の時に、父作之進が使用していたステッキ散弾銃(元々は伊藤博文が所有していた物でした)を入手した大助は、この銃を使って裕仁親王を狙撃する事にし、虎ノ門にて乗車中の裕仁親王を狙いましたが、その弾は逸れて、同乗していた侍従長が軽傷を負うに留まり、その直後に大助は激昂した群衆に袋叩きにされ、取り押さえられました。

 当時、皇室に対して危害を加える大逆罪死刑でしたが、政府や検察は何とか恩赦を以て死一等を減じようとしました。しかし、大助は最終陳述で「皇室の安泰は支配階級の共産主義者に対する態度に掛かっている」などと述べた為に、死刑を以て臨むしか無くなり、翌年の11月15日に死刑を執行されました。

 この事件の一報を聞いた父の作之進は、その日のうちに衆議院議員を辞職し、山口の実家に籠って自ら閉門蟄居を行ない、半年後に餓死してしまいました。その難波家は今も現存するのですが、近所の住民は「難波家を見ると目が汚れる」と言って近寄らなくなり、主を失った難波家は荒れ果てるに任せた状態となってしまいました…。

 そして、作之進亡き後の選挙の地盤は、あの松岡洋右が引き継ぐ事になり、戦後は岸信介佐藤栄作が継ぐなど、昭和史を動かす遠因となりました。昨年、その岸信介の孫である安倍晋三元首相が射殺されるという最期となってしまったのも、何かの因縁なのでしょうか…。