「核戦争に勝者無し」。 | 有栖川まおの愛が止まらないR

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「有栖川まお」のガンダムで倉木麻衣な日々の出来事を綴ったブログです。

 ロシアによるウクライナ侵攻において、プーチンが「核の使用も辞さない」と宣言し、また、アメリカのペロシ下院議長が台湾を訪問して蔡英文総統と会談した事を受けて、中共が脅しの為に発射したミサイルの一部が日本のEEZ内にも落下したりと、再び核の使用の危険性が高まってきている中で迎えた、77回目の広島原爆の日。日本は「唯一の被爆国」として、広島出身の岸田首相の下、世界に平和を訴え続けていますが、その日本に原爆を投下したアメリカもまた、「唯一の核使用国」としての十字架を背負い続ける事になったのでした…。

 アインシュタインと共に、ルーズベルト大統領へ核兵器の開発を請願する手紙を出した物理学者レオ・シラード。しかし、それはあくまでも、亡命ユダヤ人としての、ナチスドイツへの対抗手段としての物でした。そのナチスドイツも降伏した後、シラードはルーズベルトの後任のトルーマン大統領に、日本への原爆投下に反対する請願書を宛てたのですが、それを握りつぶしたのが、マンハッタン計画の責任者であった米陸軍中将のレズリー・グローヴスでした。それは、せっかく巨費を投じて開発した原爆を使用せずにはいられないという、軍人特有の危険な好奇心による物でした。トルーマンは、そのグローヴスら軍部から「投下目標は軍事拠点とする」と言われた事を信じ込んでしまって、原爆投下直後の広島の写真を見せられた際、その大統領としての責任痛感するハメになりました。しかし、対外的には「原爆投下は戦争終結を早める為だった」と言い続けなければならず、皮肉にも、現在に至るまで「戦争を早期終結に導きアメリカ将兵の命を救った大統領」との評価を受ける事になりました。

 一方、軍内部からも「この原爆投下は不必要な物だった」という意見が相次ぎました。マッカーサーを始め、アイゼンハワー、「日本語は地獄だけで使われるようになるだろう」とまで語っていたハルゼー、そして日本中の都市をB-29による空襲で焼け野原にして「鬼畜ルメイ」とまで呼ばれたカーチス・ルメイでさえも、原爆の投下が無くとも日本は遅かれ早かれ降伏していた、と述べています。海軍元帥のウィリアム・リーヒに至っては、回想録において「この新兵器を爆弾、と呼ぶ事は誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である」とまで記しています。それ程までに、核兵器による瞬間的な爆風や熱線以上に、放射線による長期的な被害が、被爆した人々の身体を後々まで蝕んでいたのでした。

 以後、自らの行為に恐怖したアメリカは、核兵器を使用したい局面になっても使用できないというジレンマに陥り、朝鮮戦争では、マッカーサーが核の使用を進言したもののトルーマンに更迭されて痛み分けに終わり、ベトナム戦争では、当時カリフォルニア州知事だったレーガン大統領が「ベトナムを焼き払って駐車場にすればいい」とまで豪語していたものの、無念の撤退に至ったのでした…。