漫才の歴史と未来

漫才の歴史と未来

漫才、お笑いファンとして漫才の歴史とこれからの未来を紐解いていきたいと思います。ネットの情報が主なので、間違った情報等あるかと思いますが、お気軽にご指摘ください。主に上方が中心ですが、浅草の漫才にも触れたいと思います。

Amebaでブログを始めよう!

こんにちは!

masakiです!

12月も1/3が終わり、一気にお正月まで加速していきそうですね。

年末年始は漫才番組が多くなるのですごく楽しみです!

 

さてさて皆さん、前回は平安時代からの行事“萬歳”の歴史を紐解きましたが、今回はぐっと現在の「漫才」に近づきますよ!前回の“萬歳”は起源、そして今回は「万才」。これは現在の漫才の元になっています。今回からはこれらの分野を切り開いたパイオニア的存在の方もばんばん紹介していくので注目ですよ!かなり長くなります(笑) それでは本番!

 

 

明治時代には大阪の寄席で「万才」が行われていました。この「万才」は前回のブログ「漫才」の始まり Vol.1 「萬歳」で書いた“萬歳”のなかの尾張萬歳の“三曲万歳”というものをベースにしています。これは胡弓・鼓・三味線を使った賑やかな萬歳(万歳)でした。こういった楽器を使った万歳を「音曲万歳」といいます。このような芸風は、現在でも「かしまし娘」や「横山ホットブラザーズ」、そして“歌ネタ”、“リズムネタ”にも通じているのではないでしょうか。余談ですが、今年「横山ホットブラザーズ」さんが大阪市の無形文化財に指定されましたね。本当におめでとうございます!「お~ま~え~は~ア~ホ~か~」のギャグは知らない人がいないのではないでしょうか。こういった伝説の芸人さんをご紹介するコーナーも持ちたいですね。

 

さて、話がそれてしまいましたが、上方漫才の創始期に芸人さんがこの音曲万歳を本場の尾張で習ったのが「万才」の始まりですね。この“万才”のパイオニア的存在の玉子屋円辰(たまごや えんたつ)、そして砂川捨丸・中村春代のコンビを少しご紹介。

 

玉子屋円辰さんは、1865年に現在の大阪府東大阪市で生まれました。実家は農家。成人して鶏卵の行商になります。ほんとの“玉子屋さん”だったんですね。河内音頭などを歌いながら売る手法で評判でした。その後1897年ごろにプロの芸人に転向し、尾張萬歳の分流、伊六萬歳に入門。そして三曲萬歳を元にした、2人組の形式を作り出したといわれています。ものすごく多くのお弟子さんがおられ、すこしご紹介します。現在、吉本新喜劇で活躍されている若井みどりさんの、師匠で兄弟コンビの若井はんじ・けんじさんのさらに師匠の「荒川千成」さん。“上方漫才の宝”と称される僕も大好きな夢路いとし・喜味こいしさん、“ぼやき漫才”で有名な人生幸朗・生恵幸子の幸朗さんの師匠の「荒川芳丸」さん。などなど。まだたくさん居られますが(初代ミスワカナさんの師匠など)、断腸の思いで割愛。とにかく現在の「漫才」に多大な影響を与えた人物です。現在はひ孫さんが「2代目玉子屋円辰」を襲名されています。

 

そして砂川捨丸・中村春代さん。1923年にコンビ結成。萬歳の形を残しつつ、それまでにない要素を演じ続けたパイオニアです。ご夫婦ではなかったようです。春代さんは1897年に神戸生まれ、第1回ミス神戸に選ばれたほどの美人。そして捨丸さん。1890年に現在の大阪府摂津市に生まれました。江州音頭の一座に弟子入りし、1899年に初舞台。1905年には師匠のもとを離れています。若いころから萬歳の改良に取り組み、現在の主流である“コンビ”でたくさんの「万才興行」を行って、万才を大劇場へと進出させた人物です。戦後にアメリカ巡業にいった際に税関で鼓や帯などを質問された時に「ジャパン・チャップリン」と答え、係員を納得させた事から「和製チャップリン」の異名を持ちました。じゃりン子チエにも捨丸さんがモデルの人物が出てくるそうです。お弟子さんたちへの指導も積極的に行って、この方も現在の「漫才」に多大な影響を与えました。

 

ちなみに円辰さんと太鼓敲きとのやりとりが「ボケとツッコミ」の始まりと言われています。何て言ったのか気になりますね。こういった方々が「万才」の基礎を作り上げたんですね。

この時代(大正中期)には楽器の音頭に合わせてネタをする「万才」が主流でした。次回はいよいよ「しゃべくり漫才」の登場です!お楽しみに!