「もうこりた」とワープロで打ったら「もう懲りた」と変換された。
私の知りたかった言葉【忘己利他】とは、
自分を忘れて他人のためにつくすこと
言葉のもつ意味を検索していたら瀬戸内寂聴さんの言葉をみつけた。
忘 己 利 他(もうこりた)
瀬戸内寂聴著
「忘己利他は慈悲の極みなり」 という言葉は、伝教大師最澄の「山家学生式」という文章の中にあります。
自分を忘れ、他者のためにその人が幸福になるよう尽くすのは、慈悲心の最高のものという意味です。
日本に伝わって大乗仏教の根本思想がこの忘己利他です。
ローマ法王のヨハネ.パウロ二世が、初めて日本に来られた時、東京にあるローマ法王庁大使館で、仏教・神道はじめ、日本の各宗教の代表者が集まり、懇談会が開かれました。 その席で、ローマ法王は、「いまから千二百年ほど前に現れた偉大なる日本の宗教者、伝教大師最澄は、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり、といっておられる。これこそが、世界宗教の一番大切な理念であり、宗教行為であるから、世界中の宗教者がこれを用いようではありませんか」と挨拶されました。その場に同席しておられたその時の天台座主山田恵諦猊下(えたいげいか)は、びっくりなさったそうです。
私はその時のことを直接、恵諦お座主さまのお口から伺ったことがあります。「まさか、忘己利他というわが天台宗の根本精神が、ローマ法王のお口からとびだされるとは予想もしなかったからね。あの時はほんとにびっくり仰天してしまった。私はこの時、改めて、世界に通ずる宗教の教えが比叡山にあることを強く誇らしく感じた」私
も、お座主さまの感動が乗り移ったように、全身が熱くなったのを覚えています。人間は自分が勝手にこの世に生まれてきたわけではなく、何か巨いなるもの、宇宙の生命を司るものから、この世に選ばれて送り出されていると思います。
何のために。それは、自分以外の他の何かの役に立つようにという使命を担っているのではないでしょうか。もちろん人間として生まれた以上、自分自身が幸福になる権利があります。それが人権というものです。自分に人権があり、人に傷つけられず幸福になる権利があるように、他者にもすべて同様の権利があります。幸福になるとは、自分ひとりが、衣食住が足り、好きな仕事ができ、自由で、家族もみな健康というだけのものでしょうか。自分の家さえ無事安泰なら、お向かいに寝たきりの老人がいようが、隣の御主人がリストラに遭おうが、裏の家のお嬢さんが、ある朝突然、交通事故で亡くなろうが、知ったことじゃないと、うそぶいていられるでしょうか。お向かいさんも両隣も、裏のお家も、みんな、平穏で無事にすぎていってこそ、安心で、ほんとうの幸せなのです。ひいては他の県も、他の国も同様です。今、共に生きている地球上のすべての人々が、飢えず、戦争にまきこまれず、子どもたちはすべて学校に通うことができ、虐待されず、すべての人の人権が守られている。そういう時がきたら、初めて自分という個人の幸福も完全なものになるのでしょう。
自分のことはさておき、他者の幸せをはかり、そのために無償の奉仕を惜しまないこと。その忘己利他の精神こそが仏教の極意で、平和の根本思想なのです。
どんなところでもさまざまな問題がある。
自分さえよければ
私だって苦労したんだから
しあわせになれないのはあの人のせい
誰もが一度や二度~~~思ったことがあると思う
私も何百回以上思った
もうこりたと言う言葉に出会って
自分は変化しようとしている
具体的に何がどのようにとは言えないけれど
先日、上司にあなたはひょうひょうとしているから
自分のために何かを成し遂げようとしているようにみえない
いつもだれかのために目の前にあることに神経を投入
人がどう思うかははおいておいてあなた自身にこだわりがないからだれとでもうまくやっていける
勉強も仕事も家庭もあなたらしくこなすことができると言われて嬉しかった
たくさんの人と出会ってその人から教わる行動・言葉を見て真似て
それを反復して継続して・・・まだまだだけど
目の前にあることへ一生懸命になり
オン・オフが瞬時に切り替わるようになった
思いは残さない
感動や嬉しさはメモにして大切にする
そんな習慣もいつもまにか身についた
職業的に離職の多いもんだいについて質問されたので
「私は今やるべきこと・自分のやるべきことを淡々とこなしていく。変えられることの環境にいることを最優先に考えると楽しいアイデアが浮かんでくる。離れていく人にはそれぞれの問題があるからその問題を決断する前に聴ける環境があって、一緒に目標に向かうことであったりあなたの力が必要であると認めてあげることが第一歩のような気がする」と伝えた
正解なんてない
言えるのは誰からその言葉を聴くかだけ
そんな気がする
ではでは・・・明日の昼まで働いてきます( ^^) _U~~