蝉の鳴き声が減ったような気がする。
ぼんやり、そんなことを思った。
「ねえ・・・・・・奈々実、やっぱ、こんなの無理だよ・・・・・・」
「先輩、そんなの言いっこなしです!先輩だから、お願いする決心がついたんです」
緑先輩とわたしの、早朝の秘密練習。
まだ誰も来ていない朝6時。
片手にティンパニのばちを握りしめ、もう片方でわたしの腕を掴みながら、緑先輩が眉をしかめた。
「こんな早朝から練習しないといけない事態にしてしまったこと、ほんとに申し訳なく思ってます・・・・・・でも、わたしにも、時間が・・・・・・ない、かもしれないんです」
こないだの事件以降も。
部活への行き帰りの道や、その他用事があって出かけたりすると。
尾行されている気配を、感じる。
できるだけひと気の多くて明るい道を通って帰るようにしている。
だけど・・・・・・
きもちわるい。
怖い。
だれか・・・・・・たすけて!
そう、心の中では叫びつづけてる。
「時間がないっていう理由は・・・・・・絶対、教えてはもらえないんだよね?その腕のことも・・・・・・実は凄く気になってるんだけどさ」
緑先輩が、ティンパニの上にばちを置いて、心配げな顔でわたしの方へ向き直る。
どうしよう・・・・・・
やっぱり、緑先輩には話しておかないといけないのかもしれない。
わたし、本来ならありえないようなこと、お願いしてるわけだし。
自分の担当パートではなく、他人の、しかもティンパニなんて重要なパートを、支部大会に間に合うように、わたしの代わりに叩けるようになっておいて欲しい、だなんて。
ほんっとに、ありえないことだ。
申し訳なさ過ぎる。
でも・・・・・・緑先輩なら、間に合う。
それ程の腕をもってることを、わたしは、知ってる。
緑先輩の担当パートは、今回コンクールには選抜されなかった1年生が、練習している。
選抜されなかった部員たちは、何もしないわけじゃない。
基礎練習が多めになるけれど、それ以外にも、コンクール曲の譜面を渡して。
パートを割り振って、技術向上を目指すことになっていた。
「誰かに・・・・・・つけられてるんです」
「・・・・・・えっっっ!?そ、それって、ストーカーとかなんじゃないの?け、警察は?親には、相談してるの?」
『真川奈津子を返せ』
『真川奈津子を、U響へ返せ』
『さもないと・・・・・・お前が最悪の状況になる』
思い出すと、背筋に寒気が走る。
「だいじょうぶ、です。親にはちゃんと話してるし、近々、いっしょに警察に相談しに行くんです。でも・・・・・・」
何かあったとき。
わたしに、何かあったとき、わたしが抜けた穴のせいで、みんなが支部大会へ行けなくなったら・・・・・・
真川さんが、全国大会へ行けなくなったら、真川さんのチャンスが・・・・・・
「真川さんが自由になるチャンスだけは、失くしたくないんです」
どうして。
どうして、ここまで一生懸命になれるのか、わからない。
でも。
わたしは、真川さんが好きだ。
秋に感じる好きとは、また違った、好き。
人として。
大切なことを、知っていて。
それを、わたしに、教えようとしてくれる人。
わたしの知らない世界を。
教えてくれる人。
握りしめた拳が、ふるえる。
それに、そっと、緑先輩の手が重なった。
「私も・・・・・・奈津子さんのこと、好きだよ。あんな指揮者、世界中探したって絶対ほかにいないよね。荒々しくて、すっごく凶暴で、かと思ったら、泣きそうになるくらい優しくて穏やかで、切ない。そんな指揮・・・・・・奈津子さんにしか、できない」
「・・・・・・はい。わたしも、そう思います。あんなに自己中で感情むき出しな指揮、はじめてです」
でも、あんなにひとりひとりのことを真っ直ぐに見つめて、合図をだしてくれたり。
うまく息ができなくてこわばったわたしといっしょに、大きくブレスしてくれたり。
そんな指揮も、はじめてです。
「でもね、奈々実?」
わたしの頭の上にぽんっと、緑先輩の手がのった。
わたしなんかより、もっと、丁寧で、力強くティンパニを叩く、この手が。
なぜ、選ばれなかったのか。
コンクールの担当パートを決めるとき、山田先輩の推薦で、あっという間にわたしがティンパニを叩くことに決まったけれど。
ほんとにこれで良かったのかって。
ずっと、思ってた。
「そんな奈津子さんのことも好きだけどね、奈々実が、恐いめにあってることも、ものすごく心配だよ?私は、奈津子さんと同じくらい、奈々実も大切な仲間だと思ってる。誰一人欠けるなんて、私は嫌だ。今のメンバーで、全国行って・・・・・・金賞、とりたい」
どうしよ・・・・・・泣けてくる。
ほんとは、親にも話してない。
奈津子さんが絡んでることは間違いないから、警察沙汰になんかしたくない。
だから、警察へ相談に行くってことも、嘘。
「でも、奈々実が抱えてる不安、ひとつでも取り除いてあげたいから。わかった、私、本腰入れてティンパニパート練習する。他のメンバーには、知られないように」
わたしを安心させるかのように、大きな口を開けて、緑先輩は笑った。
緑先輩の、光に茶色く透けた髪が、ふわっと揺れた。
先輩。
ごめんなさい。
嘘ついて。
ごめんなさい。
秋――
あなたの声が聞きたい。
早く聞きたい。
今すぐにでも聞きたい。
今日は、夜寝る前じゃなくって。
部活の帰り道に、電話するね。