措置入院に至るまで~応急入院まで~ | ASDとともに

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ASD(自閉症スペクトラム)による双極性障害・解離性障害・PTSD・パーソナリティ障害とともに生きる一人の女性として、母としての日々。

何となく、措置入院に至るまでのことを書いてみようかな。という気になったので、書いてみます。

私が措置入院したのは昨年(2017年)8月21日。

犯した罪は「暴行」です。

 

 

 

 

 

話はその年の5月にまで遡ります。

 

私たち家族(私・夫・娘・息子)は、ゆるーく家探しをしていました。

娘は小3。

当時、県営住宅に住んでいました。

遅くとも娘が中学校に上がるまで、余裕を持って5年生の時には引越したいね、という話をしていました。

絶対条件は、

「夫の実家まで車で30分以内」

でした。

都市ガス・下水道は可能なら、という感じでした。

予算的に注文住宅は頭になかったので、最初から建売住宅で探していました。

気になる物件があれば足を運び、だけど妥協できずに数ヶ月経っていました。

貯蓄はほぼゼロ。

私にとっては、将来に対する不安も大きかったです。

 

5月頭、気になる物件を見つけました。

都市ガス・下水道・夫の実家まで15分。

価格も、建築中なのに相場から300万程低い物件でした。

「ちょっと行ってみようか」

と見に行ったところ、夫が乗り気になってしまいました。

前の道は狭いし、縦列駐車だし、二階リビングだけど、この立地でこの価格はありえない。

と、契約を進めていきました。

 

私は、その頃から鬱の症状が出始めました。

眠れない・食事が取れない・家事ができない・お酒の量が増える…

当時投薬治療は行っていませんでした。

体重が一週間で3キロ程落ちていました。

将来に対して不安が大きくなっていた私は、購入を保留にしてほしいと夫に頼みました。

精神科では、休職するよう指示されました。

(当時介護職で週4日・一日8時間働いていました)

「私が仕事に復帰できるのがいつになるか分からないのに、今後も仕事を続けられるか分からないのに支払いが増えるのは不安だ。

 またいい物件が出てくるかもしれないから今回は見送ってほしい。」

と夫に頼みました。

夫は

「俺だけの給料でやっていけるから大丈夫だ」

と言い、

「困ったことにはならないから俺を信じろ」

と言う夫に説得されて、本契約を結びました。

 

幸いなことに、私の鬱症状は投薬治療なしで3週間程で回復し、その後復職もできました。

家を買うんだ。というプレッシャーが重くのしかかっていました。

家を買うんだから、ちゃんと仕事しなければ。

家を買うんだから、節約しなければ。

私は次第に追い詰められていったのだと思います。

 

7月10日、引越しをしました。

息子の保育園の問題があったので、住民票は8月に入ってから異動させました。

娘は一学期中は前の学校に送り迎えし、息子も保育園まで送り迎え。

片道20分ほどでしたが、それを毎日繰り返すのはなかなか大変でした。

週4日の介護職を続けながら、毎日3往復。

娘が夏休みに入ってからはだいぶ楽になりましたが、それでも、私は疲れていました。

 

お盆がやってきました。

この頃には仕事休みの日はひたすら寝ている毎日でした。

 

8月14日。

夫の友人達が家に集まってわいわいがやがや。

知っている人達とは言え、気を使います。

BBQに行き、家に集まり、わいわい。

楽しくもありましたが、疲れました。

 

8月16日。

私と夫は仕事休みだったため、夫の祖母の家に行くことになっていました。

「行きたくない」

と強く思いました。

「私は調子が悪いから行かない」

そう伝え、臥せっていました。

夫と子どもたちは夫の祖母の家に行きました。

 

8月17日。

調子の悪さを自覚していた私は、夫には仕事に行くと伝え、仕事を休み、かかりつけの精神科(大学病院)に行きました。

このまま誰も知らないところへ逃げ出してしまいたいと思っていたので、そう伝えました。

入院しましょうか、という話になりました。

「入院して治療する価値がないと思うので入院はしなくていいです」

と伝えました。

すると、夫が迎えに来るという話になりました。

「ちょっと待っててくださいね」

と言われた時、夫に会いたくなかった私は、逃げ出しました。

 

スマホの電源を切り、無我夢中で走って、電車に乗り、特急に乗りました。

目的地はどこでもよかった。

着いた街で、市役所と郵便局へ行きました。

離婚届を自分の欄書いて、スマホと家と車の鍵を入れて、郵便局から速達で夫へ送りました。

完全に他人事でした。

離人症の感覚が酷かったです。

なので細かいところはあまり覚えていません。

死ぬための道具として、首吊り用のネクタイを買いました。

あと、カッターナイフ。

そこからさらに高速バスに乗り、22時頃、都会の大きな駅に着きました。

住んでいた街からは新幹線で2時間程かかる、離れた街でした。

 

時間を潰す場所を探しました。

朝まで時間を潰さなければどうにもできないな。とぼんやり考えていました。

カラオケボックスに入りました。

お酒を飲みました。

リストカットしました。

死ねる訳がありませんでした。

 

午前3時頃、カラオケボックスを出て、首を吊れる場所を探していました。

駅の外にトイレがあればそこで死のう、と思って探したけれど、ありませんでした。

ふと、交番が目に入りました。

「死ぬにはどうしたらいいですか」

何を思ったか、私は交番のドアを開けていました。

 

そこから、県の精神科医療センターに連れて行かれました。

8月18日。

応急入院でした。

私は死ぬことしか考えられなくなっていました。

入院となった時、私はこの街で一人で生きていくんだろうか、と考えていました。

病院のスタッフも、このままここで入院するのか、住んでいた街に帰るのか、どうしたらいいのか分からない感じでした。

 

同じ県に住んでいた妹が迎えに来るということになりました。

新幹線で迎えに来てくれました。

一緒に新幹線で帰りました。

8月18日、22時頃、自宅に帰りつきました。

 

 

 

 

 

予想以上に長くなってしまったので一旦ここで分けます。

続きます。