前回出産までのことを書いたので、離婚するまでのことを書こうと思います。
2008年年末に長女を出産しました。
出産後、最初の夫(以下この記事では夫と書きます)は同じ病室に寝泊りしていました。
最初の数日は、平穏でした。
出産に立会いとても感動したそうです。
それもつかの間、娘が泣くと「うるせーな」と毒を吐くようになりました。
父性なんてそんなすぐには育たないから仕方がないか、と目を瞑りました。
1ヶ月と少したった2月中旬、私は夫の元へ戻りました。
当時両親の仲が悪く、実家の居心地が悪かったからです。
何とかやっていけると思いました。
生活苦の為、私は3月から水商売を始めました。
夫から「自由になる金が欲しければ俺と同等以上に稼いで来い」と言われていたためです。
それまで自由になるお金や小遣い等は一切なし。
買い物は夫と一緒。何か欲しいものがあればその都度夫にお伺いを立てる日々。
私は音楽活動を再開させたかったので、お金が必要でした。
4月頭に、インフルエンザにかかりました。
その時も夫は
「お前が仕事休んだら給料がなくなる。生活どうすんの?」とヒモ状態。
私はこの頃には授乳をやめ、精神科の薬を飲んでいました。
インフルエンザにかかったことが直接の原因かは分かりませんが、
GWにアナフィラクトイド紫斑病(血管性紫斑病)になり、下血・吐血・血尿の症状が出て緊急入院しました。
家族で車で実家へ帰ってる途中の出来事でした。
高速おりて病院行って、応急措置だけしてもらって大学病院へとんぼ返り。
3週間程前から紫斑は出ていましたが皮膚科へ行っても分からないの一点で、これはおかしいと自ら大学病院へ出向いたのが3日前。
そこでやっと紫斑病と診断され、それから急に症状が悪化し入院となりました。
もちろん仕事はやめるしかありませんでした。
娘は当初夫の母(義母)が見てくれていました。
入退院を繰り返していた私は、これ以上子どもの面倒は見れないと断られました。
そこで児童養護施設のショートステイを使うことにしました。
それも長引き、児童相談所の一時保護制度を使うことになりました。
私は精神状態がとても悪かったので皮膚科を退院後そのまま精神科病院へ転院することとなりました。
ステロイド精神病って言葉があるようにステロイド治療によって私の精神状態はどんどん悪化していました。
6月中旬に、解離を起こしました。
入院中、夜間頭痛が酷く、痛み止めをもらおうと思いました。
「さっきあげたからもうあげられないよ」
と言われました。
久しぶりの解離すぎて私は愕然としました。
その翌日。
閉鎖病棟入院中でしたが外出フリーだったので、外出しました。
その途中でリストカットしていました。
気づいたら知らない公園でした。
泣きながら夫に電話し、病院へ電話し、病棟スタッフに見つけてもらって病院へ帰りました。
原因はおそらく前日に夫と一悶着あって散々泣いたこと。
それを知っている病棟スタッフと主治医は私を外出禁止にし、夫との面会も禁止になりました。
その後入院中にも紫斑病が悪化し総合病院のお世話になったりしましたが転院する程ではなく、精神病院に入院しながら紫斑病の治療を行っていました。
私は精神保健福祉士や主治医の応援の元、離婚調停を申し立てました。
そして7月末に退院しました。
再就職も水商売でした。
住み込み(寮付き)で雇ってくれるところがそこしかありませんでした。
その後10月に調停は不成立となり、裁判をすることとなりました。
争点は親権。
夫は私の精神病を理由に、私は夫のモラハラを理由に、親権を争うこととなりました。
11月にドクターストップ。
内科の先生から過労を指摘され、紫斑病の悪化も考えられたので入院することとなりました。
12月にまた解離を起こしました。
幻覚を見て幻聴を聴いていたそうです。
私以外に3人くらいの人格があったそうです。
大量服薬をしたそうです。
あまりに覚えていませんが。
2010年の1月に、生活保護の申請に行きました。
弁護士の先生に話をしてもらって、すんなり通りました。
それからは仕事を転々としながら、生活保護を受けながら、生活していました。
精神科への入院も数回ありました。
8月に、精神科の薬を中断しました。
10月に紫斑病も完治しました。
11月に、離婚裁判が和解で終了しました。
慰謝料なし、月一回の面会。
親権は私。
勝てた理由は夫のモラハラを夫が認めたからです。
こうして私の母子家庭生活は始まりました。
ここまで書いてみて、あまりに覚えてないところが多くて過去の日記頼りに書いてる部分が大きいです。
結婚して2年ちょっとで離婚。
そのうち1年半ほど別居していました。
長女はその後も1年ちょっと施設に入所していました。
次回は離婚して診断を受けるまでのことを書きたいと思います。