ASDと診断されるまで~専門学校高等課程~ | ASDとともに

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ASD(自閉症スペクトラム)による双極性障害・解離性障害・PTSD・パーソナリティ障害とともに生きる一人の女性として、母としての日々。

前回高校生の頃のことを書いたので、今回は専門学校高等課程でのことを書こうと思います。

 

 

 

高校3年生を休学した私は、都会の音楽専門学校の高等課程へ編入しました。

親元を離れての寮生活。

バンドにバイトにそれなりに充実した毎日でした。

寮生活では、寮のルールを守らないとよく両親に連絡が行っていたようです(私は覚えていませんが)。

バイトはあまり続きませんでした。

人間関係がうまくいかなかったり、仕事内容が合わなかったり、理由は様々だったと思いますが。

今思えば、この頃から私の発達障害の特性故の困り感は出ていたのだと思います。

当時は何が原因なのか分からず、ただうまくいかない日々にイライラ悩んでいました。

 

精神科は前の主治医が紹介してくれた隣の県の医師のところまで電車で通っていました。

月に一回程度だったと思います。

当時の診断名は「双極性障害」「解離性障害」

解離はだいぶおちついていました。

バイトを頑張りすぎて(躁状態)、その後寝たきりのようにうつ状態になり、というのを繰り返していました。

学校は休み休みながらも卒業できる程度には通っていました。

 

6月のある日、レイプ被害にあいました。

私の危機管理・認識が甘かったとしかいいようのない事件です。

涙が止まりませんでした。

友達に付き添ってもらって産婦人科へ行き、アフターピルを飲みました。

警察にも行きましたが相手にしてもらえませんでした。

 

寮母さんを通して両親に連絡が行き、両親が飛んできてくれました。

そのまま実家へ帰り、以前の主治医のいる病院へ入院しました。

 

入院し落ち着いた私は、再び都会へ戻り、学校生活を送っていました。

 

オリジナルバンドを始めました。

私以外男性でしたが、作詞作曲も担当し、とても楽しかったです。

毎週のスタジオ練習、月一回程度のライブ活動。

路上ライブもやったり、レコーディングしたり、毎日が充実していました。

 

だけどそんな楽しい日々も長くは続きませんでした。

バンド内の人間関係がうまくいかなくなり、解散することとなりました。

 

同時期に、私が一番好きなバンド「syrup16g」のコピーバンドを始めました。

一年に一回、二時間のステージをするバンドで、翌年の6月のライブに向けて練習を始めました。

全曲耳コピ・15曲。

バンドのテーマは「本気で遊ぶ」

この時のメンバーとは今でも連絡を取っています。

 

卒業を間近に控えていた私は、音楽に携わる仕事がしたいと思うようになりました。

それまで出演していたライブハウスに掛け合い、ブッキングマネージャーとしての仕事を少しずつ始めました。

自分でライブを企画し、バンドにアプローチし、出演してもらってお金をもらう。

とてもやりがいのある仕事でした。

そのうち毎回出てくれるバンドもできてきたり、嬉しかったです。

 

先述したsyrup16gが、解散することになりました。

日本武道館まで見に行きました。

私はそこで、最初の夫と出会いました。

最初の夫は中学時代にブログで知り合った一歳年上で、会ったのはこの時が初めてでした。

 

とんとん拍子に交際が始まりました。

遠距離恋愛でした。

 

仕事は楽しかったですが、やはりうまくはいかず、私は卒業後の生活に困っていました。

 

 

 

 

とりあえずここまで。

こうやって書いてみると専門学校高等課程の頃は割と落ち着いて生活できていたのだなぁとつくづく実感します。

いろいろありましたが、楽しい一年でした。

次は卒業してから前夫との結婚生活のことを書こうと思います。