Title_本能寺の変
Artist_津本陽
Release_2005.04

日本人にとって最も有名な歴史上の人物である織田信長。そして、側近大名の明智光秀羽柴秀吉。これらを中心に本能寺の変に至る光秀の心情を読み解いたのがこの小説。物語として語られているがゆえに、その日その日の移り変わりがとてもよく理解でき、歴史も人の日々の積み重ねなんだと改めて実感することができた。

それにしても、この小説を読んでいて感じたことだが、彼らは今の私たちの生活の時間軸に対し、あまりに忙しい。そして、国を治めるものとして、安倍総理も同じなのかもしれないが、あまりに重大な出来事の目白押しで、凡庸では到底こなしきれない仕事量だ。そして、その全てが自らの生き死に関わるという凄まじすぎる日常。そこに圧倒された。

一日一日がこんな重大な決断で埋め尽くされる毎日を味わうこなしつつも、茶を嗜み、碁を楽しむ。
信長はこんな言葉を残したという。

人間の50年の生涯は儚いものだ。
死なない者は存在しない。

その言葉通り、信長は49歳でこの世を去る。

そこで、この小説からそうした日常をピックアップして並べてみることで改めてその凄まじさを振り返ってみよう。歴史の一部としてではなく、一人の男が何を決断し、どうやって安土城から天下を眺めたのか。

今を生きる自分たちの日常と比較し、糧にできれば幸いだ。


永禄2年(1559年)
尾張を統一し、尾張の国主となった。

永禄10年(1567年)
信長33歳。美濃攻略。印文「天下布武」の朱印を使用し始める。
当時の天下とは畿内統一を指していたようで東方西方は中央とは区別して考えられていた。

永禄11年(1568年)
他国侵攻の大義名分を得るため、将軍家嫡流の足利義昭を奉戴し、上洛を開始した。

永禄12年(1569年)
正親町天皇から「信長を副将軍に任命したい」という意向が伝えられたが、信長は何の返答もせず、事実上無視した。

元亀2年(1572年)
光秀は坂本城主となった。

天正3年(1575年)
信長は権大納言に任じられる、また、征夷大将軍に匹敵する官職で武家では武門の棟梁のみに許される右近衛大将を兼任する。これで朝廷より「天下人」であることを、事実上公認されたものとみられる。
信長は光秀に丹波経略を命じた。

天正4年(1576年)
信長自身の指揮のもと琵琶湖岸に安土城の築城を開始する。

天正5年(1577年)
信長は秀吉に中国経略を命じた。

ここからが信長と光秀の日々の心情を考える本題の日々が始まる。

天正6年(1578年)
1月1日
光秀は床に信長自筆の書幅をかけ、信長から拝領した八角釜で茶を沸かした。
主人を足利義昭から信長に鞍替えした光秀はこの頃、信長の家臣として多大な名声を獲得しつつあり、そんな光秀は信長への敬意、憧れから元旦、書幅と釜を使ったことがわかる。坂本城主として家来と酒を嗜みつつも、信長から命じられた丹波経略の期待に応える術を講じていたのかもしれない。
2月1日
武田勝頼が二万の兵を率い、信濃福島城を包囲した。
天正6年は、武田の侵略で信長しかり光秀も大きな変化が訪れる。
3月5日
信長は武田討伐に向けて安土城を出陣した。従うのは、光秀の軍勢を筆頭に、筒井、長岡、中川、池田ら畿内衆の大軍だった。

天正7年(1579年)
安土城は五層七重の豪華絢爛な城として完成した。天守内部は吹き抜けとなっていたと言われている。イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、それら(城内の邸宅も含めている)はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである」と母国に驚嘆の手紙を送っている。信長は岐阜城を信忠に譲り、完成した安土城に移り住んだ。信長はここを拠点に天下統一に邁進することとなる。

10月23日
光秀は丹波一国を平定した。光秀はここでようやく約5年間に及ぶ戦時を終えることとなる。

天正8年(1580年)
8月
信長はそれまでの近江滋賀五郡に加え、その西北につらなる丹波一国と亀山城を光秀に与え、畿内の大将にした。

天正9年(1581年)
5月23日
信長は明智光秀に京都で馬揃えを行なうための準備の命令を出した[35]。この馬揃えは近衛前久ら公家衆、畿内をはじめとする織田分国の諸大名、国人を総動員して織田軍の実力を正親町天皇以下の朝廷から洛中洛外の民衆、さらには他国の武将にも誇示する一大軍事パレードであった。
要するに、信長は光秀に最重要事項を託したのであり、それだけ信長の、光秀に対する信頼も大きかったことがうかがえる。

11月8日
信長は姫路城に戻った秀吉に、淡路出兵を命じた。

11月20日
光秀は丹後検地の結果を報告するため、安土城を訪れた。信長は光秀を無視していた。約6ヶ月しか経っていない間に信長と光秀の間には何があったのか。ここに大きな転換点がある。しかし、その原因として考えられているのが秀吉の存在である。11月8日の淡路出兵を始め、鳥取城攻略など、秀吉のこの時期も活躍は目覚しい。それが信長と秀吉の関係強化と、光秀への信頼が揺らぐ会話が積み重ねられていたのかもしれない。

天正10年(1582年)
3月15日
秀吉は備中へ乱入した。1577年の中国経略からずっと秀吉の戦は各方面で展開中であり、無論その監督官は信長である。彼らは足掛け7年も戦争を繰り返しているのである。

5月13日
光秀は信長から在荘を命ぜられた。
「そのほう、甲斐攻めの疲れをいやすため、明日より当分のあいだは在荘いたし、ゆるりと休むがよかあらず」

5月14日
信長は信忠から莫大な戦利品をうけとり、天主鵲の間で息子と酒宴を楽しんだ。

5月15日
信長は、光秀に、家康らの饗応を命じた。13日に休暇を言い渡した信長だったが、15日には光秀の休暇は撤回されている。

5月17日
備中高松城に水攻めをしかけていた秀吉から、急報が届いた。
毛利輝元もまもなく着陣するとの情報を得た秀吉は、信長に増援を求めた。
信長は、四国出陣をただちにとりやめ、光秀と、その組下の長岡、池田、塩川、高山、中川、筒井らを先手として出兵を命じた。ここで光秀の戦争は再び始まる。しかもそれは、秀吉の増援としてであり、総大将は秀吉だった。

5月18日
光秀は出陣支度のため、安土城から八里余の湖上を船に揺られ、坂本城に戻ってきた。

5月20日
信長の家康への饗応は二十日まで続いた。四国出兵のため、家康への饗応は部下に任せていた。
光秀は脇息にもたれ、宙に視線をすえ、ひとつの考えの糸をたぐり寄せては戻すことをくりかえしている。

5月26日
光秀は三千の兵を率い、丹波亀山城にうつった。

5月28日
時は今あめが下しる五月哉

これはこの日、光秀が詠んだ句である。時は今5月、天下を治める機会がやってきたという句であり、光秀の謀叛はすでに実行に移されるばかりだったことがわかる。

5月29日
信長はわずか数十人の近臣とともに京都に入り、本能寺に宿泊した。

6月1日
信長は廷臣の訪問をうけ、出陣祝賀をうけた。
光秀は亀山城の広場に物頭を呼び集めた。

6月2日
本能寺の変が起こる。

6月8日
羽柴勢は姫路に集結した。

6月9日
秀吉は姫路を出発し、兵庫に進出した。

6月11日
秀吉は尼崎に到着した。

6月13日
山崎の淀川西岸に、羽柴勢の人馬が埋まった。
山崎の合戦である。光秀は没し、秀吉の天下統一がここから始まる。


信長と光秀という二人の男が上下関係の中であっという間に謀叛に至る記録がこれである。一時も休むことなく、戦争に明け暮れていた彼ら。光秀にとっては少なからず、1581年までは信長への信頼は揺らぐことがなかった。それが翌年、信長も予期せぬ形で本能寺の変が起こってしまうのである。天下稀に見る頭脳を持った信長がなぜ本能寺の変で歴史の舞台から去ってしまったのか?それは未だに謎である。信長さえ意図しない、光秀を操るもっと大きな陰謀が仕組まれていたが故に、本能寺の変が起きたとする説もある。
しかしながら、ここではこうして歴史を振り返ることで多忙な毎日を明晰な頭脳がひしめき合う日常と人間の心移りというのは、信長だろうが、光秀だろうが、常に起こりうるものであるということだ。現在、社会に生きるビジネスマンにとっても、これは同様だ。

今回、光秀を主人公とした小説を読むことになったが、どちらかといえば、天才的な活躍をした信長が死ぬ、それは天下統一という事業の失敗への道のりが一人の部下の裏切りによるものだったということを実感できただけでもとてもためになった。
信長が本能寺の変という事業における重大なミスを犯した原因こそ、知りたい事実ではあるが、それは謎の中として、心に刻んでおきたいと思う。