2007.10.29 (日)~10.31 (火)
10月29日(日) 【28回目】
『流行歌とは”湯船の鼻歌”』
10月30日(月) 【29回目】
『人生3打席、男は3回死ぬ』
10月31日(火) 【30回目】
『今も青春、これからも青春』

『流行歌とは”湯船の鼻歌”』

「高校三年生」歌碑除幕式 2002.4・13 郡山市 (『「スズメのお宿」歳時記』P167)
「高校三年生」などは、レコードジャケットにわざわざ「流行歌」と断っていた。 時代背景を
映し、日常生活にもっとも近い歌だったため、広く受け入れられたのだと思う。「仲間たち」
にしても中学生の集団就職が当たり前に行われていた時代だった。

そんな思いを改めて実感したのは、1997年(平成9)の
新橋演舞場での座長公演。 「学園広場」を歌うとお客様
の大合唱が起きました。 青春時代が蘇った同世代の一
体感は、ボクがその後歌い続けていくための大きな力を
与えてくれました。

学園ソング、 青春歌謡といわれた
作品群は、それまで演歌が主流だ
った流行歌の中に突然現れた新し
いジャンルといっていいのではない
でしょうか。 「野口雨情ものがたり」
軽音楽は世代の流れとともにすばやい流れで回転していくもの
であり、 グループサウンズ、フォークソング、ニューミュージック、
ロック、、、、新たに生れたものが新たな世代に受け入れられる
のは、当然のこと。
近年、提供されていた側が、「俺たち若者が今感じるのはこういう歌だ」 と、自分で作って歌う
カタチで世に出て提供する側に変わったことも大きな特徴。
ボクが大事にしたいのは、流行歌は ” 湯船の鼻歌 ” でいいという思いです。 お客様が風
呂で湯船に漬かったら、ふわっと口から出てくるような・・・。 ボクらが歌っているタイプの流
行歌ではあまりにも強くメッセージを込められると、疲れちゃうお客様もいるかも知れません。
聴く側だって、全ての人が時代についていけるわけはないし、最初は珍しかった新しい音楽
もだんだん関わっていくことが難しくなってくる。
ボクが再起を決意した時、同世代だけを向こうと思ったのは、そんな人たちのための居場所
をつくりたかった。 だから今、 コンサートでお客様が望んでいたものとそりの合わない曲は
基本的に歌いません。

舟木さんが還暦を過ぎてからしばらくたったこの10年で、
大切な方々が旅立たれた。

2008年(平成20)、恩師の作曲家・遠藤実先生(享年76)

2009年(平成21)、 作詞家・丘灯至夫先生(享年92)
「高校三年生」を生み出してくれた恩人であるお二方のためにも、
一時代を作った流行歌の数々をボクらの世代は歌い続けていか
なければならないのだと感じます。20年前にお客様が一緒に歌
ってくれ、与えてくれた大きな力とともに。


『人生3打席、男は3回死ぬ』
ボクは人生3打席あると思っています。根拠のないアバウトな考え方ですが、チャンスは
3回来ると。 最初はあくまでも希望的観測でしたけどね(笑い)。
★ 第1打席は出合い頭のホームラン 1963年、デビュー曲「高校三年生」の大ヒット
★ 第2打席は見逃し三振 30代ぐらい? 打席にさえ立てなかったかも?
あの ” 寒い時期 ” には自分で振ることも、支えてくれるチームメイトもいませんでした。
それでも、もう1打席くらいは回ってくるだろうと思っていました。40手前くらいの頃です。
★ 第3打席は 最終打席 30周年を機に ” 寒い時期 ” を抜け出て出塁
47歳でデビュー30周年がやってくる。 もし最終打席があるとすればこの辺だろうと。
そこまでに回ってこなかったら後はないと考えていました。 でも妙な自信はありました。
40歳を過ぎ、 同世代のほうだけを向くと覚悟を決めた時点で。 なんとかバットに当て
られるんじゃないかと、、、。 思いは現実のものになりました。
前を向き、心身ともに充実してくると、不思議と物事はいい方向に回り始めます。
★ 1992年(平成4) 21年ぶりに第43回NHK紅白歌合戦に出場
★ 1997年(平成9) 念願の新橋演舞場初座長公演実現 「野口雨情ものがたり」 

26年ぶりにNHK大河ドラマ「毛利元就」に
出演 「椋梨景勝」役
★ 1999年(平成11) 愛知県出身ということで中日ドラゴンズの
応援歌を歌う
(写真集「風まかせ」 PP48より)
★ 2002年(平成14) 40周年公演
「忠臣蔵異聞 薄桜記」
: 大阪・新歌舞伎座

「沓掛時次郎」 : 京都・南座 「鯉名の銀平・雪の渡り鳥」: 東京・新橋演舞場
★ 2004年(平成16) 還暦の「赤ツメ・コンサート」


試合はまだまだ続いています。 デビューから55周年。 もうここまでくると中途半端に
「舟木一夫」を終わらせたくありません。 カットアウトするには、ボクは歌が好きすぎました。
歌との出会いからボクの人生は動き出し、歌があったからさまざまな困難を乗り越えること
ができました。 多くの人と出会い、 何より多くのお客様が応援してくれたのも歌のおかげ。
だからボクが歌わなくなった時はゲームセットの時、つまり臨終の床にいる。そういうことで
いいと思っています。
舟木さんには、「男は3回死ぬ」という考え方もある。 仕事を終える時、女性に対して、命が
尽きる時・・・この覚悟は男として生きる上で必要。 2つめは一番最初? ボクは3つまとめ
てがいい。
『今も青春、これからも青春』
歌い手として歩み始めて55周年を迎えることができ、今も現役として第 一線で歌えていることは、信じられないほどの幸せ。 時代が変わり、ど
んなに技術が進歩し便利な世の中になっても「好きな歌」が劇的に変わ
るわけはない。 かつて好きだった歌は、思い出とともに「自分」のなかで
生き続ける。 

” 懐メロ ” とiう言葉があるように、歌は懐かし
くてもいいが、歌い手は懐かしくなってはいけ
ない。 かつての「自分」 が世間から ” 過ぎ
た景色 ” といわれてしまうようになるのは致し方ないが、「自分」の
意識のなかでは、懐かしい舟木一夫になってはいけない。
ボクが生きていく上で、大切にしている言葉があります。
「箱根山、駕籠(かご)に乗る人担ぐ人、そのまた草鞋(わらじ)を作る人」
社会はそれぞれに担う役割があって成立しているということ。
「起きて半畳寝て一畳、天下取っても二合半」
人は分相応でいい。
この2つを胸に刻んでいます。
今のボクは物質的にはこだわらない生活をしています。ぐっすり眠れる部屋があれば、それ
でいい。 そしてボクの役割というのは、 同世代の皆さんの歌い手であり続けることなンだと
思う。
ご隠居されても、もう役目は済んだとホッとしちゃダメ。 まだ「自分」がいる。 会社のため、
家族のため、何かを背負ってきたこれまでの人生。
だからもう免許皆伝です。長生きをして、好きなことをしましょうよ。
ボクが ” 寒い時期 ” から再起し、ここまでやってこられたのは、青春 歌謡の「舟木一夫」が若き日の残像としてお客様の心にあったからだ
と思います。 ただ、それを懐かしむだけではもったいない。

ボクはこれからも、 ありのままで歌っ
ていきます。風邪
をひいたら風邪を
ひいた声、72歳の
この声で。

今のボクと、今の皆さんが同じ空間を共有
し、ともに楽しもうじゃありませんか。
だから、今も青春、これからも青春なんです。


ボクは皆さんと、まだまだ一緒に旅を続けていきたい。 赤い夕日が校舎を染めた、
あの情景を思い浮かべながら。 = 終わり =
「 同世代の皆さんの歌い手であり続けることがボクの役割 」 と仰って下さる舟木さん。
まだまだ ご一緒の舟旅が続けられそうで、 嬉しくてたまらない。
頼もしいキャプテンのもと、乗船の皆さんと周りの景色をゆっくりと愛で、オシャベリしな
がらの楽しいクルージングが、いつまでもいつまでも続きますように。