琵 琶 湖 の 畔
2015.11.1(日)
兵庫県 京都府 滋賀県
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姫路から明石~須磨を巡って、次に訪ねたい
ところは神戸・大阪・京都を通り過ぎた琵琶湖
の畔・・・びわ湖ホールだった。
以前から随分と立派なホールだと伺っていた
し、 ぜひ一度、舟木さんの歌を琵琶湖をバッ
クにお聴きしたいものと思っていた。
この秋の旅で、ちょうど良いチャンスに恵まれた。 2015.9.30の舟木さん
コンサートは叶わなかったが、このホールだけはぜひ訪ねてみたかった。

15:00過ぎ、駅前の観光案内所で各種の地図を頂き、今夜のお宿に
チェックイン。 身軽になって琵琶湖を目指し、かつての古の都の散策
に出掛ける。
「琵琶湖周航の歌」 作詞・曲: 小口 太郎
我は湖(うみ)の子 放浪(さすらい)の
旅にしあれば しみじみと
昇るさ霧や さざなみの
志賀の都よ いざさらば
舟木一夫の真白き冨士の根
収録 1963(昭和38)年
JR大津駅の近隣では、さすがに近江京の時代まで遡ることは出来なか
ったが、駅構内ともいえるほどの近くに 、供養塔らしき碑があった。
【 山吹地蔵 】

木曽どのを
したひ山吹
ちりにけ里
大正十年八月大津駅がここに建設
されるまで この地一帯は秋岸寺と
いう古いお寺でありました。
その昔木曽義仲が粟津が原で鎌
倉軍勢と戦って破れ、 今井兼平等
多数の部下とともに戦死した際、愛
妾山吹御前は京洛から義仲を慕い
はるばる逢坂山を越えてここまで来
碑の左後方が祠 ましたが、 逢うことができず秋岸寺
の竹藪の中で敵刃にたおれたのであります。 後世有志が薄幸の山吹を弔うために境内に
地蔵尊を刻んでお祀りしましたが、駅の新設と同時に寺は移転し地蔵尊は鉄道宿舎の主婦
たちの手によって祀られてきたのであります。 昭和五十年駅舎改築を機にりっぱな祠を建
ててここに祀ることになり、誰いうとなく山吹地蔵と呼ばれております。
大 津 駅 長
大津市観光物産課
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また一人、戦に明け暮れる武将を慕う、薄幸の女性を知った。
平安末期の歴史にも詳しくないため、掲示板の内容もしっかり確認せず、今から思うと
残念で惜しいことをした。
【 木曽義仲最期 】
一の谷合戦の前年、越中・加賀国境の倶利伽羅峠で平家の軍勢10万を2万にして大
勝利を収めたとされる木曽義仲は、平家を西国に都落ちさせ、源頼朝よりも先に京に入
った。 しかし飢饉の折、あまりに大勢で入京したため食料はなく、兵は京の人々に乱暴
狼藉を働き、義仲勢はすっかり嫌われてしまった。 頼朝の差し向けた追討軍に追われ
れていくが、ついに琵琶湖畔の粟津が原(大津市)が義仲終焉の地となった。
忠臣・今井兼平が、日本中に名をとどろかせた義仲の最期はせめて松林の中で自害さ
せたいと、義仲が松林に行き着くまでの時間を敵勢と戦っているとき、薄氷が張り詰めた
田の深さが判らず、義仲の馬が泥田に足を取られ、身動きできなくなった。 兼平はどうし
ているかと馬上から振り返ったところを、射抜かれてしまった。 その直後、 乳母子(めの
とご)として主人に付き従い、名に相応しい最期を用意しようとした忠臣・今井兼平は、自ら
も凄まじい最期を遂げた。

義仲を慕う女性が、巴御前のほかに山吹
御前。山吹御前については、「平家物語」
(木曽の最期)の中でも、あまり触れられて
いない。
木曽殿は、信濃から、巴、山吹という二人
の美女を都まで連れてきていたが、山吹は
病のために、都に残してきた。
(現代語訳「平家物語」中山義秀訳P319)

山吹御前は京に置かれたままであったが、病を押して
ここ秋岸寺まで旅をしてきたということだろうか。
辿り着いたときはもう、 義仲は逝ってしまった後だった
のかも知れない。
歴史には名を留めず逝った山吹御前。 合戦の世の
薄幸の女性の哀れさを思い、今でも地元の方々がこう
してお祀りして弔っておられることに、ほっとさせられる
ものがある。
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いよいよ琵琶湖へ


なぎさ公園



琵琶湖文化館(休館中)

びわ湖ホールに近づいてきた

びわ湖ホール湖岸側

ティーラウンジがありそう・・・ここで絶対お茶飲んで帰りたい!

表に廻って、、、びわ湖ホールなぎさ通り側

四季折々の季節を映す琵琶湖の畔に建つ、びわ湖ホール
この威容、、、凄いな~!
→ びわ湖ホールへ