関東紀行小さな旅
~ 雨情の里へ ⑩ ~
《 大正11(1922)年 》 40歳
『 船頭小唄 』 大ヒット 11月、「金の塔」に 「しゃぼん玉」 発表

《 しゃぼん玉 》 作曲: 中山 晋平
しゃぼん玉 とんだ
屋根まで とんだ
屋根まで とんで
こわれて 消えた
しゃぼん玉 消えた
とばずに 消えた
うまれて すぐに
こわれて 消えた
風 風 吹くな
しゃぼん玉 とばそ
《 童謡「しゃぼん玉」は、いつ作られたか 》
この「しゃぼん玉」については、 ある日、村(磯原)の少女たちがシャボン玉を飛ばして
遊んでいるのを見た雨情が、娘が生きていれば今頃はこの子たちと一緒に遊んでいた
だろうと思いながら書いた詩である、という説がよく知られている。
明治41(1908)年 3月、雨情26歳のとき、 最初の妻ひろさんとの間に長女みどりが
誕生するも、生後7日で亡くなる。
大正10(1921)年12月、雨情39歳のとき、つるさんとの間の次女、恒子誕生。
大正11(1922)年11月、雨情40歳のとき、「しゃぼん玉」発表。
詩の構想の時期については、不明。
大正13(1924)年 9月、雨情42歳のとき、童謡普及のため演奏旅行に出かけた徳島
で、2歳の娘、恒子の病死を知る。
《 童謡「しゃぼん玉」を巡る鎮魂歌説 》
当時の乳幼児の死亡率は高かったが、雨情は、ひろさんとの間の長女みどりを、生後7
日で亡くしてしまったことを、後々まで悔やんでいたという。
二人の娘を亡くしている雨情であるが、雨情自身が子どもの死との関連について触れて
いる資料は一切無いため、 童謡「しゃぼん玉」に夭折した子どもへの鎮魂の意が込めら
れているかどうか、については確証がない。
遺族の間でも意見は分かれており、時期的にみて実子ではなく親類の子への鎮魂歌で
はないかという説、 その他、特定のモデルはなく子どもの死一般を悼んだものとする説、
特に鎮魂の意は無いという説など様々である。
「七つの子」の原詩について聞かれた雨情さんが、 「 読んでくれる人が勝手に決めやん
しょ 」 と答えたごとくに、 この「しゃぼん玉」についても、あるいは答を出す必要はないよ
うにも思える。 雨情さんであっても、青い空に消えていくシャボン玉に、風よ吹いてくれ
るな、と単純に思ったのかも知れないし、 雨情さんであるならやはり、 消えていくシャボ
ン玉にわが娘みどりのことを連想したのかも知れない。
( 恒子が亡くなるのは、詩ができてから2年後のことである。)
鎮魂歌説を含め、現状ではどの説も確実な根拠があるとはいえないのだろうが、あれ程
までに人々の心に入り込み、揺さぶった「船頭小唄」の作者、雨情さんである。 失った娘
はもちろん、 親の元から早々と離されてしまった子供たちの魂を、 わが子に重ねて悼む
気持ちが含まれていると考える方が、自然なことのように思う。
《 悲しみ、、、祈り、、、、希望 》
「しゃぼん玉」の詩について
生れては瞬時に消えていくシャボン玉。無心に飛ばすシャボン玉に、天高く舞い上がれ、
と娘の命を託し、空に向かって子どもの夢がいつまでもすこやかにありますようにと、祈
っているようです。 「その夢が天に届くまで風よ、吹かないでおくれ」
そして、 「今は悲しいけれども人間はいずれ乗り越えられる。 幸せになっていけるん
だよ」 と、歓びを破壊するするものに対する抵抗が込められています。 だから、この歌
には希望も感じられるのです。
( 「野口雨情伝」野口不二子 講談社P73 )
「しゃぼん玉」 は、やはり雨情さんの悲しみと祈りが込められた詩なのだと思う。
3.11東日本大震災に遭遇して生家資料館を守った不二子さんが、痛手から立ち上が
っていかれる心の軌跡が、〈雨情の悲しみと祈りが込められた詩「しゃぼん玉」〉と、重な
っていくようである。
2013年3月17日 読売新聞日曜版の記事より
《 風 風 吹くな シャボン玉 とばそ 》
名言巡礼 失われた命 思いをつなぐ
読売新聞の記事(文・松本 由佳)では、「しゃ
ぼん玉」は長女みどりがモデルとされるとして、
震災に遭われた不二子さんの言葉を紹介して
いる。
「 多くの命が失われたけれど、忘れないよ、
無念がらずに思いをつないでいこうよ、雨情
がそう励ましてくれているように感じます 」
また、野口家で見つかった新しい資料の紹介
も、記事にあった。
2005年、野口家で驚くべき文書が見つかる。 1919年(大正8年)、雨情が一切の
財産を放棄し、貴殿に任す、としたためたヒロへの誓約書だった。 <貴殿ハ男子同様
ノ権利行動致ストモ異議ナキ事> を誓い、子供たちの養育を託している。 ヒロはそれ
を、タンスの一番下にあった帯に縫い付けていた。 離婚後に交わされた多くの手紙も
発見された。 不二子さんは、ヒロが実家に戻らなかった理由と、二人の絆の強さを知
った。
雨情とヒロが協議離婚した後、 交わした書簡は約60通。 雨情が昭和20年に他界
する直前まで、家の財産の管理、こどもの教育、結婚、日常の暮らしの出来事など、
手紙をやりとりしていた。

このような資料の発見において、
雨情とヒロは、お互いに相容れない
ため心が通わなかった、とするのは
一面的であり過ぎる見方なのだろう。
確かに、詩人としての野口雨情は、
つる夫人の元で花開いていったが、
家制度の下で旧家を守る責任を負
っていた生活者として、雨情の代わ
りに名家・野口家の家名と子どもを
守ったのは、高塩ヒロさんであった。
そこには、紆余曲折を経て、二人に
しかわからない絆が結ばれていった
ことだろう。
誇り高き高塩ヒロさんの生涯である。
ところでこの記事には、作家の瀬戸内寂聴さんが10歳の頃、 生れ
故郷の徳島で雨情さんの講演を聞いたと、 いう記述もある。
「 目がキラッとして鼻筋の通ったハンサムだった 」 とのこと。
大正11年生れの寂聴さんが10歳とは、昭和7年頃。
ハンサムボーイ大好きの文化勲章受賞作家、寂聴さんの少女の目は、
もうすでに詩人としての評価を得ていた雨情のオーラを、しっかい捉え
ていたのだろう。

茨城弁でとつとつと話し、故郷の風景や自然を詠い続けた雨情さん。
「民謡詩人、童謡詩人・野口雨情」だけでなく、熱い涙の流れる「船頭小唄」の作者としても、
華を咲かせ続けてほしいものと思う。
~ 雨情の里へ ~完了