関東紀行小さな旅~ 雨情の里へ ⑦ ~  | 満天の星Lovelyのブログ

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60周年をあれほどに輝かせながら61周年へと繋げていかれた舟木さん、本当にお見事でした!
2023年もこれからもずっと、素晴らしい夢時間を頂けますように・・・。

                 関東紀行小さな旅 

                ~ 雨情の里へ  ⑦ ~ 
 

             少し遡って、雨情とつるの 新生活の頃から、、、                                                                                        

                     雨情の水戸時代

                     《大正7年10月~大正9年6月》 

           大正7年10月 雨情は、湯本から水戸へ出て中里つると結婚  36歳
           着物2~3枚、辞書2冊、ウォルサムの懐中時計 所持金少々


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     雨情とつるは、つるの母が経営していた下宿屋 「対紅館 」
           で新生活を始めるが、生活費は 『茨城少年』 の童謡の選者
           の報酬と「東京日日」「大阪毎日」 へ書いた童謡の原稿料で
           あった。 雨情とつるは、豊かでなかった生活の中で、友人や
           知友が訪れると酒や肴で歓待し、 西條八十と初めて会った
           のも、 この「「対紅館」であった。   
                  
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       八十は預かった詩を東京の
    文芸誌に持ち込んだり、

           童謡雑誌 『金の船』 へ雨情を紹介したりした。 
     大正8年11月、『 金の船』 創刊号 (定価20銭、10,000
     部発行) に、 雨情の童謡 「鈴虫の鈴」 が掲載された。

                                                                                                 
                          《 東京へ・・・ 》     

                      
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     大正9年3月、雨情は 『金の船』 童謡欄の選者と
          なった。                                                        
          大正9年6月、童謡雑誌 『金の船』 編集部員として
      勤務のため、上京。
     7月14日、西條八十らの発案により、雨情の中央
          詩壇復帰歓迎会が日本橋「末広」で催された。
    
     『 野口雨情郷愁の詩とわが生涯の真実 』 の編者、野口
     存彌(のぶや)氏によれば、 雨情は6月上京して
     豊島区田端の理髪店2階に住み、『金の船』 編集
     部に起居のあと、8月下旬、西巣鴨折戸に転居と
     ある。
                                                          (P274 年譜)


            従って、雨情は6月に一足先に単身上京し、8月下旬につる夫人と前年9月に生れ
      1歳に満たない香穂子を呼び寄せたと思われる。  
                               
       大正9年 9月・・・ 『金の船』に「十五夜お月さん」を発表。
                                         雨情を中心として「東京童謡会」が結成された。
             12月・・・西條八十が紹介した雨情の2編の民謡詩が『文章世界』 に掲載
                                         され、驚異的な旋風をまき起こした。


                         《 特別な年 大正10年 》

                    大正10年 3月・・・「船頭小唄」の楽譜が山野楽器店より発行。

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       6月・・・童謡集 『十五夜お月さん』 を出版。
          7月・・・「七つの子」を 『金の船』 に発表。
              12月・・・「青い眼の人形」を 『金の船』 に発表。
               「赤い靴」を 『小学女生』 に発表。

                    恒子 誕生
 

     この年、童謡・民謡を普及するための活動を開始した。
     全国各地への講演旅行が多くなり、この活動は国内のみならず、
     当時の台湾・朝鮮・満州・蒙古にまで及んだ。 
    「金の船」 
  大正10年7月号        新民謡作品も全国各地で数百篇に上った。

            
       ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~

     「船頭小唄」(原題「枯れすすき」)は、大正7年秋に作られていたようだが、「七つの子」
     の詩の着想を得た時期が25歳の頃と思われるので、まずは「七つの子」について・・・


                                           《 七つの子 》  


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               大正10年・・・「七つの子」を 『金の船』 7月号に発表。

     童謡「七つの子」の原型は、明治40年、雨情25歳(前年の明治39年、長男雅夫誕生)、
     北海道放浪の時代に研青会より刊行された 『朝花夜花』 (野口不二子氏によれば月刊
     民謡詩集、 喜早哲氏によれば月刊パンフレット詩集) 第一編 に収められた 『 山烏(やま
       がらす) 』 にあるとされている。
     

                                  『 山烏 』
                                      烏なぜ啼く     (7)音
                                      烏は山に      (7)音
                                      可愛い七つの   (7)音
                                      子があれば     (5)音

    
      この作品は7・7・7・5音の俚謡(りよう・さとうた)の韻律によって成立している。  しかし、型
            式は俚謡であっても詩想からみれば童謡であり、 これは民謡であるのと同時に童謡で
            もあるということになる。  「七つの子」 は帯ときの式を迎えた七歳の女児を指している
      が、 この「 山烏 」 が雨情が民謡と童謡の詩人として確立していくうえでの原点としての
            位置づけを持つものとなった。
      (『 野口雨情郷愁の詩とわが生涯の真実 』 の編者、野口存彌(のぶや)氏による  P280 


                    《 雨情長男・雅夫の思い出 》 から

      明治44年~大正3年、 雨情は母の死を契機に再び郷里に戻り、家の植林や山林管理
      をしていた。 これは雅夫が小学校に入学したばかり、数え年7歳の頃の思い出という
      ことだから、大正2年、雨情32歳の頃か。

           雅夫を連れて山に入ったときのこと、二人で杉の子を植え、弁当箱に小川の水を汲んで
      きて、杉の根元に何回も水をかけた。
      山小屋の周辺にはカラスガ無数に飛んでいた。 一羽のはぐれカラスが飛んでくると、雨
      情は雅夫に 「あのカラスはお父さんのカラスを探しているのか、 お母さんのカラスを探し
             ているのか、どちらだと思う」と聞いた。 雅夫はしばらく考えて 、「 父さんとの別れの日が
             近ちにあるなあ」 と思った。  ~~やがて本当に父と子の別れが訪れた。  一緒に植え
             た杉の子の成長を、雅夫は何回も見に行った。  童謡「七つの子」の原風景は、七歳だっ
      た息子との思い出がベースになっている。
                                 (参考:野口雨情伝 野口不二子著 P85)


                                         《 七つの子論争 》 
                       「七つの子」の七つは七羽か、それとも七歳か?

              童謡 「七つの子」 が大正10(1921)年に生れて90余年、以来国語学者や児童文学
       者によって、このことは様々に論じられてきた。 童謡雑誌においても七羽のカラスが
              かれているし、 現に磯原駅前のからくり時計でも、 巣の中には七羽の子が口をあけ
              いる。  雨情や童謡などの文学愛好者でなくても、 いかに多くの人たちがこの歌の謎に
              関心を寄せているか、、、ネットの時代ではなおさら様々な謎解きが飛び交うこととなる。


         七歳のカラスでは可愛い子ともいえないだろうし、
                                             カラスは実際には7羽も子を産まない、、、。

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       雨情は、植林中に群れから離れた烏を見て 「あの鳴き声
       は、子どもがかわいいといっているんだ」 と言ったというこ
       とであるが、、。

       (「愛唱歌ものがたり」読売新聞文化部    P41
                            2003年 岩波書店 )

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       泉漾太郎(ようたろう)氏が雨情に
    「『七つの子』は『山烏』の作り
       代えたものですか?」 と質問
       すると、「そりゃァ漾さんの判断
       にまかせやんすよ、読んでくれる人が勝手に決めやんしょ
       と答えている。

       (喜早 哲著 「歌のふるさと紀行」 
                日本放送出版協会昭和61年 P74

              


             「七つの子」の原詩が「山烏」であるかどうかということも、雨情によれば「読んでくれる
             人が勝手に決めやんしょ 」と いうことらしい。 とすれば、巣の中の烏が7歳であろうと、
             巣の中に七羽の烏がいると解釈しようと、答を出す必要はないということのようだ。


                                  《 雨情は何を歌うか 》
      子どもがかわいい・・・

              「離れれば離れるほど深まる親子の情。 『 七つの子 』 は、それを歌っています。」
      孫娘の口を借りて今、雨情が真意を語っているのだと思った。
                                                                               (「愛唱歌ものがたり」P41)
         
            十数年前、不二子氏が読売新聞記者・永井一顕氏に語った 《 「七つの子」 に表わす
      雨情の真意 》 である。


               「山烏」所収の 『朝花夜花』 が発行されたとき、雨情はそろそろ25歳
                  で漂白の身ではあったが、ひろさんとの間に雅夫がいた。
           39歳で「七つの子」を発表したとき、雅夫と、その後生れた見晴子は
                  ひろさんの元に残していたが、つるさんとの間に、香穂子がいた。 
                  恒子も誕生した。 一緒に暮らしていればもちろんだが、子どもが可
         愛い、、(雅夫の誕生2年後に生れ、すぐに亡くなったみどりも含めて)
                  離れれば離れるほど親子の情は深まる、、小学校に入学したばかりの
                  雅夫と山に行ったときのこと、、。


      土の匂いのする詩人のこの情の篤さと深さが、 ” 野口雨情 の世界” を形成し、
      周りの人を惹きつける。

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      雨情に 惹きつけられていた方たちのお一人、泉 漾太郎氏(塩原温泉和泉屋先代主人・
      詩人)について、、

      大正10年、漾太郎氏が中学生の頃、文芸コンクールに応募した童謡が一等に輝いた。
      その選者が野口雨情だったため、 これが縁で漾太郎氏は雨情の弟子となり、 雨情も
             度々 『 和泉屋旅館 』を 訪ねるようになったということである。

      和泉屋の先代館主は筆名を泉漾太郎(ようたろう)と申しまして、宿屋稼業ながら文筆、
      主に詩文を綴ってまいりました。  殊に中学二年生からの野口雨情先生との師弟の交
             わりには多くのエピソードが残されております。 若い日の親友に竹久夢二がおり、終生
             義兄弟でとおした友に山岡荘八がおりました。  泉は近年まで栃木県文化協会の会長
      を務めましたが、平成8年10月他界しております。
                                                 (和泉屋HPより)


      生前、漾太郎氏が雨情から贈られた貴重な直筆の掛け軸は、昭和55年に雨情の故郷
      北茨城市に「野口雨情記念館」がオープンした折り、すべてを寄託されたということであ
      る。

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             舟木さんと泉 漾太郎氏 のご縁 

               

      NHK大河ドラマ「春の坂道より」
          『 春の坂道 』
                        昭和46年8月
  
      作詩: 泉 漾太郎
      作曲: 古賀 政男
 
      ♪ 照る日 曇る日 ふたつはあれど
                    ~ ~ ~
        ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
   
    雨情さんの詩に流れる厚い情愛、、、大正10年からは全開になるがごとく結実していき、
     ” 雨情の世界 ” が大きく花開いていった。