関東紀行小さな旅~ 雨情の里へ ⑥ ~  | 満天の星Lovelyのブログ

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60周年をあれほどに輝かせながら61周年へと繋げていかれた舟木さん、本当にお見事でした!
2023年もこれからもずっと、素晴らしい夢時間を頂けますように・・・。

                                   関東紀行小さな旅 

                ~ 雨情の里へ  ⑥ ~   

イメージ 1     「野口雨情
      郷愁の詩とわが生涯の真実
                             野口 雨情  著
          野口 存彌(のぶや)
      2010年 日本図書センター

    雨情とつる夫妻のご子息で、近代文学研究
      者である野口存彌(のぶや)氏が、雑誌に掲載
      された雨情の文章や書簡をもとに雨情自伝
            として編纂されたもの。
  
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    「 郷愁と童心の詩人
                野口雨情伝 」
               野口 不二子 著
       2012年      講談社
               野口雨情 生誕130年記念出版
       CD 20曲付き

     雨情と先妻ひろ夫妻の長男・雅夫氏を
        父とし、雨情の孫として生れた著者が、
       雨情の詩の背景や人柄、ありのままの
       姿などを表したもの。

           雨情直系のお二人が出版された書籍のサブタイトルには、図らずも 「郷愁の~  」
       が共通していた。 海辺の潮風、 山や土のにおい、見あげた空、 幼き日のお月見団       
               子 、欲しかった大きなお人形、 ピカピカの赤い靴、、、、わかりやすい詩の中に通う 
       ” 情 ” が、一人ひとりの ” こころのふるさと ” を呼び寄せ、 やがて幸せなまどろみ
       へと誘っていく。 兎も狸もカラスも、 雨に濡れたお嫁さんも、 みんなみんな出ておい
               で、、。

       以下は、 主として野口不二子著「 郷愁と童心の詩人 野口雨情伝 」を参考に、雨情
       さんに近づいてみた。

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    磯原海岸(北茨城市)の景観が
    大いに気に入った徳川光圀は、
    磯原港に休憩所となる一亭を構
    え 「観海亭」と名づけてしばしば
    訪れた。 後、水戸藩郷士であっ
    た野口家に下賜された。

    「観海亭」は江戸時代のことでも
    あり、平屋だったと思われるが、
    この雨情生家は、 不二子氏によ
         れば築140余年、明治12年頃、
    問屋を営んでいた野口家
    全代に、 雨情の父量平に
         っられた。 当時としては
         し二階建てで、同じ屋敷内に本
    家、分家、新家などを構え、 量平
    は一族としてしっかりと家を守って
    いた。

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      明治15年、そのような「磯原御殿」に、量平・テルの長男英吉として結婚7年目に生れた
      雨情は、名家野口家の広い屋敷で宝物のようにして育てられた。 かなり自由に育てられ
             たが、自由の中にもきちんとした躾や子供の心を大切にした両親の教育により、 雨情の
      人間性のベースがこの幼児期に育まれていった。

      気のやさしい恥ずかしがり屋の少年は、あまり学校が好きではなく、尋常小学校に入学
      しても近くの山に行って本ばかり読んでいた。 高等小学校では、いっそう学校嫌いにな
      っていたが、 成績は良かった。 

      明治30年、雨情は上京。 伯父である衆議院議員野口勝一の許から東京数学院中学に
      通った。 文学的素養にとみ、回覧雑誌へ掲載のために 民謡風の詩作をしていたと言わ
      れている雨情であるが、内村鑑蔵や幸徳秋水の思想やイデオロギーに出会ったのもこの
      頃である。 勝一の長男・茂吉(しげきち)とともに、若者らしい正義感で語り合い、青春時代
      を輝かせていた。

        (19歳)
       明治34年、 東京専門学校高等予科文学科(現早稲田大学)に入学し、生涯の恩師と
       なる坪内逍遥に出会う。 入学当時、北原白秋、三木露風なども集っており、 雨情は1
              年で中退し、文芸雑誌に詩の投稿を始める。

                                                                                                                 
    (22歳)                                              イメージ 7
    明治37年、父の死により帰郷し家督相続をする。雨情は
    父の残した借財の整理に追われることとなった。11月、
    栃木県の旧家で資産家の娘、高塩ひろと結婚する。この
      縁談は 雨情気が進まないままに父の存命中からあったが
      父親の死によって早められた。 結婚以来、 一度も理解し合
      えることのなかっ雨情とひろ、 とされてはいるが、、
                                     長谷川 稀世
                                      (高塩 ひろ)                                   
                                                   

                                                                                                      

 イメージ 8           喜連川(きつれがわ)藩の士族の三女、 ひろは、 喜連川から二日
      かけて磯原に着き、  白無垢で馬の背に揺られながら、花嫁行
      列で野口家大門の前まで来た。 大門の前では、楠木氏を出
            自とする野口家の家紋 「菊水」 のついた大きな提灯を掲げて、 
            雨情をはじめ村人たちが今か今かと待ちわびて、ひろを迎えた。

                             
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           大正14(1925)年 発表   (「コドモノクニ」大正14年1月号) 

         「 雨降りお月さん 」       曲: 中山 晋平

   雨降りお月さん 雲の蔭
   お嫁にゆくときゃ 誰とゆく
   ひとりで傘(からかさ) さしてゆく
   傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
   シャラシャラ シャンシャン 鈴付けた
   お馬にゆられて 濡れてゆく
                           いそがにゃお馬よ 夜が明けよ
                           手綱(たづな)の下から ちょいと見たりゃ
                           お袖でお顔を 隠してる
                           お袖は濡れても 干しゃ乾く
                           雨降りお月さん 雲の蔭
                           お馬にゆられて 濡れてゆく

        雨情がこの詩を発表した頃、残念ながらもう、ひろさんとは生活を共にしていなかっ
        た。 しかし、馬の背に揺られて自分のもとにやってきた白無垢の花嫁、、ひろさん
        の美しさもさることながら、そ輿入れの晩の美しい情景は、いつまでも雨情さんの
        脳裏に焼きついていたに違いない。

        この曲を聴く度、子供心に何だか悲しみが漂ってくるようであったが、、本当に馬に
        揺られてお嫁に来る花さんがいたのだろうか、いつの頃のことだろう、とずっと不
        思議に思っていた。その漂ってくる”悲しみ” を言葉で表すことは出来なかった子供
        時代であるが、これは雨情さんのお嫁さんの輿入れの情景が昇華されているらしい
        詩だとわかってくると、当時の女性が結婚に臨んだときの悲しみや切なさが具体的
        に理解されてきた。
        
        苦労知らずの娘でいられることへの諦めや、これから先の新しい生活への不安。
        それらが大きく渦巻いていたに違いない。 これが ” 悲しみ ” の大部分。  しかし
                  同時に、 悲しみや切なさの中にも、一筋でもいいから微かな夢や希望を見出し
        たいのが、ひろさん心境であっただろう。 また、後年、雨情がひろさんを思い
        遣った心境でもあっただろう。

        一緒には暮らせなくなった雨情とひろさんではあるが、雨情の追憶は、 雲に隠れて
        見えないおさんやシャラシャラシャンシャンと鳴る鈴の音が響くなかで、 悲しみや
        不安に夢や希望がくるまれた詩となっていった。 十数年の時を経てみれば、 それ
        はあたかもファンタジーの世界から届いてくる淡い ” 微かな哀しみ ”。
        いやもう、くるまれているのは悲しみや切なさを透過した ” 哀しみ ” のほうかも知れ
                 ない。 哀しみをくるんだ夢や希望を、雨情さんは子供にも大人にも届けてくれた。 

        
         
      (24歳~27歳
    明治39年~42年、雨情は樺太に渡ったり、新聞記者として北海道へ渡るなど、2
    年余り漂白を続ける。「小樽日報」に勤めていたときには、同僚に石川啄木がい
    た。主筆排斥運動に破れて退社したため、同僚としては1ヶ月足らずで終わった。
    このころ、妻が長女みどりを出産したが、1週間ほどで夭折。北海道で6つの新聞
      社を転々とした後、明治42年、一旦帰郷するがすぐに上京。
  

イメージ 3      明治40年。 25歳。
      「小樽日報」 での主筆排斥運動の渦中、雨情が啄木の一首に
      助言したエピソード

               東海の小島の磯の白砂に    (渚辺なぎさべ
       我泣きぬれて
       蟹とたわむる            (遊べり)
            
      「 啄木さん、これも良(よう)がんしょうが、渚辺は白砂に直した方
                が良いやんすね。  それに、遊べりでは東海の雄大な白砂を
      丹羽 貞仁                            生かすことはできやんせん。  そこは、 たわむると書き直した
   (石川 啄木)                         方が良いと思いやんすがね。」
                                              
                  かくてこの一首は、歌集「一握の砂」 の中でも最も有名な歌となり、石川啄木を代表  
         する作品となっていった。

      (29歳~32
      明治44年~大正3年、 母の死を契機に再び郷里に戻り、家の植林や山林管理、漁業
      組合など村の公職にもつくが、詩作活動を続け、雑誌なども刊行する。 しかし、 文学
      への執着は捨てきれず、悶々とした生活を送る。

イメージ 10                                                             
              (33歳)
      大正4年、湯治のため訪れた湯本温泉の「柏屋」で暮らすうち、
      妻ひろと協議離婚。
      雨情は長男、 次女を引き取り育てることとなり、 二児をつれ
      て詩作活動を続けながら「柏屋」に住む。

      長男雅夫は11歳、次女見晴子4歳。
      湯本の芸妓置屋柏屋の女将、明村まちは、雅夫と見晴子を
      大変可愛がったが、二人は母恋しさのあまり、家出を繰返す。

  葉山 葉子 (おまち)
                                    
                                                  イメージ 12            イメージ 11
    大人になった雅夫(竜 小太郎)と、見晴子
     (長谷川 かずき)が、
     「野口雨情ものがたり 船頭小唄」 の舞台を進
     めて行く。


    雨情は、高塩家に戻っていたひろの元にやっと二人を連れて行く。

イメージ 13     「 十五夜お月さん 」     
         作曲: 本居 長世

    十五夜お月さん ご機嫌さん
    婆やは お暇(いとま)とりました

    十五夜お月さん 妹は
    田舎へ 貰(も)られてゆきました

    十五夜お月さん 母(かか)さんに
    も一度 わたしは逢いたいな
 
     大正10(1921)年 「十五夜お月さん」発表

      ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~
      後年雅夫と見晴子の心象風景を雨情が大好きな月に託して綴ったとすれば、、
       母を恋しがる我が子の心情が、「十五夜お月さん」のモチーフになったとも考えら
       れる。

       「十五夜お月さん」は、日本の童謡の始まりといわれるようになり、雨情の童謡
       詩人としての地位を確立した。
      ~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~


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                    荻野目慶子(中里 つる)
       
             雨情は妻とも子供とも別れまちの芸者置屋で暮らすが、 落ち着かない日々を過ごす。 
      文学の道を落ち着いて歩むためにも伴侶を得たいと思い、 中里つると見合いをする。
      (この辺りは、舞台とは違っているようだ。)36歳と16歳という20歳もの年の差はある
      が、お互いに気に入り結婚が決まった。詩人として再出発するためのよりどころとして、
      雨情は「とても素朴な感じで、生れたばかりのような、ういういしさであった」つるを求め
      た。 別れた後も亡くなるまで雨情のことを気にかけていたまちは、 雨情の再婚の話を
      聞き、赤飯を炊いて喜んだということである。
       
      (36歳)
      大正7年、 水戸へ出て「茨城少年」の編集にあたりながら童謡作品を発表。
      秋、中里つると結婚。
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              (37歳)
      大正8年、 西條八十の紹介もあり中央の児童雑誌に童謡
      作品の発表を開始する。
                                          
                                                                                 
         柴田 侊彦                            山内 としお
   (中山 晋平)                                                             (西條 八十) 
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  ~東京では、西條八十や三木露風が童謡詩人として
                             活躍中~                                
                  林 啓二                イメージ 16
                  (三木 露風) 

雨情は、地方から童謡の普及に参加
した。 しかし、前途は暗く希望も湧かず、の水戸時代。
大正7年秋、雨情は 「枯れすすき」(後の ” 船頭小唄” ) を作詩し、  中山晋平に作曲を依頼した。 あまりに暗い詩のため、晋平の曲が出来上がったのは、1年半後だった。

雨情はすでに37歳。すっかり出遅れ、果たして詩人として
再び世に出ることが出来るだろうか。焦燥と失意にくれ、酒で悲嘆を紛らわす日々だった。


~大正8~9年 雨情は西條八十らの助力により、約10年      
      のブランクを埋め、中央詩壇へ復帰していった~

         (39歳~43歳)

        大正10年、「十五夜お月さん」 「七つの子」 「赤い靴」 「青い眼の人形」 を発表                                                                                                     
          大正11年、「コドモノクニ」に童謡作品の発表開始。  『 船頭小唄 』 大ヒット
                 「黄金虫「しゃぼん玉」発表。

                           ~ 大正12年 関東大震災 ~

              大正13年、「あの町この町」「兎のダンス」「波浮の港」證城寺の狸囃子」
              発表。

                     大正14年、雨降りお月さん」を発表。
                                                               
     
          大正9年8月、雨情は単身上京、まもなくつるを水戸から呼び寄せた
                   雨情とつるとの間には、まだ1歳に満たない女の子がおり、相変わらず貧窮の
                   暮らしは続いていたが、詩人野口雨情は大きく花開 くときを迎えていった。
   
                                                                                                 続 く