西 條 八十 と 舟 木 一夫 ① | 満天の星Lovelyのブログ

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60周年をあれほどに輝かせながら61周年へと繋げていかれた舟木さん、本当にお見事でした!
2023年もこれからもずっと、素晴らしい夢時間を頂けますように・・・。

                 西 條 八十 舟 木 一夫  
                               ~ 「花咲く乙女たち」での出会い~
 
 
 
         いよいよ西條八十と、その大詩人を「西條先生」として敬愛してやまない
     舟木さんとの出会いを辿っていくところまで、漕ぎ着けてきた。
 
 
    西條先生と舟木さんの最初の接点は、デビューの翌年発売されたこの レコードのB面、
      「さあさ踊ろよ」のように思われる。
 
 
     島倉千代子さん、北原謙二さん、青山和子さん、コロンビア・ローズさんから本間千代子
            さんまで、当時の若手コロンビア歌手総出演といった企画のレコードである。 
            そのうち舟木さんはB面での参加で、レコードジャケットの右端に和服で踊る姿が見える。
 
 
     
イメージ 1       ニッポン音頭    昭和39年3月
       作詞:西條八十  作曲:古賀政男
 
 
 
   さあさ踊ろよ
        作詞:西條 八十  作曲:市川昭介 
 
 
   しかし、この曲は舟木さんのソロの曲ではない
    からだろうか、「B面コレクション」にも収録され
       ておらず、(国立国会図書館所蔵資料)となって
    いる。                         
                                                              
 
      どのような曲かは想像するしかないが、昭和50年に発売された「日本晴ればれ音頭」のよう
      な曲かな、と思っている。
                             (昭和50年記念 作詞:石本美由起 作曲:古関裕而 
                                    舟木一夫 美空ひばり 島倉千代子 都はるみ 大川栄策)
 
        このレコード(発売:昭和39年3月)における「西條八十と舟木一夫の接点」といっても、それ
     は西條八十作詞の曲を若手コロンビア歌手として歌った5人のうちの一人という、あるかなき
     かのほんの小さなささやかな接点であった。
     ただし、デビュー翌年であるから、舟木さんの勢い、活躍は凄まじかった。
 
      
     昭和39年のシングルレコード発売15枚
     昭和39年1月発売・・・「あゝ青春の胸の血は」「叱られたんだね」
 
     昭和39年3月発売・・・「君たちがいて僕がいた」「涙の敗戦投手」
                    「ニッポン音頭・さあさ踊ろよ
 
     昭和39年4月以降・・・「貝がらの唄」「東京新宿恋の街」「まだ見ぬ君を恋うる歌」「織姫音頭」
                    「夢のハワイで盆踊り」「アロハ・オエ」「おみこし野郎
                    「花咲く乙女たち」11月)青春の大阪」「右衛門七討ち入り」
 
 
     劇場公演: 国際劇場(初日、一宮からの後援会列車「舟木一夫号」)、 大阪劇場、
             名古屋・御園座、 東京・日本劇場 
 
 
     
     映画出演6: 「仲間たち」「君たちがいて僕がいた」「夢のハワイで盆踊り」「続高校三年生」
               「あゝ青春の胸の血は「花咲く乙女たち」公開1965.1)
             
     テレビ出演: NHK大河ドラマ「赤穂浪士」矢頭右衛門七役 (討ち入り場面撮影は8月)
 
 
 
          といった具合に、舟木さんのデビュー翌年は驚異的強行スケジュールであったが、西條
     先生は、詩作の面でお弟子さんに当たる門下の丘灯至夫氏にこういわれていた。
 
                                                                    イメージ 2
     筒井清忠氏と丘灯至夫氏夫妻との対談から。                
 
                                                               
      「西條八十と昭和の時代」 (2005年 編著:筒井清忠
                           ウエッジ選書 P123) 
 
                                                                                    
      ―――西條先生は晩年、舟木一夫の歌を書かれました
           ね。                              
                                                                               
         「高校三年生」で舟木が半年で一躍スターになって、 
           ブームを起こしたわけですね。それで西條先生から
           「 いい歌作ったな、お前 」 と私は言ってもらった
                       「高校三年生」を作ったディレクターはまだ大学でたて
           の男で、西條八十という大物にはとてもお願いできな
           い。それが西條先生のほうから、「俺にも書かせろよ」と、こうなった。
 
 
       ―――舟木さんって人が西條先生にとって・・・・・                                                   
 
         合うんですよ、先生の作風が舟木に。やっぱり相性っていうのがありましてね。
 
 
 
       昭和39年から40年に掛けての2年間、丘先生と栗山ディレクターはしのぎを削って
       仕事をやり合っていた。修羅場ではあったが、いい仕事が出来た。
 
               おそらく西條先生のお話が、丘先生から栗山ディレクターに伝えられたのであろう、
       5月のある日、栗山ディレクターと舟木さんはご挨拶と新曲の作詞をお願いするために、
       成城の西條先生宅を訪ねた。 この日のことは、舟木さんの「風来坊」や大倉明著「青春
       賛歌」にも書かれている。「流行歌西條八十物語」(吉川潮著・新潮社)でも、小説仕立て
       とはなっているが、ほぼ同様のことが記されている。
 
                                                              イメージ 3
       P306より
       昭和39年5月、舟木が担当ディレクターに伴われて西條家
       へ挨拶に来た。屈託のない若者はいきなりこう尋ねた。
       「先生はこの数年、ほんの数曲しかお書きになっていません
       ね。どうしてなんですか」
       側でディレクターがはらはらしているが、八十はそんな舟木に
       好感を抱いて率直に答えた。
 
       「それはね、一夫君。仕事をしてお金を稼いでも、それを使っ
       てくれる人がいなくなっちゃったんだよ。」
       「どういうことですか」
       「僕の奥さんは大変な浪費家でね。 こんな大きな家を買った 
                り、アメリカの大きな外車を買ったり、稼いだお金をジャン
                ジャン使ってくれたんだ。ところが、その人がなくなってしまい、仕事をしてもお金の使い
                道がない。使わないお金をむきになって稼ぐことはないだろ」
      
       舟木は納得したようで、微笑みながらうなずいた。八重歯が愛らしい。この若者のため
       にいい歌を作ってやろうと思った。
 
       
イメージ 4       「青春賛歌」(NO.32 P101) での記述によると、
       西條邸では栗山ディレクターの方が緊張していたよう
       である。
 
       栗山は学生時代に日欧の近代文学にはまり、アルチュ
       -ル・ランボーらを日本に紹介した仏文学者としての
       西條から多くを学んでいたこともあって、古い玉突き台
       が見える古風な応接間に通されたときには、異常な緊
       張で震えてしまった。そんな緊張も知らず、舟木が切り
       出した。     
             
       「先生、ここ数年余りお仕事をなさっていないのは、どう
        してですか」                         
       余りにも遠慮のない質問に、栗山は「現実に仕事をされ
                            ているのに認識不足じゃないか」と思いつつドキドキして
                            聞いていたが、72歳の西條はニャッと笑って答えた。
 
                            「――― ――― ――― (その理由を答えた後) 
                                             これはつまらないことだよ」
       
       確かに、西條八十の作詞曲数は少なくなっていた。 
       昭和37年6曲、38年11曲。
       その後も39年6曲、40年2曲、41年3曲、42年12曲、43年7曲、44年4曲であった。
 
 
       西條八十は、奥さんがジャンジャンお金を使ってくれたと話されたが、もちろん、先生の
       仕事がし易いようにということで西條家を一人で切り盛りしていた奥様が、ここぞという
       ときの驚くばかりの決断力でもって、大きな家や車を用意されたことを指すのだと思う。
       舟木さんとのやり取りで話されたことは、大詩人、大御所であることとは全く別に、妻を
       亡くた後の老境に入った一人の家庭人としての、つのる寂寥感がかえって深く伝わ
       てくる言葉のように思えた。 
 
 
       ともかく、西條先生も率直な舟木さんに好感を持って下さったようであるし、栗山氏は
       大御所に作っていただける” 舟木一夫の曲 ” のタイトルを、先生に提案した。
       暇を見つけては大きな書店に出かけて本の背表紙を眺め、歌のタイトルになるような
       言葉を研究していた栗山氏が提案したのは、プルーストの小説「花咲く乙女たちのかげ
       に」を参考にした「花咲く乙女たち」であった。                           
                                    
                                                              
 
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       臆することなく大詩人の懐に飛び込んでいった
       舟木さんの、西條八十の第一印象は、  
 
       
       素敵な心の襞を持っている人。
 
       この方のお書きになる詩なら、絶対
       お客さんに感動を与えてくださるだろう、
      そう確信した。 
 
 
            (「風来坊」 忘れ得ぬ人たち 
        大詩人・西條八十先生 P111~112)
 
 
                                                                   
       舟木さんの ” 忘れ得ぬ人たち ” の最初の章が、「大詩人・西條八十先生」であった。
       古希を過ぎてなお、” 素敵な心の襞 ” から瑞々しい言葉を繰り出していく詩人。
       お若い頃はさぞかし、舟木さんのように、、、。                              
                                                                  
 
       
       
       西條八十の人気
       大正・昭和初期にかけての抒情詩人は、現代の映画スターやタレントも及ばないほどの
       人気を集めていたという。中でも西條八十は細おもての美男ぶりが詩と相乗効果をなし、
       若い女性の思慕の対象となっていたそうだ。西條家には、連日八十の詩集を持った女性
       が訪れ、ファンの女性たちを捌くのに夫人が苦労したという逸話がある。
       ラヴレターの量も半端ではなかったらしい。
                       ( 「追憶の作家たち」2004年 宮田毬栄著 文春新書P43 )
 
 
       八十の若い頃は、女性の憧れの的であり、書斎が贈り物の花で一杯だった。
       しかし、咲き誇る花のような乙女たちも、やがてはいつか散ってしまう、、。花も乙女も
       いつまでもそのままではない。だからこそ余計に美しい。
       女性を花に喩える八十得意の発想で、まもなく「花咲く乙女たち」の歌詞が届けられ、
       9月発売と同時に大ヒットした。
       
       
 
イメージ 6
        花咲く乙女たち」
          作曲:遠藤 実
 
        カトレアのように 派手なひと
        鈴蘭のように 愛らしく
        また忘れな草の 花に似て
        気弱でさみしい 眼をした子
        みんなみんな どこへゆく
        街に花咲く乙女たちよ
        みんなみんな どこへゆく
        街に花咲く乙女たちよ
 
  あの街の角で すれ違い
   高原の旅で 歌うたい
     また月夜の銀の 波の上
      ならんでボートを漕いだひと
       みんなみんな 今はない             黒髪をながく なびかせて
        街に花咲く乙女たちよ               春風のように 笑う君
         みんなみんな 今はない               ああだれもがいつか 恋をして
           街に花咲く乙女たちよ                はなれて嫁いで ゆくひとか
                                         みんなみんな 咲いて散る
                                          街に花咲く乙女たちよ
                                           みんなみんな 咲いて散る 
                                             街に花咲く乙女たちよ
 
 
      その昔、二十歳の春を謳った近代短歌:与謝野晶子の場合
     その子二十 櫛にながるる黒髪の おごりの春のうつくしきかな
                                     (1901年「みだれ髪」)
 
      抒情派詩人・西條八十の詞の場合
      黒髪をながく なびかせて   春風のように 笑う君                                                                                                              (1964年「花咲く乙女たち」)
      花咲く乙女たちの華が失われていく悲哀を味わったのは、他でもなく西條八十自身であり、
      失われていくからこその美しさの極みを、二十歳前の孫のような舟木さんに綴ってくれた。
      初恋の君を忘れ得なかった八十にとって、”黒髪”には特別の思い入れ、拘りがあり、ある
      特別美しを表現する言葉の一つであったに違いない。
           
      現代短歌の俵 万智さんの場合
      二十歳とは ロングヘアーをなびかせて おそれを知らぬ春のヴィーナス
                                          (1998年 チョコレート語訳「みだれ髪」)
       ” 春のヴィーナス ” のロングヘアーは、もう漆黒の黒髪ではないようだ。 手入れの行き届いた艶
       のある髪は春の陽射しを反射して、” 元花咲く乙女たち ” 時代よりも、もっともっと明るく、軽やか
       に風に舞ったかも知れない。                                             
 
       
       
       私たちは、” 咲いて散ってしまった花咲く乙女たち ” ではあるが、 どこへ行くこともなくまた舟木
       さんのもとへ、まるで吸い寄せられるように集結してきた。残念ながら ” 黒髪 ” はなびかなくなっ
       てしまったが、遠藤先生のメロディと同じく ” 決して散らない花々 ” として、せめて周りに華やか
       な彩りと、えも言われぬかぐわしい香りを振りまきたいものである。
 
       そして、これからもますます ” 舟木一夫 ” を美しく飾ってあげたいもの、との思いを秘かに強め
       ながら、、、、いつものごとく、我がお財布と舟木さんのスケジュールとのにらめっこが続いている。