~ 江戸東京博物館 ~
~ 3 ~
観測史上に残る記録的な大雪の後、真冬の京都に出向いたが、その後、
2月の後半は舟木さんの 「 シアターコンサートin南座 」 にすっかり魅了さ
れるところとなった。ふれんどコンサートに続いて、♪ 津軽の海を越えて
いく渡り鳥 に引き寄せられていった有様は、さながら歌の翼にいざなわ
れていったようでもある。しばらく南座の余韻に気分良くたゆたっているうち
に、両国では「大浮世絵展」の幕が閉じられていた(総入場者数20万9142人)。
そうそう、舟木ワールドに突入する前は、浮世絵(展レポート)だって黄金期を
迎えるところだったのだ。
今一度、両国を訪ねてみなければ、、。
Ⅳ 浮世絵の黄金期
18世紀後半は、美人画と役者絵を二本の柱として浮世絵の黄金期と言うべき時期
が到来した。鳥居清長が考案した、八頭身に近いプロポーションの健康的美人が
隅田川や飛鳥山に遊び、喜多川歌麿の豪華な雲母摺(きらずり)を背景とした作品は
大評判となった。江戸庶民の憂さの晴らしどころ、歌舞伎小屋の舞台にたつ役者は、
憧れのスター。老若男女の支持得て、役者絵は浮世絵総版画数の半ば以上を占め
ていたのではないか、と考えられるほどであった。彗星のように東洲斎写楽が登場し、
姿を消していった。
鳥居清長「美南見十二侯(みなみじゅうにこう) 六月」 シカゴ美術館
左: 黒羽織の客と前掛け姿の仲居二人 右: 遊女と芸者がそれぞれにくつろいでいる
が語らっている。 姿
「美南見」とは、北の吉原に対する南の遊里、すなわち品川のこと。
吉原ほど格式ばらず、江戸市中を離れる気楽さ、海に面した風光明媚なところも
愛されて人気があった。吉原の営業を脅かすほどの繁栄となり、品川には華やか
なにぎわいが増しつつあったと想像される。
(参考:図録「大浮世絵展」P290 作品解説)
清長は役者絵からスタートしたということだが、本領はやはり「美南見
十二侯」「当世遊里美人合」などの美人画である。
「座敷の遊興」と副題が付いていることもあるこの作品にも、八頭身で
どっしりとした体つきの健康的な女性が描かれている。
江戸風俗図として今では貴重な資料にもなるが、当時はさぞ、男性
の視線を引き寄せた錦絵だったことだろう。
鳥居清長 「大川端夕涼」 大英博物館
大川端にくつろぐ女性たちを描いた清長代表作。
左端から 右
両国橋、 回向院の大きな屋根、見世物小屋 本所堅川(たてかわ)の入り口に掛かる橋や
の幟旗、 二階座敷に提灯を掲げた料理屋 その奥の木場も描かれており、彼女たちの
が並ぶ。 居場所を示す。
当時隅田川のこのあたりは大川と呼ばれていた。
紋付の振袖姿の娘の二人連れは、隅田川西岸の若い芸者の風俗で、前帯で、眉をそり、鉄漿
(かね)付けをした年増の女はその母親役である。
川沿いには簡易に建てられた水茶屋が並んでいたが、店の縁台には、着物の裾が乱れる
のも気にせず行儀悪く座る女客がいて、傍らには団扇(うちわ)を持った女が立っている。
忙しい店の娘は一人まだ暑そうにしており、茶托を持ったまま肩に掛けた手ぬぐいで汗を
ぬぐおうという姿である。
(参考:図録「大浮世絵展」P290 作品解説)
八頭身の美女が、振袖の袂を川風に揺らせてそぞろ歩く錦絵。
写実的な江戸風景に、野外へ出て遊楽する江戸名所での女性の群像を
配した鳥居清長の作風は、美人風俗画と称され、一世を風靡した。
隅田川を吹き渡る心地よい川風が、今にもこちらに吹いてくるようだ。
” 謎の浮世絵師・東洲斎写楽 登場!”
写楽の活動時期は1794~95に掛けての約10ヶ月。
本来なら、鳥居清長(1752~1815)から喜多川歌麿(1753~1806)へと
浮世絵美人画が頂点を極めていく流れのあと、写楽がいささか異端の
浮世絵師として紹介されることが多く、この展覧会でもそうなっている。
しかし、写楽のわずか10ヶ月の活動時期は、清長・歌麿の活躍時期に
重なるし、どうしても清長の後に写楽の役者絵を持ってきたくなった。
それというのも、この「大浮世絵展」を見に行きたかった第一の理由が、
写楽のあのぎょろりと目をむいた異形の役者絵に、ぜひ直に対面した
いと思ったからである。
〔作品解説〕
重要文化財
東洲斎写楽
3代目大谷鬼次の江戸兵衛
大判錦絵 1枚
寛政6年(1794)
東京国立博物館
雲母摺の暗い背景に浮かびあがる、鷲鼻の印象的
な相貌。口元を結び、着物から手を突き出したポーズ
で見得を切るのは3代目、大谷鬼次演じる江戸兵衛
である。写楽の第1期の大首絵の中でももっともよく
知られた、強烈な印象を残す1図。
全体の色数は多くないものの、描線は墨と薄墨とが
使い分けられ、特に口の描線ではその主峰が効果を
生む。寛政6年5月河原崎座「恋女房染分手綱(こい
にょうぼうそめわけたづな)」に取材。
(図録「第浮世絵展」P298)
しかし 目指す作品が見当たらない!
係りの方に伺ってもやはり、ない。 残念!
展示期間は1月15日(木)~1月26日(日)間での12日間、数日前に終了
していた。 これだけ有名な作品なのだから、きっと全期間展示されるだ
ろうと甘く考えていたのが失敗だった。
懐から前へパッと突き出て、不思議な形に広げられた両手。盗賊の頭・
江戸兵衛から放たれる驚異的な悪のエネルギーに、触れることが出来
なかった。展示替えにはよくよく気をつけたいものだ。
(この作品は、3/11(火)~5/6(火)まで開かれる名古屋市博物館では、4/23から最終
日までの2週間の展示のようである。)
1月30日、展示されていた写楽の作品は、大英博物館
からの 3代目市川高麗蔵の志賀大七
4代目岩井半四郎の重の井、
シカゴ博物館からの2点の、計4点であった。
〔作品解説〕
3代目市川高麗蔵は、後に
5代目松本幸四郎を襲名。
よく通った鼻筋で「鼻高幸四郎」
と呼ばれ、長きに渡って江戸の
劇界で活躍する名優となった。
〔作品解説〕
4代目岩井半四郎の乳人(めのと)重の井を描いた大首絵。
「おたふく半四郎」とも呼ばれ、ふっくらとした4代目半四郎
の相貌を穏やかにとらえている。
寛政6年5月河原崎座「恋女房染分手綱(こいにょうぼう
そめわけたづな)」に取材。
「3代目大谷鬼次の江戸兵衛」の代わりに、「市川高麗蔵の志賀大七」と
「岩井半四郎の重の井」を、じっくり拝見してきた。
出来ることなら、こちらも見たかった。 (展示期間 1/2~1/14) ↓
〔作品解説〕
重要文化財
市川鰕蔵(えびぞう)の竹村定之進
大判錦絵1枚
寛政6年(1794)
国立東京博物館
この作品も、寛政6年5月河原崎座「恋女房
染分手綱」に取材。市川鰕蔵の前名は5代目
市川団十郎。江戸歌舞伎を牽引し、役者絵に
も数多く描かれてきた名優。写楽の描く鰕蔵
は、独自の誇張を加え、ある種の異様さを
たたえた印象的な描写となっている。
日本橋の版元・蔦屋重三郎が、寛政6年(1794)に一挙に放った
無名の新人・東洲斎写楽の役者絵28枚。雲母摺、大判の大首絵。
役者の顔の特徴を誇張し、デフォルメして役者の個性を大胆に表現
している。当代の人気俳優や名優ばかりのプロマイドだから、強烈
な印象を残さずにはおかない。ユニークといえばあまりにユニーク。
ファンにとっては、さぞかし不満だったことだろう。
新人発掘の才能がある名プロデューサー重三郎が見出してくれた写楽
の才能ではあるが、彼は10ヶ月余りで筆を折り、忽然と姿を消してしま
った。果たして東洲斎写楽は実在の浮世絵師なのか?
余りに短期間に多くの作品を発表したため別人説が出たり、本名、生没
年、出生地不明、浮世絵界から姿を消した理由も分からず、長い間、
写楽はミステリアスな謎の浮世絵師のままであった。
最近の研究の結果では、八丁堀に住む阿波徳島藩主お抱えの能役者・
斎藤十郎兵衛であることが、ほぼ確実になっているようである。
写楽の役者絵は、贔屓役者の美しいプロマイドを求めるファンからは
不評だったが、大首絵(今のプロマイド)で描いたのは、人気役者や名
優ばかりである。大胆に誇張されているからこそ、役者の個性が際立ち、
その人気も名優ぶりも納得させられる。
写楽が描いた名優のように、舟木さんも
声援を一身に受け、舞台で華と咲き、輝く
役者さんでいてほしい
・・・「大浮世絵展」で、写楽の役者絵を
見に行こうと思った本当の理由は、
これである。
東京会場の江戸東京博物館での展示は
なく、名古屋会場と山口会場でのみ展示
される、ギメ東洋美術館からの
「市川男女蔵の奴一平」
この作品も寛政6年5月河原崎座「恋女房
染分手綱」に取材したもの。
今まさに刀を抜こうとする奴の上半身を描く。
立役として活躍した役者さんということだが、
四条河原での立ち回りの場面がこれから
始まるのだろう。
新橋演舞場9月公演の舞台は、演目は決まったということだが、さて、
どんなお話になるのだろう。舟木さんの新しい役者像を期待して待って
いよう。