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彦根市・天寧寺
「五百羅漢の寺」、「萩の寺」ともいわれて
いる彦根城に程近い天寧寺。
幕末、同じ夢を見て走り抜けた井伊直弼、長野主膳、村山たか
は、それぞれの「花の生涯」を生きて、今、同じお寺で魂を休めて
いる。
疾風怒濤のあの時代を、激しく生きることになった厳しい自分たちの
運命を、三人はそれぞれにねぎらいながら、語り尽くせぬ想いを、もう
誰に遠慮もなく語り合っているかも知れない。
その反対に、もう言葉は要らず、
現世の疲れを癒すように、お互い
を静かに思い遣っているだけかも
知れない。
井伊直弼は、世田谷・豪徳寺に
立派な墓石もあり、手厚く供養さ
れているようであったし、
たか女も京都・一乗寺近くの円光
寺、金福寺ともに供養されている。
では主膳様はどこに・・
天寧寺で供養されていることを知るまで、長野主膳のその後だけが気
がかりであった。
「天寧寺」は、井伊家の私的なお寺として建立され、埋木舎で世捨て
人のごとく不遇を囲っていた時代の直弼は、足繁く天寧寺に通った。
一人の人間として心休まる時を過ごすことのできた天寧寺を、境内
に咲き乱れる萩の花とともに、青年時代の直弼はこよなく愛したらしい。
諸田氏の歴史小説では、天寧寺は直弼とたか女が密かに会える
大切な秘密の場所でもあった。
そして、主膳を交えた三人でお互いの”志”を確かめる合った、光溢れ
る「五百羅漢堂」。それを見ていた羅漢様は、最後までたか女の心の
支えでもあったように描かれている。
惨劇後、桜田門の土と遺品とともに直弼は、このお寺に帰ってきた。
ここは、若き日、直弼自身がこよなく愛した場所であり、井伊家のプライ
ベートな寺であるから、一般人は立ち入ることができない。
そのような理由で、ひっそりと天寧寺境内に直弼供養塔が建てられた
ということである。
主膳については、明治になってから(明治5年)、直弼供養塔の横に
「歌碑」という形で碑が置かれるにとどまった。
主膳の百回忌に当たる昭和37(1962)年に、ようやく「長野主膳の墓」
が改めて建てられた。そこには神道式に「長野主膳奥津城」と刻まれて
おり、写真を見るとかなり大きい石碑である。
日の本の道を極めようとした 「 国学者 長野主膳 」 が理解されて、
立派にここにいるように思える。
たか女の碑は、直弼供養塔と
主膳の墓の間に昭和48年
(1973)、慎ましやかに建て
られたということである。
舟木さんの演舞場1ヶ月公演「花の生涯 長野主膳~ひとひらの夢~」
を拝見しなければ、正史では名前の挙がらない主膳様や、たか女につ
いては、振り向くこともなく通り過ぎていったかも知れない。
”殿”である井伊直弼にいたっては、理不尽な独裁者ですらあった。
直弼の歴史における功罪、その直弼を支えた主膳やたか女の生涯が
是であったのか非であったのか、それはわからない。
批判は常に付きまとい、堂々と供養することができるようになったのは、
お寺の方の話では、戦後、つい最近のことだ、ということである。
時代の嵐に遭遇し、または時の権力により、安らかな最期を遂げること
を許されなかった男たちの復権は、あまりに遠かった。
舟橋聖一氏が、” 花と咲き花と散った井伊直弼 ” を 「花の生涯」 とし
て著されたにもかかわらず、やはり優に一世紀は掛かってしまった。
しかし、今では同じお寺の同じ場所で、三人の魂の会話が続いている。
直弼と主膳の横に、いつでもあでやかな美貌のたか女がいる。
一途な ” 志 ” で夢を追い求めていった三人は、いま ” 殿 ” を中心に
心休まる場所で、心安らかに語り合っていると思いたい。
このようになるまでのゆかりの方々、地元の方々のお骨折りが、
今となっては、この上なく有難いものに思われる。
( 参考:「滋賀文化のススメ」滋賀墓参ラー
井伊直弼公と長野主膳の墓 )
あの舞台の最終章を、息を呑むほどの美しさで飾った満開の桜は、
まさしく三人のそれぞれの「花の生涯」を祝福していたものだ、と
改めて思い至った。
いずれ彦根を訪ねたときには、彦根城の次に「天寧寺」さんにお参り
をさせて貰わなければならないだろう。
舟木さんの歌やお芝居に関連して、訪ねてみたいところが、嬉しいことに
着々と増えていく。
舟木さんの周りで、いつまでもこうして忙しく、楽しく過ごしていきたいも
の。
舟木さんとともに、一日でも長く、
私たちの 『 花の生涯 』 をも飾っていけますように!