それぞれの 『花の生涯』
~1~
【 井伊直弼 】
桜田 彦根藩邸で 姫をあやしながら
( 直弼 )
姫は、この世が楽しゅうてならぬというように、よう笑うておる。
この世は楽しいこと、うれしいことに満ち満ちておる。
そして一期一会。明日のわたしは、今日のわたしではない。
今、このときを精一杯に生きるほかはないのだ。
埋木舎の時代、風流に生きていた直弼は
茶道も熱心に学び、茶人として一派を確立
するほどであった。
利休伝来の心得を、自分の茶道の一番の
心得として、「一期一会」という言葉にした。
『 一期一会 』 とは、直弼が世の中に広めた
言葉である。
警護の供揃えを増やすように、との進言にも
人には天命というものがある。
刺客がわたしを襲おうと思えば、たとえどれほど
用心しても乗ずべき隙がある。そもそも供揃えの人数は
幕府が決めたものである。それを大老自ら破るというのは、
如何なものであろうか。
と聞き入れなかった。
安政7(1860)年 正月
直弼は、正装姿で描かせた自画像に和歌をしたため、井伊家の菩提寺で
ある清涼寺(彦根)に納めた。
あふみの海 磯うつ波の いく度か
御世にこころを くだきぬるかな
琵琶湖の磯うつ波が、打ち砕けてはひき、
また打ち砕けてはひくことを、何回も繰り返しているように、大老就任以来
難問が何回となく押し寄せてくる。
しかし、わたしは国の平和と安心を願って、全身全霊を尽くして心を砕いて
きたので悔いは残らない。
この時期、正装の自画像に添えられた歌であるなら、これは自らの最期を
覚悟しての、まさに ”辞世の句”である。
「一期一会」、「人には天命がある」とした直弼の、これが心情だとしたら、、、
信念を貫き心のままに生きたことに、悔いはない。
それどころか、直弼はもうすでに 「 受身捨身 ともにこれ布施なり 」 として
わが身を捨てて生きていたようにも思う。
まことの花を咲かせた「わが『花の生涯』」を誇りとして、あの雪の日の朝、
直弼は、振り下ろされる刃を受け続けていたのだろう。
直弼直筆のこの句を写し取った
歌碑が、埋木舎の近くに建立され
ているということである。
(参考:井伊直弼と開国150年祭
直弼二十二景
:「奸婦にあらず」文春文庫)
【 長野主膳 】
ある日、伊勢国に一人の若い侍姿の男が飄然と姿を現した。
菅笠の下から覗く色白、面長の顔、・・高い微量やそげた頬、凛々しい眉が、 ただ者とは思えぬ高貴な気配を漂わせている。 ただし、その男
長野主馬義言(しゅめよしとき)の、ここまでに至る前半生は不明である。
肥後国八代城主が父であるとも、阿蘇に縁があるとも、、。
ともかく、35万石の大藩、彦根の藩主井伊直弼と、前半生の
素性のはっきりしない国学者長野主膳(安政4年、主馬
より改名)は、お互いに27~28歳の頃、知遇を得て
師弟となり、以後主従の関係を結んでいった。
直弼が幕府内で頭角を現し、権力を握っていく
のに合わせて、主膳の直弼参謀としての役目は
大きくなり、二人の間には何百通かの秘密書簡が 交わされていった。
やがて、直弼は大老となり、主膳は「京の大老」
とまでいわれるような影の実力者になっていった。
主膳は直弼のため、彦根藩のため、幕府のために骨身を惜しまず働いた。 直弼亡き後、彦根藩内の政変による災いがついに主膳にも及んできた。
なぜだ、と叫ぶことも、命乞いも、天を呪うこともせず、辞世をしたためた。
飛鳥川 昨日の淵は今日の瀬と
変はるならひをわが身にぞ見る
「 時が経てば、わかってくれはる者も
おるやろ 」 と、さびしげな微笑を浮か
べて。
信念を貫き、心のままに生きてこそ咲くまことの花。
主膳の花は何であったろう。
井伊大老に最も信頼された家臣、というより、直弼とともに生きた主膳の、
主膳だけの花は、、。
かつて、ふたりが彦根城下の天寧寺(てんねいじ)へともに詣でたとき、
詠みあった歌
(直弼)
影うつる 池の錦のその上に
なほ咲かかる 糸萩の花
(主膳)
君がこの 今日の出でまし 待得てぞ
萩の錦もはえまさりける
あの惨劇から2年の後、
殿の元へ逝こうとする主膳の胸をほんの少し暖かくしたのは、
もしかしたら、共に夢見た山桜花ではなく、直弼と
心深く通い合わせた、あのときの萩の花だったかもしれない。
( 参考 : 「安政の大獄」 中公新書 松岡英夫
: 「奸婦にあらず」 文春文庫 諸田玲子 )