向井成一郎さんのライブと友人
今年も残すところあとひと月と思うと、
妙に気忙しい今日このごろです。
皆様、お健やかに日々をお過ごしでいらっしゃれば幸いです。
さて、先日、友人に向井成一郎さんのライブ
のお誘いをいただき、行ってまいりました。
(新宿ゴールデン街のちょっと向こうでしたので、もしかしたらネッスンドルマに寄って高沢さんにお会いできるか
と、思いましたが、それは時間的に無理がありました(;^ω^)
)
全て初めて聴く曲ですが、
メロディライン、歌詞、アップテンポの曲もバラードも、
聴く人の自分の世界の代弁者とでも言いましょうか、
鎧をジャラっと脱ぎ捨て、
素の自分になって受け入れられる安心感が漂います。
向井さんがおっしゃる、「自分の立ち位置を見直す気持ち」から出来上がったという
『北極星』
YouTubeでも聴けます。
人間不信で泣いて過ごしていた中野の心の刺を少し押し戻す力を添えてくれたと思います。
音楽の力は偉大です。
そんな事情を知らず、このライブに連れてきてくれたプラッシーに、心から感謝です。
この歳になって、友人と呼べる人が増えました。
小中高時代、心を開いて話をする相手がいたのかどうか、
自分のことですが定かではありません。
心理学的に、多分封印したい時代なのではなかったかと思います。
でも、旧知の人と改めて会う機会を得て、
その人生経験の過程を聴いたり話したりすることにより
旧来の人となりと連動して
過去のお互いの立ち位置とは違った新たな相互理解が深まり、
心からの信頼関係が成立している、ということが多いように思います。
中野は
ウソで膨らませた形骸を飾り立て立派に見えるハリボテより、
握りしめていればじんわり暖かみを返してくれる、河原の石っころの方が好きです。
もちろん、悪意あるウソをつかない聖人がいるわけはありません。
ただ、ウソを手段として心が痛まない、
自己完結して反省が存在しない人と、
苦し紛れ、あるいは意図的に嘘をついたとしても、
心にやましかったり、
ウソのままで終わらせないよう結果的修復を手がけたり、
ウソをつかなくていい自分になるよう努めるなど反省がある人と、
人種が違うと思います。
河原の石それぞれは転がりながら、ぶつかって削られて、
あるいは偶発的に持ち運ばれてそれぞれの場所にいますが、
その様々な個性は己のものであり、みんなそれ以上にも以下にもならない実体です。
つまり、嘘偽りなく、何ものにも変えることのできない足跡を集積した成果物です。
この価値を地上の星と例えるなら、
私が友人と呼べる人たちは、
そんな温かみを返してくれるであろうと信じることができる人たちです。
もう一つ、
言い訳するよりも、できることを実行することを旨としています。
言い訳に終止する人は、
おそらくその言い訳がなくなっても物事を動かさないことが多いのではないでしょうか。
なぜなら、言い訳は物事を成したくないという回避手段に過ぎず、
その決定は自分自身の判断にほかならないからです。
借りたものを返す気がない人が、身近な例でしょうか。
友人たちが人生をどのように過ごしてきたかを聞けば、
その誠実な諸事に「尊敬」以外の言葉が見つかりません。
そして、友人間には尊重と敬意の連鎖が生じます。
ゆえにこの友人たちの判断に、例え、何か想定外のことが起こったとしても、
その判断の所以を信頼できます。
この友人たちを「友人」と呼べる自分であるのかどうかが、
自分自身のバロメーターと言えるかもしれません。
そして、人間不信に陥っていた中野、
あの人を信じたかったなー。
長らく、漠然と、
生涯の友として大切に付き合っていくと疑いのかけらもありませんでした。
そして、あの人を「誠実な人」と信じた自分を、最後まで見捨てたくなかった。
ハリボテで終わる人と思いたくなかった。
でも、馬鹿だねー、
今も、本当は信じたい自分がいます。
やっぱり中に暖かい石を抱えてた
と思いたい。
音楽&時間薬であきらめと回復を待ちましょう。
中野
妙に気忙しい今日このごろです。
皆様、お健やかに日々をお過ごしでいらっしゃれば幸いです。
さて、先日、友人に向井成一郎さんのライブ

(新宿ゴールデン街のちょっと向こうでしたので、もしかしたらネッスンドルマに寄って高沢さんにお会いできるか

と、思いましたが、それは時間的に無理がありました(;^ω^)

全て初めて聴く曲ですが、
メロディライン、歌詞、アップテンポの曲もバラードも、
聴く人の自分の世界の代弁者とでも言いましょうか、
鎧をジャラっと脱ぎ捨て、
素の自分になって受け入れられる安心感が漂います。
向井さんがおっしゃる、「自分の立ち位置を見直す気持ち」から出来上がったという
『北極星』
YouTubeでも聴けます。
人間不信で泣いて過ごしていた中野の心の刺を少し押し戻す力を添えてくれたと思います。
音楽の力は偉大です。
そんな事情を知らず、このライブに連れてきてくれたプラッシーに、心から感謝です。
この歳になって、友人と呼べる人が増えました。
小中高時代、心を開いて話をする相手がいたのかどうか、
自分のことですが定かではありません。
心理学的に、多分封印したい時代なのではなかったかと思います。
でも、旧知の人と改めて会う機会を得て、
その人生経験の過程を聴いたり話したりすることにより
旧来の人となりと連動して
過去のお互いの立ち位置とは違った新たな相互理解が深まり、
心からの信頼関係が成立している、ということが多いように思います。
中野は
ウソで膨らませた形骸を飾り立て立派に見えるハリボテより、
握りしめていればじんわり暖かみを返してくれる、河原の石っころの方が好きです。
もちろん、悪意あるウソをつかない聖人がいるわけはありません。
ただ、ウソを手段として心が痛まない、
自己完結して反省が存在しない人と、
苦し紛れ、あるいは意図的に嘘をついたとしても、
心にやましかったり、
ウソのままで終わらせないよう結果的修復を手がけたり、
ウソをつかなくていい自分になるよう努めるなど反省がある人と、
人種が違うと思います。
河原の石それぞれは転がりながら、ぶつかって削られて、
あるいは偶発的に持ち運ばれてそれぞれの場所にいますが、
その様々な個性は己のものであり、みんなそれ以上にも以下にもならない実体です。
つまり、嘘偽りなく、何ものにも変えることのできない足跡を集積した成果物です。
この価値を地上の星と例えるなら、
私が友人と呼べる人たちは、
そんな温かみを返してくれるであろうと信じることができる人たちです。
もう一つ、
言い訳するよりも、できることを実行することを旨としています。
言い訳に終止する人は、
おそらくその言い訳がなくなっても物事を動かさないことが多いのではないでしょうか。
なぜなら、言い訳は物事を成したくないという回避手段に過ぎず、
その決定は自分自身の判断にほかならないからです。
借りたものを返す気がない人が、身近な例でしょうか。
友人たちが人生をどのように過ごしてきたかを聞けば、
その誠実な諸事に「尊敬」以外の言葉が見つかりません。
そして、友人間には尊重と敬意の連鎖が生じます。
ゆえにこの友人たちの判断に、例え、何か想定外のことが起こったとしても、
その判断の所以を信頼できます。
この友人たちを「友人」と呼べる自分であるのかどうかが、
自分自身のバロメーターと言えるかもしれません。
そして、人間不信に陥っていた中野、
あの人を信じたかったなー。
長らく、漠然と、
生涯の友として大切に付き合っていくと疑いのかけらもありませんでした。
そして、あの人を「誠実な人」と信じた自分を、最後まで見捨てたくなかった。
ハリボテで終わる人と思いたくなかった。
でも、馬鹿だねー、
今も、本当は信じたい自分がいます。
やっぱり中に暖かい石を抱えてた

音楽&時間薬であきらめと回復を待ちましょう。
中野