幼保一元化
2月7日の読売新聞朝刊において、幼児教育に関する記事が11面・17面に載っていました。
幼稚園、保育所は、それぞれかつての文部省・厚生省、現在文科相・厚労省の管轄として制度が分かれていました。
そして昨今、女性はその能力活用や収入を得る必要などによって出産機会が著しく減少したり、子どもとの時間を過ごすことが難しくなりました。これは育児に対する社会の無理解も手伝って、少子化を招く原因の一つになっていると考えられます。
そのような仕事を持つ母親が増えた今、幼稚園はこれまでのようなスタイルでは敬遠され、園児獲得のために経営手段として長時間の預かり保育の態勢を余儀なくされているのが現実です。
また、待機児童を生じている保育所はその預かり保育時間内のすごし方について親からの不満が生じています。
もともと、幼稚園は文部省管轄であることから、教育機関としての自負が強かったようで、単なる預かりを旨とする保育所に対しての優越と言うか、蔑視の感がありました。
しかし、子どもが育つことに、文部省も厚生省もあるでしょうか?
事実、子どもの興味を引き出し、その能力を培うことを理念として実践している保育所がありましたし、
自由闊達を掲げて一日の子どもの言動に無頓着な幼稚園が存在しました。
子どもに対する教育とは、如何に小さいうちにたくさんの文字が判別でき、大人が望む反応を実現する小さな大人にすることではありません。
幼い時期に、五感を刺激され、漠然とであれ生命や科学の神秘に触れることが、子どもの生きる力を育て、自分を取り巻く現象に対する興味を培うのではないでしょうか。
このことは、200年以上も前にかかれたルソーの『エミール』(岩波文庫版)からの理解でもあります。
それが、未だに新聞記事、玉川大学教育学部の大豆生田啓友(おおまめうだひろとも)准教授の
「本来の幼児教育は、外遊びや友達との交流を通し、子どもの好奇心や発想を引き出すこと。一部の園で行っているような英会話や読み書きではない」
「幼保一元化にともない、目指す幼児教育のあり方をよく議論し、質の向上につなげるべき」
との主張にあるように、現在もなおも幼児教育に対する根本的な成長の基盤が何であるかの議論は成熟しておらず、幼子の成長に対する共通認識は存在していないのみならず
商業目的の幼児をターゲットとする教材やお受験など、子のために良かれという親の心理は、確固たる信念を築くまでもなくさまよい続けている方が多いようです。
このことは、幼稚園を経営している知人より伺った、お子さんを通わせる保護者の要望からも伺えます。
幼稚園にプレ小学校を期待しているのです。
知人いわく、
「子どもの適応力をもってすれば、字を判別する、楽器の演奏をするなど、サルマネはいとも簡単である」
とのこと。
そんなことが教育なのでしょうか。
教育とは、良質な模倣もその一端であろうかと思いますが、それにも増してその子どもが生きる力を備えることだと考えます。
生きる力とは、目の前の問題に対してどのように解決するかを考え出す力です。これは、自己の利便だけでは成り立ちません。
時には残酷なことも、時には逃げることも、時には衝突することも、織り込み済みで、
そのお子さんが力を蓄えていつかリベンジしてこれで自分も相手も納得できるという解決を導くために、周囲がサポートすることが教育の原点だと思うのです。
親や教育者が代行できるものではないんです。
そして、子どもの成長、教育に、省庁の別が存在したこと自体、国の政策の失敗だと思います。
子どもが自分自身の存在自体が奇跡であることを感じ、
この世の科学の神秘に心を向け、
尽きせぬ興味を抱かせたなら、
その解明のためにこの子は自分の人生を大切に生きることの基盤を得たことになるのではないでしょうか。
抽象的な物言いですが、その実現は極めて簡単。
田んぼでカマキリとアマガエルとの決闘を見守ったり、
親子で近所の公園に出かけ、一緒におにぎりを食べて座っている時に
風向きや植物の種類の多さや草の香りに気付いたり、
特別な場所に行かなくても、日常の中に科学の現象はいっぱい詰まっています
科学に目を向けた幼児の体験については、石川さんがよく取り組んでいらっしゃいましたね。
私自身も、まだまだこれから子どもたちが生きる楽しさを感じられるような接し方を考えてまいりたいと思います。
中野