通教同期卒仲間
先日、6人でランチをともにしました。
たまに当ブログに登場する、秋田県の秀才さんもこの仲間のお一人ですが、
残念ながら、今回ご都合がつかなかったようです。
この同期卒仲間、卒業パーティー後にお茶を飲みに流れた際
(このとき、ファミレスで農作物の自給について大議論になりました!!!)、
友達の友達は皆友達状態で初めてご一緒した方がほとんどです。
学部も私と同じ人はお一人しかいないのですが、4年経った今も年に1~2回集います。
で、この方々、お見事に能動的に人生を築かれておいでです。
英会話を楽しむ、ジャズ歌手、FP一級に挑戦、簿記一級に挑戦、
そして、超能動的な方は、
ご主人の定年を機にオーストラリアに移住して日本文化の草の根交流!!
たった今も、よさこいゴールドコーストバージョンを用意して、指導しちゃってます。
(きょう、初舞台と言っていました!!)
加えて、豪州の幼稚園に行って日本語を教えたり
(そのために、通教経済学部を卒業するかしないかのウチに日本語教師の資格取得のための勉強をしておいででした)、
盆踊りを教えたり、なんともお忙しい!!
そのなかで、日本と豪州でのしつけについて、違いを感じるとのこと。
幼稚園で、日本のお子さんだったら、落ち着いて取り組むことが一般的であるが、
豪州ではとにかく集中させることが難しいと言います。
これは、家庭や幼稚園における、子どもの育ちのお国柄の違いと考えられ、日本のしつけは誇るべきとのこと。
ここで、私としては、日本のよさを喜ぶべきではあるのですが、
何とも同調できない側面があります。
このしつけというもの、曲者で、出る杭は打たれる、、、
個性の芽をつむと言う弊害が伴うのではないかと。
日本の教育現場にもそれは継続されているように感じています。
以前も述べたかと思いますが、教育とは、問題解決能力をはぐくむことが一番の目的であるべきであり、
洗脳を教育とすり替えることは相当ではないと考えます。
そして、その問題解決の手段が社会の幸福につながるものであるよう導くのがしつけなのではないでしょうか。
で、日本のしつけ、教育が何で問題の始まりかといえば、
個々の発意や発想を大切にすると言うより、言いつけを忠実に実行することを求める。
つまり、個の思考停止です。
これが、小さい頃から落ち着いた場を作り上げるということになります。
現行幼稚園教育の多くは成果を求め、楽器の演奏や文字の習得など、親に披露することを目的としていて子どもの無限の興味を引き出す教育の過程とはいいにくい。
そして、将来的に世界の中で秀でた能力を発揮する人たちは、そのような『しつけ』や『教育』を逃れる境遇にあった方々なのではないかと推定します。
ただ、3.11の被災において世界から賞賛された日本人のモラル、自律行動は、
やはり、これまでの日本の子どもの成長の中で培われたものの一端と言えるでしょう。
せっかくの世界に誇れる人間性に、なおかつ、世界に対する発言力を備えるために、
私たちはどのように、どのようなスキルを身に付けるべきか、
一人ひとりのたゆまぬ試行錯誤が必要です
中野